バイト

文字数 16,356文字

4TH


 日曜の朝って言えば、爽快なもんだ。なんたって休みだぜ。晴れてりゃ家族で込みあったクソ道路を、クソみたいに文句言いながら、クソみたいな休日をクソみたいな楽しみに費やさなければ損だといわんばかりに、クソみたいに早起きして、キャンプだとぬかして、団地のような川原に自慢のクソみたいなワゴンで駆け付けて、クソみたいなカレーをいかにも美味そうに食べるんだ。バカ野郎、この雨で日曜の朝からどこかに行こうって奴なんかいやしねえ。畜生眠いんだ。日曜の朝7時の電車、誰が乗ってんだよ。ガランとしてやけに静かだ。
 俺はさっきまで、ヨシヒコとタツヤとうろちょろしてた。雨のなか単車を走らせ、そりゃ楽しかった。が、眠いぞ。家に帰って、シャワーを浴びて、1時間も横にならないうちに起きなきゃならない時間になってた。クソみたいな朝7時だ。起きたら、ズボンはいて、シャツを引っ掛け、ブーツを履いて、菓子パンをもって駅に行く。とにかく寝る前の続きの朝だ。さっき、夜の紺色がだんだん薄くなって、灰色混じりの朝の景色が浮き出てきたので、「食パンが食いたくなった。」のを理由に解散した。朝の始まる瞬間は、物凄く静かで、誰にもまだ荒らされてない夜明は、叫びたくなるほど美しい。そんな時にはひとりになりたくなるだろ。そいつを独り占めしたいのだ。空気さえ、臭い炭酸ガスにやられてなくて、美味いんだ。そっから、少し時間がたって、まぁ、それが今時間なのだが、太陽が顔を見せる頃には、空気が、すべてが、太陽の恩恵を受ける。熱をもらうんだ。こんなクソ食らえの曇り空の下でさえ、空気が暖かくなるのを体がしっかり感じる。生かしてもらってるのか。そして出来ることならそこが終わりになるように眠りにつくんだ。夕方まで眠るのもいい。このまま寝てる間に世界が終わっちまってることを願うんだ。
 ところが、俺は生きてるし、世界も続いてる。寝る間も惜しく、早起きして、バイトに精を出す。ヨシヒコもタツヤも眠り続けることはしない。あいつ等もそこそこ休んだら、動きだすんだ。まぁ、俺よりゆっくりしてんだろうけどね。まさかこの時間にあいつら電車に乗って揺れる吊り革の列をを眺めていることはないだろう。ガンガンする頭で見るもの聞こえるものすべてにに頭のなかで当たり散らして、真っ赤で破けそうな目玉から目やにを出してみっともない大あくびをしながら電車の中でパンを噛ってないだろう。パンだって?昨日のタツヤの話を思い出した。炎天下のパン。駄目だ、笑っちまう。俺はパンを口から撒き散らしながら、腹を捩らして思い出し笑いをした。苦しくてしょうがないのだが、なんか、切れてて笑いが止まらなくなった。人の少ない電車のなか俺一人が泡を吹いて気が狂ったように笑う。揺れるたびに内蔵がかき回されてるみたいで気分が悪くなっていったが、笑いは止まらないで一人歩きしてた。おい、俺は自分を自分でコントロールできないのか?どうなってんだよ。
 電車の窓ガラスには雨が斜めに当たっていた。昨日の夜景は湿った味気のない平坦な灰色の景色に変わっていた。灰色の町は静かに目の前を過ぎていく。俺は心地よい水中から抜け出て、自由な空から飛び降りて雨の降る味気ない地べたをはいずり回っている。どこにいたって同じ事は十分承知だが、なんかちんけに感じたな。今じゃあもてあます以上にでかすぎて途方も無い息苦しい世の中が永遠に続いている。使い古した雑巾のような灰色の街が、空が、道路が、ベシャッて湿って続いてやがる。どこまで行きゃあいいんだ。
 郊外の緑は電車がガタゴト進むごとに減っていき、風呂敷を広げたようなベットタウンの景色は、居住区は縮小していき、ささやかだった商店街やらが代わりに増幅していく。目の前を物凄い速さで過ぎて行く草叢が騒音に悩まされているだろう家並みや商店街に変わり、遠くでゆっくり過ぎていく山並みは、背の高いマッチ箱のような建物に変わっていく。巨大な街の中心部に向かっていく電車の車窓は何らかの確信に迫っていくパノラマのようだ。曇り空が広がっていくような気がするんだ。あっという間に歴史は過ぎていく。 あのくそったれのビルやら家やら高架下やらスーパーやらパチンコ屋やら工場でごった返す街の過ぎる速さが遅くなる。電車が電線で溢れた空の下のサビやらカビやらで薄汚れたプラットホームにつこうとしている。俺は錆付いた窓を開け、首を出して、風と雨を顔全体で受けながら、方々から何本もの線路が一ヶ所に集結する心臓のような、迫ってくる駅の一点だけを見つめた。立ち食いそば屋の看板だ。看板だけ見つめて、電車の動きに身をまかす。何時の間にか、俺はそば屋の看板と対峙することになった。風切り音がビュウビュウ鼓膜を震わしている中、そば屋の看板は否応無しに迫ってきて、まわりの集まった線路やらたくさん並んでる電車やら張り巡らせた電線やら建物やらのごちゃごちゃした景色は消し飛んでいき、そば屋の看板が大きく目の前に迫ってきたんだ。俺の世界はそば屋の看板のみになってた。息を飲み込むように吐く。紺地に白い筆文字で「そば、うどん」それのみが俺にとって巨大になっていく。支配していく。
