ハンマー④『教育崩壊』

文字数 5,466文字

 ハンマーはずっと不思議に思ってきた。
 テログループは、この国を新しい国に作り替えようとしている。なのに何故、政府は何も手を打たなかったのか?
 国民は指を(くわ)えて見ていただけなのか? 
 どうしても、合点がいかない。
 この15年間、ハンマーはそんなジレンマに悩まされ、時間だけが無駄に流れたような気がしてならない。
 ところが、数ヶ月前、やっとそのヒントを手にすることができた。ある書物と出会ったからだ。
 その著書名は、『この国の内戦には教育事情が深く関わっている』。
 その書物を読んで、ハンマーはやっと合点がいった。と同時に、胸のつかえがとれたような安堵と更なる怒りも覚えた。
 その内容をまとめると、次のようになる。

   ※   ※   ※   ※

(はじめに)

 いつの時代も、政府は国民に都合の悪いことを隠そうとする。だから、一般の国民は日々の変化に気づかず、突然変貌した母国の姿を目の当たりにすることになる。
 その原因を聞かされないまま、国民も変化を強要されるのである。
 しかし、なぜ国が変わってしまったのか、国民には知る権利がある。
 今がその時だ、と著者は強く主張して、本文に続く。

(第1章)『教育方針の変更 』

 この国では長い間、規律と社会貢献を重要視する保守的な教育方針を守ってきた。
 集団や社会を重んじる保守主義教育の目的は、平和で安全な社会を作ること。
 そのために助け合い精神や協調性を高め、情緒の安定を求めた。
 ところが、時流のせいか、今から70年程前(1980年頃)、それまでの教育論に大きな波が襲いかかることとなる。
 保守的な教育によって育てられた当時の若者たちが、古い教育方針に意義を唱えたのである 。もっと子どもたちの自主性と個性を尊重すべきだと。
 それが個性を重んじる自由主義教育である。目的は世界に目を向け、グローバルな人材や天才を育て、合理性を求めること。それまでの保守主義教育と新たな自由主義教育を比較すると、一方の利点が、他者の欠点になるほど、真逆の教育方針だった。
 経済を重要視する当時の政府は、この若い時流を危惧した。
 若者の抗議が長引くと、それまで積み上げてきた政策の邪魔をするのではないか、と。
 焦った政府は同年、若者の主張どおり、教育方針をそれまでの保守主義教育から自由主義教育に変更したのである。その場しのぎで。
 数年後からは、自由主義教育を訴えた若者たちが親の主流となる。
 彼らは時代遅れの服を脱ぎ捨て、流行の服に着替えるように、今までとは全く違う自由な考え方で子供を育てようとした。
 しかし、徐々に矛盾が目立つようになる。
 元々、自由主義教育は、それまでの保守的な教育に対する若者の反抗心から生まれた流行だった。確たるビジョンや計画があったわけではない。
 子供の自主性と個性を重んじた教育といえば聞こえはいいが、要するに放任主義で、都合のいいときのみ友達のような親を演じただけだった。
 その結果、 親と子の世代間でずれが生じ始める。
 古い教育方針に反対したとはいえ、規律と社会貢献を中心とした保守的な教育を受けて育った当時の若い親たちは、いわゆる一般常識を持ち備えていた。
 彼らにとって、そんなものは成長すれば自然と身につくものだと思い込んでいたに違いない。そこが甘すぎたのだろう。
 自由主義教育で育てられた子供たちにとって、それまでの規律や社会貢献は非常識に変わっていたのである。

(第2章)『教育崩壊』

 初めての事件が起こったのは、教育方針の変更が行われてから35年後(2015年)のことである。
 自由主義教育を受けた1期生の子どもたちが親になってからの話だ。
 教育方針が180度変わったわけだが、世代間によって、常識、価値観、考え方、感じ方など、ほとんどが真逆になり、世の中に混乱をもたらすこととなった。
 その結果、学校教育だけでなく、社会教育の崩壊にもつながる第一歩を踏み出したのである。

