ファインダー

文字数 8,366文字

6TH

 あれからも、それからこれからも雨は降り続いている。にっちもさっちもどうにも止まらない。いつまで経っても雨の音がどこまでも付いてきやがる。見上げりゃおそらく曇り空、おまけに雨が降り続ける。懐に抱える中古のニコンF10を覗き込みハーっと息をかけてポケットから取り出したやわらかいハンカチで軽く拭いた。
 俺は今、濡れないためにと考えて家から持ってきた、あんまり役に立ってないビニールのレジャーシートをアスファルトの地面に敷いて、カメラ用の三脚を脚を伸ばし、それを櫓にして半透明のビニールシートを上からかけて簡易テントを作って、その中でしゃがんで待っている。そんでもって、どうもこのテントは人の居る場所としては環境がまるで駄目なようだった。下からは雨が染みてきて、何も敷かずに雨の日に地べたに座ってるのと変わり様が無かったし、(合羽のズボンを履いてなけりゃ、この雨の中、パンツまでびしょ濡れになるのは、にきび面の我慢してる中学生があらぬものを覗き見してパンツ濡らすのとどっこいどっこいの早さだろう)十一月の寒い外気もどんどん中に染みてくる。とにかく寒い。救いようがあるのは雨が直接上から入ってこないことだった。それとここではゆっくりと考え事が出来た。誰にも邪魔されそうに無いからな。といっても、一週間前に智子ちゃんと合ってから、考え事には決着が付いた。もう考えることはない。あの時明確なヒントが見えたから後は待つだけだった。そういった流れで、それから学校も行かず、外にも出ないで、出来ることといったら食うことと、テレビを見ることと、沈むことと、本を読むことと、寝ることぐらいで、待っているものが自分の中から暴れだして内臓を引き千切り、胸を切り裂き、雨の降るこの世に飛び出てきて目にもの見せてくれるまでは何にもやる気が起きなかったし、やけに息をするのがしんどくて生活の大半は一番楽で頭を使わない、寝ることぐらいしか出来なかった。そうしているうちにチョロってはじめに小さくて見えそうで見えないぐらいの何かが出てきて、そいつがだんだんちょっとづつ近付いてきて頭のなかの容量を少しづつ進行し支配していき、ついには訳の解らぬままにそいつで解らないがはっきりしてるだろう何かが俺の中で出しっぱなしの風呂の湯みたいに満杯になり我慢できなくて溢れだした。その瞬間だった、何をどう撮ればいいか、何をしたらいいか解ったのだ。そんでもって解った瞬間から、俺の中の弾み車、錆付いた重い車輪が、抑圧された俺のエネルギーの重さに耐えかねてギリギリと錆の粉を落としながらゆっくりと動きだし、物は弾み車だから、動きだしたら遠心力による強烈なモーメントを得て、ちっとやそっとでは止まらない慣性力、回転力を手に入れた。ちょうどヨシヒコのバイクのエンジンが始動した時みたいに止まることが考えられないほどに俺の内燃焼機関は爆発し、物凄い力で動きだした。自分ではコントロールなんてできっこない力だった。俺は俺の中の力によって突き動かされている。自分の意志とは関係なしに意志を持つ俺の意志。分かりにくい話だが誰だって分かることじゃないかな。誰でもあるはずだ。損と分かってても、負けることが目に見えてもどうしようもなくやってしまう自分。理性は止めるが、本能なんて次元の低いところでなく、自分の意識下の意志が、意識外の意志を抑圧出来なくなり、背けなくなって無意識の意志の命令を実行してしまう瞬間。言っとくが、気に入らない奴をカッとなって真っ白な意識の中でいつのまにか刺し殺していたとは全然違う話だ。そんな泥臭いくだらない衝動でなくて、ほら、分かるだろう?どうしようもなく行動してしまうってことが。一週間前に俺が智子ちゃんに抱きついたようにどうしても止まらない事ってのは確実にあるんだ。どこにでも、いつだって、誰にでもあるんだ。間違いないに決まってる。
 俺はじっと石のように座り込んで夜明けを待っていた。狭くどうしようもないテントのなか、ビニールシートに当たるすぐ真上の直に聞こえるのパラパラとした雨の音を聞きながら明るい日と書く明日が来るのを白い息を吐いて待っている。時間的にはもう今日なのだが、感覚的には明日はまだ今日ではない。外はまだ真っ暗で、薄明るくなるまで時間がある。智子ちゃんが前に言ってたいつまでも続く朝靄はまだなのだ。