 そこでそば屋の看板の膨張は止まった。電車の扉が開き、俺は多少の放心状態のままふらふらとホームに降りた。きょろきょろホームを見渡し、発車ベルやら構内放送や雑踏に包まれ我に帰り気を取り直して、何事もなかったフリをする必要もないのに、人少ないホームで平然を装い「もしも願いがかなうのなら、まだ見ぬ知らない知らない街に連れていってよ、ああ、朝が来る前にぃ」エレカシの遅れてきた名曲を口づさむ。「へっ」って吐き捨てるように笑ったら、何かからふっきれるために人気のない駅の階段を目を覚ますように駆け登る。足元に気を着けろ。
 さっきのはなんだったのだろう、何がいっぱいになろうとしてたんだと考えながら、人気のない雨の日曜の朝の通りを傘をだらしなく持ってふらふら歩く。空を見上げる、いつもの曇り空だ。橋を渉り、そば屋の看板と昨日の夜の青信号はなんか似てるな。独りであることを急激に意識しはじめた。いつもは渋滞する今は車も少ない横断歩道を渉る。信号だけ見て横断歩道を渉るのは恐いな。何が来るか分らない。きょろきょろしないで気付いたように足元を見つめて、ズボンの裾に跳ねた雨水を気にしながら、灰色の空と、灰色のビル群を近くにあるが遠くに感じる。おっ、雨の匂いだ。なんとなくボンヤリ歩いた。川を見ると濁っていて、雨つぶの波紋が果てしなく続いていた。なんか帰って寝たいな。湿った布団にくるまれて、晴れた空の夢を見るんだ。雨音や、車が水を切る「シャー」って音のない夢だ。
 何時の間にか見馴れた場所、ミッション系の女子大学の裏の通りに面した酒屋の倉庫に着いていた。軽トラが二台、それと、あっ、俺が今から開けるはずのシャッターがすでに開いていた。誰か来てるのか?
 「おはよーございます。バイトの磯野ですが、誰か居るんですか?返事してくださいよ、開いてますよ。」
 俺はもしものことがあってはならないと、用心に用心をし、いつ飛びかかってこられても対処出来るように、中腰で気を張り詰めて暗く黴臭い段ボール積みの倉庫の奥に入っていった。言っておくが、俺がこうやって用心して奥に進むのは別にバイト先の酒屋の社長の財産を守ろうとか、正義のために戦おうとか、恐いもの見たさの好奇心のためだとか、そんなくだらない事ではなく、絶好のチャンスだからだ。悪者なら気兼ねなく思いっきり殴れるだろ。鉄入りのブーツを腹に打ち込みめり込ませても正義になるんだ。腕を掴んでへし折ることも出来る。そこらに転がってる酒ビンでヤクザ映画ヨロシクぶん殴って頭の鉢を叩き割るのも可能だ。なんだってオーケーなのだ。見つかっても怒られることもない。俺はこういうチャンスを普段から願っている。暴れたがっているのだ。だが、そのためには悪者にやられてはどうにもならない。殴るつもりが反対に足腰立たないほどのパンチを食らう。ひざまついて呻く。カッコ悪いの極致だ。間違いない。
 「おう、おはよう。」
 もの音がして、暗くて狭い倉庫の中とっさに振り向く。つまれた段ボール箱の角で肘を打った。腕に電気が走ってみっともなくオタオタしてたら、社員の弘前さんが缶ビールのケースを二つ抱えて突っ立っていた。
 「何やっとんや、朝から騒がしいやっちゃのう。狭いとこで暴れなよ、ケガするで。まぁ、ケガより恐いのはあのケチ社長だな。コップ酒一つ落として割っただけで、弁償どころの話しじゃのうなるけえの。あの、かまきり老人。」
 「なんだ弘前さんか、誰もいないはずなのにシャッターが開いてたから、泥棒でも入ったんかと思ったんですよ。それにしてもどしたんですか?日曜は社員の人は休みじゃないんですか?」
 「おう、昨日言わんかったかいね。いつもより配達多いけぇ、社員も出なきゃならんなって話し。それで和田のとっつぁんは家族サービスで出れんって言いよったし、神崎はデートでございで、俺はこれがこれで実家に帰ってるからって、ひま扱いで日曜出勤。」  弘前さんは「これがこれ」のとき小指をたてて、それから腹の上に丸く弧を描いた。奥さんが妊娠してるのだ。奥さんを前に一度だけ見たことがあったがとてもきれいな人だった。俺と歳は三つも違わないのに、三ヵ月後には親父だ。まっ、もっともこの人の言動はとっくの昔に親父だ。見た感じも温和な近所のお兄さんといった感じで若いが、どこかどっしりとした落ち着きがあり、同い年のうちのバカ大学生の兄貴とは大違いだ。
