加藤緑⑦『決心』

文字数 3,021文字

 緑が出かけようと、玄関のドアを開けたときだった。
「 どこに行くつもりなんだ?」
 突然、背後から呼び止められた。
 緑は立ち止まったが、振り返らない。
 声の主ならわかっている。
「結婚式の打ち合わせよ」
 緑は後ろ姿のまま説明した。
「こんな時間にか?」
「女子にとって結婚式は人生最大のセレモニーなの。いくら時間があったって足りないくらいよ。ま、男子の大地にはバカバカしいでしょうけどね」
 捨て台詞を残すと、一度も振り返ることなく、平然と玄関を出た。
 本当は倒れそうなぐらい心臓がバクバクしていたが、少しでも弱気になったら、逆に怪しまれると思ったからだ。
 ドアを閉め、やっと深いため息を吐いた緑は、 呼吸を止めていたことに気づく。

 緑は目的もなく歩道をぶらぶら歩いている、と見せかけて、 電話ボックスの前で立ち止まった。 
 周りに誰もいないことを確認し、素早くボックスに入る。
 流れるように受話器を持ち、コインを入れ、ダイヤルボタンを押した。
 キャラクターの子どもたちに携帯電話は許されていない。各家庭にも固定電話しかないから、彼らはその存在さえ知らない。 互いに連絡を取り合われては不都合が生じると思われたからに違いない。
 緑にも携帯電話は渡されていない。まだ信頼されていない、ということだろう。
 電話のコールが数回になったあと、やっと女性の声が出た。
 緑はわざと声色を変え、まるで甘ったるい女子高生のような話し方をする。
「 太陽いるゥ?……あたしいぃ? ヨーコォ……そういえばわかるのよ!」
 自分であることがバレていないか、緑は全神経を耳に集中する。
「太陽、ヨーコさんだって……」
 と受話器から聞こえてくる。
 羽賀美子の声は不審そうだが、ばれていない、と一安心。
「ヨーコ?」
 太陽も半信半疑で受話器を受け取ったようだ。
「友達は選びなさいよ」
 わざと相手に聞こえるように、母親は小言も忘れない。
「もしもし、太陽ですけど……」
 最後とばかりに、緑はもう一度、思いっきり甘ったるい女子高生の声を作る。
「お母さんにィ、わからないようにィ、返事だけしてねェ 。 いいィ? 約束よォ」
 仕切りに首をひねる太陽の姿が目に浮かんだ。
「う、うん……」
「あたしよ」
 と緑は自声で言う。
「あぁ?」
 と太陽が叫んだので、思わず焦ってしまった。いずれわかるにしても、今わかるのはまずい。
「大きな声出さないで。お願い」
 と、緑は全神経を唇に集中して、懇願した。
 あ、と悟った太陽の声。
 その後の沈黙。
 太陽が母の様子を伺っているのだろう。
 緑も耳をそばだてる。
「本当に最近の子は言葉遣いも知らないんだから、もっ……」 と美子の声。
 ぶつぶつと独り言を呟くことで、抑えきれない、いや、抑えたくないモヤモヤした気持ちを晴らそうとしているようだ。
 緑は長いため息をつく。
「ごめん」
 と息漏れの多い太陽の声。
 緑も秘めたる声で話す。
「大事な話があるの。子どもの頃、二人だけで作った秘密基地に来て。絶対誰にもわからないように。おばさんや大地にも。いいわね」
「大地にも……?」
 太陽の声は不思議がりながらも、とりあえず承諾してくれた。