 2015年、事件はある男子児童の勇気ある告白から始まった。
「お父さんとお母さんから、毎日のように殴られている」
 7歳の少年の顔には、大きな痣ができていた。
 教師から報告を受けた児童相談所の行動は迅速だった。すぐに少年を保護し、その趣旨を家庭に連絡したのである。
 早速、両親も飛んできた。
 児童相談所の職員たちは両親に、虐待がどんなにひどいことか、教え諭すつもりだった。
 しかし、相手は可愛い我が子を平気で殴る非道な両親だ。
「これは立派な誘拐事件だぞ。訴えてやる」
 と逆に児童相談所の職員を脅したのである。
  それでも、男子児童のために職員は食い下がったが、常識が通用する相手ではなかった。
 だからといって、児童相談所の職員もひるんだわけではない。ただ、現実問題としては打つ手がないのだ。
 たとえ警察に通報しても、 証拠がない以上、民事未介入になる。
 親が否認すれば、どこまでも平行線だろう。
 公務員である彼らを守ってくれるのは法律だけだ。しかし、当時の児童相談所には、確固たる証拠がない以上、子供を親から引き離す法的権限は与えられていなかった。
 それでも強行すれば、本当に誘拐犯として訴えられるかもしれない。
 結局、両親の抗議に屈し、児童相談所はその少年を帰宅させるしかなかった。
 ところが、事態は悪い方へと進むことになる。
 数日後、その少年は救急車で病院に運ばれたのだ。消防署に連絡したのは母親で、子供が転んで怪我をしたと説明したという。
 彼女の話を怪しんだ救急隊員と病気側が相談の上、虐待の可能性があると警察に通報したのはその日のうちだった。
 やっと光明が射したところで 、最悪の事態を迎えることになる。
 病院についてから数時間後 、少年は死んでしまったのだ。
 その虐待した親たちは逮捕されて、裁判にかけられた。彼らは最後まで虐待ではなく、(しつけ)だと言い放ったという。

(我が子を殺したくせに、自己弁護としか思えない、とハンマーは怒りを覚えた。
 裁判で明らかになったことだが、彼らは前もって教師や児童相談所から家庭訪問を受けていたが、追い返したという。そのときに認めさえすれば、少なくとも殺人者にならずに済んだのに、とハンマーは不思議でならない。)

 もちろん、両親の言い訳は認められず、有罪判決が下った、と書いてある。
 世の中は、虐待親に復讐の機会を与えただけだと、児童相談所を責めた。
 マスコミも国の責任を追及した。
 この事件は社会問題視され、遂に政府も重い腰を上げざるを得なくなった。児童相談所に権限を与える法整備をし、虐待に対し重い罰を設けたと宣伝した。だから、もう大丈夫だ、と。
 国を信じた世間やマスコミは、これで虐待も落ち着くと安心したのだった。
 ところが、虐待は沈静化するどころか、巧妙に隠れて過激になっていったのである。
 世の中が気づいたときには、 手遅れだったという事件が毎日のように続き、多くの幼い命が奪われた。
 虐待する原因は親の身勝手なものだった。

○怒りの感情を抑えきれない。
○ストレスを子供にぶつけずにいられない。
○威張りたい
○自分がいじめられた腹いせ。
 など。

 その頃の子どもたちは、ネットの世界で『虐待世代』と呼ばれた。

(第3章)『虐待が収まらない理由』

 虐待がなかなか収まらない原因を、著者は次のように分析する。

理由①『プライベートスペースだから』
 家庭という他人が踏み込みにくい場所だから、周りの人間が気づいたときは手遅れになる事件が多発したのだろう。

理由②『政府の考え方が甘かったこと』
 政府は、自分たちが下した教育方針の変更が間違いだと、責められるのではないかと危惧した。その責任を取りたくないから、 消極的になったのである。それは意図的に隠すことと同じだ。
 しかし、と著者が文章で吠える。
 責任を取るのが政治家の仕事だろ。責任を取りたくないくせに、何故政治家になったのだ。
『政治家になると、裏表に多くのおいしい話があるのかと疑いたくなるのも当然だ』と嫌味を込めていた。

理由③『人間関係の希薄』
 それは教育方針の変更によってもたらされた、最も大きな変化といえるだろう 。
 人間関係は大事であるが、慣れない、あるいは不得意な者にとっては(わずら)わしく、憂鬱(ゆううつ)なものでもある。
 案の定、自由主義教育を主張した若者たちが親になると、煩わしい人間関係を避けるようになった。
 世の中では急速に核家族化、人間の無関係化が進んだのである。
 しかし、人は他人と接して、いろんなことを学ぶ生き物である。
 例えば、感情をぶつけた り、ぶつけられたり、傷ついたり、傷つけられたりしながら、自分の痛みを知る。
 同時に、どんなときに自分の感情をコントロールしなければならないかと、その解決方法も学ぶものだ。
 ところが、人間関係が希薄になったことで、自分の心をコントロールする方法を知らないどころか、自分にそんなことをしなければならない場合があることさえ気づかない大人が増加した。
 その上、最近の子供は大人との関係だけでなくて、他の子供ともあまり接しないまま、成長することになる。
 つまり、子どもに慣れていない、しかも感情をコントロールできない大人が親になったらどうなるかということだ。
 昔の人は頭だけでなく、生活の中で、肌で感じていた。