 「おう、それじゃけえ、二人でささっとかたずけちまおう。いつもよりだいぶ多いけえ頑張ろうで。とりあえず今日は軽トラじゃなくてボンゴで行くけえ、中ビン十五ケース、大ビン二十ケース積んどってくれ。八時前にはここ出るけえ、急げよ。あと、台車乗せるの忘れんなよ。」
 いつもの日曜は俺が一人で得意先の配達にいってる。夜をメインとする小料理屋に中ビン三ケース、飲み屋に中ビン一ケース、ビンジュース、味醂一ビン、いつもはそんなもんだ。日曜夜に繁盛する飲み屋なんて聞いたことがない。だから、土曜の配達は俺は社員の補助として骨がきしむほどビールケースを上げたり下げたりしてるが、日曜はガキの使い程度で、俺一人で取ったばかりの免許証ヨロシクで楽な仕事をさしてもらっている。それを了解で昨日の夜、というより今朝までフラフラしてたのに、ビールケース計三十五。どうせ、「峰」に行くんだろうから、あそこはエレベーターも無いし、酒置場も階段登って3階にあるしで、どうしようもないとこなんだ。二人で行ってもビールケース持って三階までの往復を十回はしなければならないに決まってる。俺は寝不足で頭はガンガンするし足もガクガクきてる。気持ちも悪い。
 だが仕方ない。昨日に比べてやけに重く感じるビールケースを台車に乗せてトラックに運ぶ。3段積みにして、パズルのように荷台にスキが出来ないようにうまく並べる。横向き四の、縦向き一で、荷台の幅にきれいにはまる。三の、五で、十五。二列と五ケース。雨がちらつく中、作業用の合羽が蒸れてくる頃には積み終わる。
 「おう、それでのう、アサヒのドライが、そう、三十五ケース。あとキリンが十ケースほど、サッポロが五ケース。わしの方は準備できたけぇ、手伝ったろう。」
 おい、まだあるのか?今日は日曜だろ、誰の陰謀だ?
 日曜の朝の飲み屋街「流れ川」はずらりと並ぶ朝の輝き失せたネオン看板はメチャクチャ弱そうで、貧相に見えた。昨日の夜には呼び込み、ポン引き、ビラ配り、ホステス、サラリーマン集団、はねっかえり集団、ヤクザ、チンピラ、街の不良ども、バカねーちゃんでごった返し、雨のなか、そいつらの酒臭い息、煙草の煙、体臭で空気が蒸せて澱んで、飲み屋街独特の「匂い」をプンプン漏らしていただろうに夜の開けた今は明るく一日が始まっているにもかかわらず、ガランと寝静まっている。この二、三時間前まで酔っ払いの千鳥足とタクシーとガラスにスモーク張った高級車で埋め尽くされていたはずの道路はガラガラで、ビールを山ほど積んだ俺等のトラックは配達専用道路と化した通りを我がもの顔で悠々と進んでいく。
 「それにしてもどしたんですか?こんなにビール積んで。今晩なんかあるですかね?」 「知らんのんか?今日が何の日か?」
 「わかりません。何の日ですか。」
 「今日はのう、あれよ、えーと、雨の日なんよ。」
 「あー、雨の日か。って、くだらねえ。」
 「ほんとは、結婚式が多くて、宴会用の酒がいるみたいなんよ。」
 「なるほど、で、なんで結婚式が今日に限って多いんですか?」
 「知らんよ、そこまでは。ほら、着いたで、はよ台車降ろせ。」
 飲み屋街はずれの小料理屋「峰」の前でトラックは止まり、俺は急いで降りるとトラックの後に回り荷台から台車を降ろしビールケースを積み始めた。誰もいない閑散とした流れ川の飲み屋街は静かでビールケースを降ろすガチャって音と、外灯にずらりと括り付けられたお人好しな桜のプラスチックの造花に細かな雨が当たる音ぐらいしか聞こえなかった。自然にそうなった廃墟のようだった。俺はとり残された野蛮人。道路には煙草の吸い殻、お人好しなチラシ、紙屑、ゲロ、コンビニ弁当のカスなんかがとっ散らかしてある。掃き溜めだった。犯された後みたいだった。いいとこ無しだ。汚れている。なんもかんもが。それを雨がゆっくりと流していく。きれいも汚いも水に溶かして同化する。分散していくのだ。夜、遠くから見れば結構きれい見えたところなんだろうが、ちかくで見りゃ、これほど白けて汚い所はない。きっと唾とか痰とか吐き散らしてあって、ガムの食いカスまでのっぺりとバラ撒かれたような、どうしようもないとこだ。そこへエネルギーとなる酒を持って参りました。こいつら飲んで憂さ晴らし。俺は汗掻き、一生懸命こいつを運ぶ。他のバイトはくだらなくて、むかついて、トラブル起こして続かなかったが、このバイトは変な話、気に入ってる。
 「ここはキリンだけじゃろ、いつも。」
 「はい、日曜はキリンだけですよ。」
 「とっとと運んで今日は「峰」の支店に行くけーね。あそこは倉庫が一階じゃけぇ楽なはずよ。そこが死ぬほど頼んだんよ、ビールを。行ったこと有るかいね?支店には。」