 森の中を20分ほど歩いただろうか。
 加藤緑は秘密基地の前に立っていた。
 もう着いたの? と少し物足りない。
 あの頃はもっと遠かったように記憶しているのに……。それだけ時が流れたということだろう。
 確かに、身長は伸びたけれど、精神的に成長したかどうかは自信がない。以前は確かに自信があったのに、 この数日間で粉々に壊れるなんて思いもしなかった。
 緑がここに来るのは5年ぶりになる。
 秘密基地といっても、二人の子どもが廃墟の小屋に手を入れただけのものである。
 久しぶりに、今こうやって直視すると、ちゃちなおもちゃのように思える。
 それでも、緑は何にも代えられない愛おしい宝物のようにゆっくり見渡す。
 子どもの頃のワクワクドキドキ感はあのときと同じ、いや、今の方が思い出の分、輝いているかもしれない。
 この秘密基地のことは、大地にも話していない。文字どおり、太陽と緑だけの秘密の場所だった。
 だからといって、大地を出し抜いたわけではない。
 本当は5年前、大地への秘密の誕生日プレゼントになるはずだった。
 ところが当日、主役であるはずの当人が大事故に見舞われ、 それどころではなくなったのである。
 機会を逃したプレゼントはいつの間にか、製作者たちからも忘れ去られてしまったというわけだ。
 緑自身、突然閃いたのも不思議なくらいだが、だからこそ、これはいけると確信した。他に、太陽と二人だけで、落ち着いて話せる場所があるとは思えないから。
 ただ、太陽が覚えてくれているか、それが心配だった。

 漠然とした期待と不安を抱きながら、緑は古びたドアを開いた。
 秘密基地の中に入ると、幼い頃の思い出が、おかえりと包み込んでくれるようで、ふと涙ぐみそうになる。
「もう、あの頃には戻れないの?」
 緑は思わず呟いてしまった。
 大地の辛い過去を知ってしまった今、それは緑の切ない願いでもある。
 突然、緑の人生が大きく変わった。しかも辛く悲しい方に。
 とても、この運命についていけないと自信をなくしそうになりながらも、思い出すのはあの頃のこと。支えてくれるのはやはり太陽だった。
 そのとき突然、背後から聞こえてきた。
「わぁ、あの頃のままだぁ」
 相変わらず無邪気さの残る声と話し方が、緑には嬉しくもあり辛くもあった。
 振り向かなくても、誰の声かわかっている。
 振り向けば、もう戻れなくなることもわかっている。
 それでも振り向かないわけにはいかない。
「太陽……」
 いざ、話しだそうとしたものの、次の言葉が出てこない。話したいことは山ほどあるのに、先走る感情が頭の中を激流のように暴れだし、考えがうまくまとまらない。
 緑は太陽に全てを打ち明ける決心をした。それでも、いざ太陽を目の当たりにすると、迷ってしまう。この無邪気さを傷つけたくないと。
 一方、太陽は、緑の冴えない表情が、自分のせいだと思ったのだろう。
「緑、ごめん……」
「え?」
 不意を突かれた緑は、戸惑った。
「ぼく、バカだからさ、結婚の話を勘違いしちゃったみたいだね。でも、本当に緑には幸せになってほしいと思っているんだ」
 緑は嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、その分自分が許せなくなる。
「ところで、緑、話って何?」
「う、うん……」
 大地の辛い経験を聞いた緑は、太陽も同じ目に合うのではないかと心配でたまらなくなった。
 だから、思わず飛び出してきたものの、いざ話すとなると、悩んでしまう。
「緑、 どうしたんだよ?」
「ねえ、太陽、もしもだけど、もしも、あたしがこの島を出るって言ったら、どうする?」
 太陽は一瞬、視線を逸らせたが、直ぐに戻した。
 いつもの笑顔のつもりなのだろうか。泣き笑いのように見える。
「結婚したら、出ていくんだ」
 緑も寂しそうに微笑むしかない。
「だから、もしもよ」
「 緑が島にいなかったとき、思ったんだ。どんなかたちでも、ぼくにとって緑は大事な存在だってさ。だから、ぼくはどんなときでも、緑の幸せを願っている。それだけは忘れないで欲しい」
 太陽の優しさが、自分を強くしてくれる。緑はそう思った。
「 太陽、これからあたしが話すこと、信じられないだろうけど、最後までちゃんと聞いてね。お願い」
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