 子どもは、
 言うことを聞かないものである。
 駄々をこねるものである 。
 泣き出したら止まらないものである。
 病気や怪我をするものである。
 喧嘩をするものである。
 騒ぐものである。 
 嘘をつくものである。
 迷子になるものである。
 わがままなものである。
 おねしょをするものである。

 例外はないはずだ。

 追跡調査により、虐待の現状も明らかになった。
 要するに、その頃の虐待する親は、自分の機嫌がいいときはバカ可愛がりし、機嫌が悪いと平気で虐待したという。
 年齢が成人すれば、自然と精神的にも大人になるというのは迷信である。
 虐待で逮捕された親へのアンケートでも、虐待が悪いことは知っていた。頭ではわかっていても、してしまうのが現代の虐待なのである。だから、隠そうとする。子供にとっては最悪だ。
 しかし、とハンマーは思う。
 虐待親たちは気づかないのだろうか。子どもたちもやがて大人になり、自分たちは老いると。力関係が逆になったとき、子どもたちはどうするだろうか、と。
 やがて、思い知ることになる。

(第4章)『虐待はまだ教育崩壊の序章にすぎなかったのだ』

  結局、虐待が治まったのは、勇気ある告白をした少年の死から随分経ってからだった。
 その理由というのがまた、皮肉なもので、2030年頃、親から虐待を受けた子どもたちが若者になると、
『虐待する親から子供たちを守ろう』
 をスローガンにデモを決行するようになり、いくつか事件にも発展した。
 最初の頃は、政府や年配者たちも単なる反抗期の一種と軽く考え、しばらく様子を伺うことにした。
 この後に及んでもまだ、政府は思っていたのだろう。
 どうせ、国民の多くは政治に関心がなく、真面目だから、すぐ収まるだろう。今までもこんなことは何度もあったが、結局は元の(さや)に収まった、と。
 確かに、真面目はいいことである。真面目な人には頑張り屋が多い。しかし、なにごとも、多面性を有し、いいことばかりはありえない。
 真面目な人は我慢りすぎるから、いざ限界を超えると爆発するしかない。そこまでくると、感情が先走り、もう誰の声も届かなくなる。理屈や善悪など関係なく、自分がこれほど苦しんでいるのに、どうして誰もわかってくれないのだ、と感情が暴走し止まらなくなる。
 当時の政府は、そこを見誤ったのだろう。
 案の定、テログループを作り、爆破活動などを始めたのは、虐待に反対する真面目で有能な若者たちだった。
 その後、内戦へと突入したのはあっという間である。
 その上、テログループは親から虐待された少年少女を勧誘し、組織の規模はどんどん膨れ上がっていった。
 大きな都市部ではまだ国の警察隊が機能しているので、比較的安全だが、郡部では地方都市の若者の過半数がテログループに所属し、平然と親を殺す兵器と化している。

 この章の最後に年表が搭載されていた。

(年表)
1980年:~保守主義教育
1980年:教育方針の激変、急変 (保守主義教育⇨自由主義教育へ変更)
2000年:自由主義教育で育てられた第1期生が親になり始める。
2015年:虐待された少年の告白
2030年:テログループがテロ活動開始。教育崩壊。内戦勃発。多くの若い夫婦が子供を作らなくなる。

(ハンマーが追加する。)

2035年:「リアル子育てゲーム」開始
2050年:現在に至る

(第5章)『まとめ』

 虐待が収まらない最大の理由は、教育方針の変更そのものではない。変化があまりにも激変、急変すぎたからだ。その分、リスクの代償も重くなったのは当然である。
 何事においても激変、急変は良くない。戸惑いと混乱を生むだけだ。
 教育は幾世代もの親と子によって、長い年月をかけて(はぐく)み、作り上げられていくべきものである。
 是非、そのことを政治家に訴えたい、と著者はその書を締めくくった。

 読み終わったあと、ハンマーはどうしても著者に言いたいことがあった。
 著者は本文中に、『こういう結果になることは、 教育方針の変更が行われた時点でわかっていた』と書いていた。

「だったら、その時点で言え!」
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