 「無いですよ。」
 「そうか、なら、楽しみじゃろ?」
 話をしながらビールのケースを運んでいる時、歩道のアスファルトを見て素朴な疑問が浮かんだ。飲み屋街独特のあの道路のしみはなんだろうかと。デッキブラシでこすらないことにはどうも落ちそうに無いしみ。こんなに雨が降り続いても「しみ」はちっとも落ちてなかった。何の「しみ」なのかな?雨がこいつらを流し去ることは出来ないのか。ちっちやそっとでは落ちない「しみ」。意味でもあるのかな。「じゃじゃっじゃじゃ、悲しみの果てに、なにがあるのだろう」エレカシの悲しみの果てを口ずさむ。なんか似てるな。逃げ道の無いときに思い浮かぶデビット・ボウイの「月世界の白昼夢」に。
 「おう、朝から元気じゃのう、鼻歌混じりに仕事かいね。わしの分もやっとてくれえ、わしはもう歳じゃけえ、体が動かんよ。」
 「何が歳ですか、三つしか変わらんじゃないですか。俺も今日はくたくたなんですよ。今日は任せましたから。」
 「ほんまよ、昨日の夜遊びまわっとんじゃろ、目の周りがひどいで。若いもんは元気があってええのう。わしも仲間に入れてくれーや。」
 「いいですよ。その代わり酒は飲まんですよ。酒無し。」
 「なら嫌じゃ、酒無しで遊んでも面白うない。わし飲み助じゃけーね、一杯やらにゃあ元気出んのよ。「おちゃけ、おちゃけ」、無けりゃ駄目じゃ。」
 「目の前に沢山有るじゃないですか。」
 「バカ、商品に手を出してどうするんや、目の前にあるからって飲んじゃいけんだろうが、じゃけえ、飲むときは隠れて飲まなきゃだめなんよね。」
 こんな人が飲む酒は嫌味が無くて、周りも楽しくなる。俺にとっては矛盾してるが、酒飲みの人に良い人は多い。そこら辺を頭に置くとビールケースの重さが何か違うもののように感じられる。
 「お世話になります。」
 挨拶をして、すでに仕込みが始まっている厨房にビールケースを持って入っていく。

 午前中のクソ多い配達が終わった。疲れた体に鞭打って、作業用の合羽を蒸らして上気した顔で酒屋の倉庫に戻ってきた。俺と弘前さんはこれまで何年間も話をしなかったように黙りこくって倉庫での残作業を黙々と済ました。一言でも今話してみろ、相手が死ぬまでのメチャクチャな取っ組み合いが始まるに違いない。指を目とか口に突っ込んで人を壊すような喧嘩が始まるのだ。
 後かたずけが済んで、丸椅子に腰掛けて壁に寄り掛かって徐に煙草を取り出して火をつける。弘前さんも隣に座って一服し始めた。これでようやく人間らしく話が出来る。薄暗い倉庫の中、両足を伸ばしてカビやら埃の匂いを嗅いで、煙を撒き散らす。蛍光灯の弱い光が煙に包まれた頃、そろそろいいかと弘前さんが話し掛けてきた。
 「今日はしんどかったのう。これが毎日ならやれんで、支店の倉庫が4階にあって、客がいるからって、エレベーター使えんかったのには参ったのう。非常階段何回往復したね?あれはやれんで。はははははは。」
 「きつかったですよ、途中で何回ビールケースをぶち撒いたろうかと思ったことか。狭い非常階段を行ったり来たりで、足が今でもガクガクですよ。膝が抜けるかと思った。」 「ほんまよ、店員の女の子が同情しとったで。見りゃわかるのに「たいへんですね」って、そういやぁ、あの子おまえに色目使っとたで、間違いないで、今度相手しちゃれーや、俺が話しつけとったるから。おっぱいもデカくて、ええで、ほんまに。」
 「あれは胸がでかいというよりは、デブなだけじゃないですか。嫌ですよ。弘前さんがどうにかすればいいじゃないですか。毎日配達行ってるし。」
 「ばか、わしにも選ぶ権利があるで、それにわしは女房だけで十分じゃ。そりゃそうと、腹減ったのう。飯買いに行こうで。」
 弘前さんは照れを隠すように、立ち上がって俺を急かしてこの場から離れようとした。かっこいいよな。十分って言葉は。実際思うよ、浮気とか不倫ってのがウジ虫みたいにカッコ悪いって。あれはたぶん人生のうちで大事な人を選びきれなかった無能な奴がやることだろ。感覚が暇だからどうしても鼻からけつまでセックスで、スペルマの海に溺れてやがる。そいつらの液って言うのは、唾や痰より質が悪いに決まってる。ムナクソ悪く死んで欲しい連中だ。楽楽園ってのがちょっと前に流行ったけど見てる、読んでる連中にろくなのがいなかったな。ついでに質が悪いのはそれを羞かしげもなく「よかったよ」とか「人間の本質が」等ともっともらしいことを誇らしくほざいていて事だ。まったく馬鹿なくせにだよ。俺は映画館に毒ガスまいてやろうと思ったね。バルサンでもいいかな。どうせ虫みたいな連中だ。間違いなくコロっといくに違いない。
 コンビニでポリエチレン臭いあったかい弁当を買い込んで、倉庫の二階にある詰め所でテレビをつけて見ながら食べる。男二人で飯食ながら楽しくおしゃべりってのも辛いのでこんな時はテレビがあると助かる。実際テレビってのは便利だよ。大して面白いことなんてやってないけど、暇つぶしにちょうどいい。まっ、テレビを生きがいにしてる輩もちらほら居るが、仕方ないだろう。ただ、芸能人なんかを身近に勘違いして感じてその噂を一日でも欠かさない奴は虫けら並みの脳味噌しか持ってないんだろう。これは間違いないな、もしくは可哀相な人なんだろう。これも間違いない。
 弁当をもぐつきながら、テレビを見てたら向かいの教会の鐘が響いてきた。ガラーンゴロン。
 「晴れとった頃にはいい音しとったが、雨が止まらんようになってから、くすんだ悲しい音になったで。なんか葬式みたいじゃ。のう、磯野、どうなるんかのう?このまま雨が止まらんかったら。」
 「そうですね、嫌になりますね。早く晴れりゃあいいのに、まぁ、天気は待つしかないんでしょう。」
 それ以上は会話が続かなかった。だからって気まずくなることもなかった。薄暗い埃っぽい詰め所で、ただテレビをボーっと見た。テレビはこっちの沈黙も退屈も生活もおかまいなしで垂れ流しに土足で押し込んでくるぐらいの厚かましさ、お人好しさ加減でしゃべり続ける。考えるスキも与えずに次から次へといい加減で無責任な、保険の勧誘のオバハンのごとくしゃべり続ける。 
 「どんな雨でも大丈夫。新素材ゴアテックスがお求めやすくなりました。」
 「ジメジメは吹き飛ばそう。食器乾燥機、除湿器、ドライエアコン。ただ今、乾燥家電セール実施中。」
 「ブルーチーズは大丈夫だけど、カビは食中毒の元です。気をつけて食生活。広島県広報。」
 「青い風を求めて、いま、人生は最高のステージへ。永遠の輝き。宝石、貴金属のアリタヤ。」
 「お昼のニュースです。長野で大発生したナメクジですが、今日住民と自衛隊が協力して一大駆除活動を行ないました。ナメクジには塩という発想のもと、自衛隊が日本海、太平洋側から塩を運んできて住民と協力して散水車を使い濃度の高い食塩水をまいていくという作戦でしたが、畑を持つ地元住民の反発を受け難航しているとのことです。自衛隊のコメントとしては「作物はすでに全滅状態で塩をまいても問題にはならない。それよりも足の踏み場もないくらい増えてしまったナメクジを駆除すべきだ」とのことです。
 次のニュースです。普賢岳の土砂崩れ復旧工事ですが、この雨のために難航しております。また、このような雨のためによる土砂崩れが増えており国会では、早急に対策本部の設置と公共事業への予算の見直しが始まっていますが、これまでの建設省との民間企業、ゼネコン各社との癒着が焦点となってます。 さて、雨続きの日本と違い、大旱魃の危機にある中国ですが、中国政府の発表により、今年に入って中国国民の半数近くの五億人が死亡したことが明らかになりました。
 これまでの中国政府の発表によりますと、旱魃のため作物も育たず、北部の農村は壊滅的な危機にあり、北京、上海等の中国中心部では、食料の大部分を輸入に依存していたのが、その輸入先の東南アジアが大雨による被害により農作物の収穫は激減し、輸出に頼ることが出来なく慢性的な食糧難にあり「二十世紀の文化世界にありながら多くの国民が飢え死にするありさまであり、ぜひとも、各国の助け、協力を願いたい。」と国連会議場で懇願とも言える発表をしましたが、各国とも天候による災害に悩まされており「それどころではない」と冷たい反応を示しており、日本政府も「隣国の危機に心を痛めてる。ぜひとも頑張ってほしい」とコメントだけを残し具体的な援助などの予定はない模様です。
 さて、季節の映像です。今日は紅葉の始まる鳥取県の大山の映像をお送りしたいと思います。あいにくの雨模様ですが、靄がかかって、水墨画のようですね。それでは引き続き各地のニュースです。」
 「変わって広島です。今朝六時十五分ぐらいに広島県南部で震度3、北部で4の地震が観測されました。震源地は鳥取県境港市で、震度5、日本海側では津波警報が出ました。また、この長雨のために地盤がゆるみ、地滑りが起きやすくなっているので山間部では注意が必要です。また、瀬戸内海側では津波警報は発令されませんでした。」
 「おい、今日地震なんかあったかいのう?俺はぐっすり寝とったから知らんで。」
 「僕も疲れて果てて寝てた時間ですよ。それにしても最近地震が増えてきましたね。あっ、でも台風は来なかったな。足し引きゼロですね。」
 「はぁ?何言っとるんや。よう分からん理屈じゃのう。はははは、よう分からんついでに下にいってお茶を持って来てくれんかの。すまんが頼まれてくれんか。」
 「いいですよ。」
 下の事務室に降りて湯沸器で湯を沸かしている間、あがっていく蒸気をなるべく吸い込んだり手で仰いだりして、蒸気として空に上がっていくのをどうにか止めてやろうとしたが、それがどんなに無意味かを考えたら馬鹿馬鹿しくなっておかしくなってきた。どうもいけないが一人で笑ってしまう。眠りが足りないのか、昨日タツヤが飲ましてくれた錠剤入りのコーラが頭の中に溜まっているのか定かじゃないが、お茶を入れるのに、笑って小便するみたいにブルブル震えてあちらこちらにお茶を飛び散らかした。お盆に乗せて持って上がると弘前さんが飛び散ったお茶を見て 「おい、地震でもあったんか、わしは気付かんかったで。それよりか、さっき臨時速報でアメリカで内戦が始まったって流れとったぞ。なんでもアメリカが赤組と白組に別れてがんばるらしいんじゃ。」
 まともだった弘前さんまでもがよく分からないことを言いだした。うちのおふくろもこの前、カメラを持って家の中をうろちょろしながら「ビスケットが大きくなったらどうしよう。」とブツブツ言ってた。そういえば家のバカ親父も「今日も仕事がたいへんだったな。」って、忙しいのを誇らしく、そう、きつい思いをしたことを「おまえ等にゃ分からんだろ」といわんばかりに「いやーマジで大変だったぜ、死ぬかと思ったぜ」などと、他人に「ほう、すごいね」って言われることを期待するような、バカがよくする、よくある傷自慢みたいな話し方で耳を向けてもない俺とおふくろに意気揚揚と話してたな。別に変じゃない、どこにでもある話のように他人には思えるだろうが、俺が生まれてから知ってるかぎりで親父が「仕事が大変だ」を言うのに辛そうに、惨めに言わないのを見たことなかった。そんなわけで、俺には明日がこの世の終わりなのだろうと思えるぐらいの変わったことだった。まぁ、どうでもいいことだ。雨のせいか、それがきっかけになっただけか知らないがみんなおかしくなっていく。それとも雨が流していってるのだろうか、本性を隠すみんなの外面ってやつを。もしそうだったらこの世は収拾つかなくなるに違いない。殺人鬼とバカと間抜けしか残らないではないか。あとは神さまのような人。
 昼からの仕事は広島駅のキオスク用の缶ビールを七十ケース持っていくことになっている。一人の時なら昼から二時間ほど休憩をとって、ゆっくり汗を掻かないように缶ビールのケースを軽トラに積んでいくのだが、今日は一人じゃないしサボるわけにもいかなかったし早く帰りたかったしのししし続きなもんで、とにかくヤケクソの気の狂ったような激しい動きで額に汗掻き、あっという間に七十ケース、トラックの荷台に積み上げた。その間「どうやったら能率よく運べるか、どう積めば隙間なくおけるか、荷が滑らないような処置は、この時間の交通量はどんなものだろう、どの道を行けばいいか、搬入用の台車はこの時間空いてるか、空いてなくて使えないのなら自分のとこのを持っていかなくては、雨が降るから荷台に防水シートを覆わなきゃならない。なんてことを考えながら、同時に仕事に集中することによって他のことが見えなくなることを、仕事で頭の中が一杯になることを実感し、それがけっこう危険な事のように感じられるとともに、人にうまく説明できないが、最近気付いて、生まれてからずっと思っていたことのヒントが隠されているような感じがしていた。こいつを考えると、何を考えてるか自分で分かんなくなって、考えを進めようとしてもグルグル同じ所を回っているような、自分に限界があるような気がしてならなくなる。とにかくイライラしてムシャクシャしだす。だが確実に自分の中にそいつはあって、そいつが俺にこう思わせる。自分にとってこの世が間違っているような、「なんか違うだろう、そうじゃないだろ。」という感情を沸き立たせる。こいつが俺をおかしな方向に引っ張っていく。理由もなく社会に対して不満を持たせて、何が悪いか、何がいけないか探しをさせやがる。酒が悪い、政治が悪い、大人が悪い、こんなことを考えてもどうにもならんし、イライラが溜まるだけだが、止まらないのだ。そんなことを考えながら、駅で缶ビールを飲んでいい気になってる社会の代表選手のために、俺が気に入らない奴らのために、ビールを運ぶ。柿の腐ったような匂いを世間に振り撒くのを裏で手伝っているのだ。自分のイライラの素を自分が率先して、なおかつ報酬をもらい汗掻き頑張って運んでいる。どうやったら能率よくできるかなんて考えながら、そいつで頭を一杯にしながら頑張っている。たぶん誰もが抱えてるだろう確信を消し去りたい不安感を抱えながら。なんだろな?
 例えば喘息持ちの息子のためにお父さんは煙突から絶えず煙のでる工場で息子のために頑張る。俺が頑張って、いい病院にいれてやる。待ってろ。しかし原因は工場の煙だった。恐らくこんな遣り切れない話だ。人のために一心不乱に頑張ってるつもりが、実は迷惑な話だったという悲しい話。世の中に悲しみの雨が降り続くわけだ。
 雨をたまに見上げて色々なことをバラッバラに考えを同時進行しながら仕事してたらあっという間に七十ほどの缶ビールのケースは積み上げられていた。
 「早いのう、おまえ酒屋の才能あるで。あれじゃのう、もうすぐで卒業じゃろ、ここに来いや、社長に相談してみい。」
 「いいですね、でも、その前に卒業出来るかどうかが見極め難しいんですよ。」
 「はー?高校なんぞ普通にいっとたら、卒業なんかできようが。お前別に不良ってわけでも無さそうじゃし、ええ子じゃないか。真面目でよう仕事するし。」
 学校とかでいい子だの真面目だの誉められたことは一度もないな。俺はあの軟弱でキチガイばっかの教師どもよりずっとまともで、誠実に生きてるつもりなんだが、どうもそこら辺が常識がありそうで実はガキのような思考回路しか持つ事の出来ない無菌室でオナニーと教科書とわざとらしい誠実さだけで育ってきた「先生」どもにとっては俺の誠実さは理解不能で目障りらしい。有法者と無法者は食い違ってるんだろうな。
 俺の目から見て、人格が形成される一番大事な時期にそいつらにすべてを任す危険な社会状態。親父、おふくろは大事なときに居やしない。居たからって、学校と同じ事を言ってるようじゃどうしようもない。まともに育つ奴はごく少数になっちまう。間違いなく俺も被害者だ。まともに育ってりゃもっと素直で賢くなれたに違いない。疑問を持たずに生活できるってのは考えただけでもウキウキするな。だったらいいのにな。俺は仕方ないから俺なりの誠実さを持ってやっていくしかないんだ。
 俺と弘前さんはトラックに乗り込みいつもどおりの雨の街を走っていく。俺がいつも一人の時そうするように窓をめいっぱい開けて、風圧に目を細めてふん反り返って煙草を吹かしていたら、傍から見たらかっこ悪いからやめんさい。と弘前さんに注意された。以前弘前さんが同じようなことをして同じように社長に注意されたそうだ。俺がみっともないっていうよりアウトローでカッコいいじゃないですかって言ったら、
 「わしもカッコいいと思っとたが、人がやるの見たら、やっぱみっともなく見えたで。なんか車の運転ぐらいしか取り柄が無いように見えるんよ。よう見とってみんさい。トラックの運ちゃんはそんな事せんけど、ええ車乗っとるバカで生意気そうな奴がよくしよるで、ふん反り返って大威張りでご自慢の車乗っとるじゃないか。そんななんも出来ん、出来てもしょうもないことしかせんような奴に見られたら嫌じゃろうが。のう、そこら辺が学校で、お前は誤解されとんのかもしれんのう。とにかく話さんかったら人間見た目じゃけーの。いくらいい人でも見た目が駄目なら、中身を知らん人には誤解される。逆に中身を知らんから、見て嫌な奴は駄目な人と思い込む。どっちとも損な話しよの、誰も悪くないのに、憎み合うようになる。それは良うない。分かるの?そこで解決策は二つ考えられるんじゃ、中身と見かけを同じとする、もしくは、中身を知るために話してみる。後のは結局、みんながみんなとってのが不可能じゃけえ、ようは人間見た目ってことになるんよの。それが世の中で、うまくやる奴は上手にこなす。それで嘘が生まれる。嘘つきが偉い世の中なんよ。うまく良く見せるのがこの世の中なんよね。悲しいのう。結局解決せんのよ、だったらどうするか?偉くなるんよ。本当の意味で、そしたら何が嘘で、何が本当か分かってくる。そのためにはまず自分からじゃ。素直になって中身と外見に違いを無くする。じゃけえ、気を付けえよ、ほんまはおまえはいい子なんじゃけえ、見た目なんかで損するなよ。」
 俺は何か反論したかったが、実際誰かから聞きたかった答だったし、反論するところが無かったので黙っとくことしか出来なかった。何も言えないだろ。正論で納得しちまったんだから。でもな、世の中悲しいって事が人の口からでると本当に悲しくなっちまう。頭の中が変な俺だけが持っとけばいいような悲しい憤りを他の人も持ってるなんて知ったら、それもこんな腐れ世の中のことで悩んじゃいけないまっとうな人が「悲しい」と思ってるなんて、本当に悲しいじゃないか。
 「おう、気にすんなや、暗い顔すんなよ。笑ってりゃあ良い人のように見える。これは間違いないけえの。なんや、気にしとることでも言ったんなら言ってみい。もし、わしが悪いんなら謝るけえ。」
 「いえ、ただ、思うところがあって、考えよったんですよ。良い人かそうでないかを見極める方法が二つあるって言ってましたよね?見たまんまと考えるか、話して理解するようにするか、もう一つありますよ。」
 「なんや、どんな方法があるかいね?」
 「殻をひっぺがすんです。本当の姿を露にしてやるんです。」
 「ほうか、それも出来るのう。どうやるか分からんが。まぁ、無理じゃろうけえ、素直にいけいや。今でも素直な子じゃ思うが、なんかたまにつっぱとるようなとこがあるのう。疲れようが。」
 「疲れるのは今からですよ。着きましたよ倉庫に。」
 「わかっとるよ、わしが運転手なんじゃけえ。荷揚げ場に車着けよる間に、お前は台車の準備をしといてくれ。それともって帰る分のビールケース下に運んどいてくれ。」
 「分かりました。ほんじゃ、行ってきますよ。」
 せっせとやりゃあ仕事なんてすぐ終わる。凍えるような搬入用の巨大冷蔵庫の中で汗をかくぐらい動けば肺の中が冷えきる前に終わってしまう。いつも一人の時はゆっくりとやる。だから始めてすぐに冷気が煙草の煙で弱った肺を苦しめる。ところが今日は疲れでくらくらしてるが、とっとと終わらすことが出来た。帰りのトラックの中であったかい缶コーヒーを飲む。一生懸命ってのも気持ち良くていいもんだ。そろそろ疲れと寝不足で考えることが出来ないほど頭が朦朧としてるので、火照った体に単純な動作が気持ちいい。一心不乱がここちよい。いらないこと考えずに集中する。その後のぼんやりしたコーヒータイム。これ以上のことがあるかな?今の状態ではこれが一番落ち着く良い状態だろう。何しろ仕事で頭が一杯だったので他のことが分からなくなってるもの。充実感さえ感じ始めてる。
 「おーし、着いたで後はビン整理したら終わりじゃ。今日も一日ご苦労さんってとこじゃ。」
 ビールケース置場でキリンのビールビンはキリンのケース、他のは適当にビンの整理をする。一人の時はこの時間は軽トラの中で2時間ほど昼寝をして時給を稼いでいるが今日はまさかそんなことも出来ないので、まぁ、いつものチョボチョボとした配達をサボり怠けて昼の三時でいつも仕事が終わってるのが、今日は全力で昼の三時。いつもと同じ時間に結局仕事が終わった。カチャンカチャンとビールのビンを整理する。飲み残しのビールの匂いがむっとする。飛び散ると思わず避ける、顔に散ったりもする。たまには煙草の吸いカスを入れられたビンもある。ニコチンとアルコールの交ざった匂い。こいつは毒だ。間違いない。毒を好む毒虫。どうも皮肉ばかりだね。
 「磯野くん、昨日給料日じゃったろう。なんぼ入っとたね。時給がええけえ、結構もろうとろうが。」
 ビールケースをかたずけながら弘前さんが屈託のない顔で聞いてきた。俺はビンの整理をしながら返答する。
 「五万円ほどありました。今月は土日とちょっとでましたから、結構ありましたよ。」 「ええねえ、高校生に五万円っていったら結構あるじゃろ?何に使うんね?パチンコかいね?遊びよったら無くなる使い方ね。ほいでもサラリーマンのこずかいより多いよね。悪い遊び覚えんさんなよ。まだ若いんじゃけえね。金銭感覚狂うと後で困るけんね。」
 「そんな無駄遣いしませんよ。貯めよるんです。貯めて一眼レフのカメラを買おうと思っとるんです。もうちょっとで貯まるんですよ。」
 「ほう、カメラが欲しいんね、結構暗い趣味じゃね。まぁ、面白いんじゃろうね、高いカメラだときれいに思いどおりに撮れるみたいじゃけーね。それで、なにを撮るんね。鉄道ね、速風二号とか、特急キハ56とかね、暗いねぇ。鉄っちゃんこと鉄道マニアじゃったんね、恐いねえ。」
 「違いますよ、鉄道マニアなんかじゃありませんよ。そんなに得体が知れんように見えますか。」
 「ほれじゃ、あれね、磯野くんおそらく、わりと男前じゃけえ・・エッチじゃねえ。高校生のくせに、だめよね。毛の写真なんて面白ないよ。」
 「誰がヌード撮るって言ったんですか。違いますよ。」
 「だったら、何なんね?何の写真を撮るんね?大事な日曜日まで潰して、一生懸命稼いだお金注ぎ込んで立派なカメラ買って、何を撮るんね。」
 「撮りたいものがあるんですよ。」
 「なんね、面白いもんなん?」
 「えーっと、」
 この時始めて気付いた。何を撮るかまったく考えてなかったことを。写真家に憧れて、自分の思う写真が撮りたくなって、そのために頑張りました。ところで俺は何を撮ろうって言うんだ?
 頭の中の酸素が急激に減っていく。真っ白になってくる。何のために働いた。何のために頑張って稼いだ。カメラのためか、カメラっていう物のためだけに、それを目標にして突っ走ったのか?畜生、カメラを手に入れることで頭が一杯になってて、写真を撮るっていう目標を見失っていた。何を撮るかはっきりさせないで高いカメラ買ってもしょうがないじゃないか。周りが見えてない、目標も見当違いの俺はなんてバカなんだ。
 「何を撮るんや?楽しみに秘密にしとくつもりかいね。まあ、なんか撮れたら見せてくれーや。それともこれから産まれるわしの子供を撮ってくれんか?ええカメラで撮っとってやりたいけーね。記念になるじゃんか。ついでにお前が写真家で偉くなったらそれこそ宝物になるのお。」
 弘前さんが楽しそうに話してる間、俺は雨に打たれてボーっとしてた。手だけは作業を続けている。とにかく頭を冷やそう。そしてマヌケな頭で考えよう。曇り空を見上げる。雨が目に迫って入ってきた。目薬を点眼するときのように、当たった瞬間目を閉じて世界を遮断する。
 「はよ終わらそうで、それで隣でラーメンでもおごってくれや、あそこ美味いんで。醤油味で、あっさりしとる。帰っても一人で食うようなじゃけえ、一人で食ってもおいしゅうないけえ、食って帰ろうや。ちと晩飯には早いが今日は腹が減ったでな。おい、しっかりせいや。ラーメン今日はおごってもらおう思うとったけど、ご馳走しちゃるけぇ、はよ終わらそうで。」
 ラーメンか、悪くない。寒くなりだしてこの雨だ。一日合羽着て動いていれば、体は冷えて腹も減る。あったかい物が美味い季節だな。ラーメン今日食ったら美味いだろうな。疲れたところにあったかい汁。ズルズルっと吸って、麺もズルズルって食う。胃の中から暖まりそうだな。考えるの、もう、面倒くさい。やめやめ。ラーメン食って良い気分になろう。
 「何言ってるんですか、今日ぐらいはラーメンおごりますよ。いつも食わせてもらってばっかりですし、ラーメン、最高っすね。」 それでいいじゃんか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み