 それにしても智子ちゃんは今どうしているのだろう。湯気が立つ肉マンをハフハフ食って、あの日二時間かけて家まで二人で歩いて帰った。雨のせいか物凄く静かな夜だった。俺は話すことが出来て有頂天で思いつくあらゆる事を話し続けた。たとえば絵本のグリとグラは鼠のようでそうじゃないだとか、日本の国民総生産GNPが毎年上がっているが世の中全体とは相対的には下がっているだとかのどうでもいいことや、智子ちゃんは可愛いって、俺は前からそう思ってたなんて甘い戯言などをバラバラに順番に並べて話した。智子ちゃんは黙って聞いていて、ときたま俺の話してることと全く関係ないことを思いついたように「屋台のラーメンって雨の日大変ね、皿洗うのは楽なんだろうけど」などぼそっと言ったりしていた。弾む会話なんてものも、言葉のキャッチボールなんてのもなかったが、実はちゃんと興味を持って智子ちゃんが俺の話を聞いているものだと思って、思い込んで話し続けたんだ。でも、そのうち話すことも尽きてきて、だんだん間が持たなくなってきた。それでお互い黙って歩き続けた。そんな時に限って街中静かで、暗い中雨だけが降っててどうも落ち着かなかった。(車の走る音さえ聞こえなかったんだ。)こうなると俺は緊張する。手に汗かいて、どうしようかと、相手が何考えてるかと、嫌われてしまうなどとどうでもいいことを考えてしまう。訳も解らず「ごめん、マジで俺が悪かった。」と頭を下げてしまいそれですべてを片付けてしまいたい心境だった。喉がからからに乾いた。それで途中何度も缶ジュースを飲んだ。そのときは智子ちゃんは「すごいね、一気に飲んじゃった。いまので3本目、よく入るね。」って変なことに感心してた。和んだ雰囲気とすごいねって興味を持たれる快感。結局俺は二時間で缶ジュース十五本飲んだね。腹の中を半端に詰まったドラム缶のようにタポタポいわして。まぁ、どう考えたって仕方ないことだろ。で、気が付くと家に着いた。いってしまうと淋しくなるから、なるべくなら終わってほしくないような、それでいて、とっと快速電車が目の前を過ぎていくように通り過ぎてほしくもある一度しか訪れないだろうとっておきの記念日の時間が当たり前のように終わろうとしていた。智子ちゃんは「ありがとう」って言って隣の家に帰っていった。俺には何のことか解らなかった。俺は何にもしてない。でも、ありがとうって言われた。分かんないな。どっちかと言えば俺がありがとうと言いたかった。なにせ、分かったんだ。何を撮ればいいかを。何をすればいいかを。後は具体的なものが自分の中に出てくるのを待つだけだった。出てきたら意志が勝手に動いてくれる。そしてついに昨日動きだした。俺はそいつに間違いなく突き動かされている。
 腕時計の音がカチコチ聞こえだした。あれだけうるさいと思ってたビニールシートにあたる雨音がだんだん少なくなって、テントのなかに時計の音だけが雨の落ちる音よりはっきり聞こえだした。緊張してるのか集中してるのか知らないがスリルがあってまとわり着くような気持ちのいい感触だ。テントの中がえらく広いな。体育館の真ん中にいるみたいだって思ってたら意識がぼやけてきた。いつのまにか俺は真夏の誰もいない体育館のなかでバスケットボールを弾いてた。ダム、ダム、ダム、音が体育館中に響き渡る。シュートをする。外した。転がっていく、夏の光が強くて真っ白に見えるドアの外の世界に転がっていく。俺はボールを追っ掛ける。ボールが俺に近付いてくるのと少しずれて真夏の暑い外界への出口が近付いて向かってくる。眼がつぶれそうな強い光がどんどん大きくなっていく。バスケットボールも俺以上の大きさに拡大していく。スケールがメチャクチャな世界だ。頭のうえに弾むボール、長いストロークで上下している。出口から無限に広がろうとする強い光。こいつは重力がなくなってしまうだろうと思った瞬間体育館の屋根と床と壁が物凄いスピードでこっちに向かってきた。なんと閉じてきたのだ。俺は逃げる暇なく、悲鳴を上げて潰されるかぐごをした。なにがあっても眼だけは閉じないでおこう。俺は一気にサイコロぐらいの大きさに圧縮され潰された。体の八方から瞬間でねじり押し潰されたのだ。ムギュって。変な空想はここでおしまい。
 頭を水に濡れた犬が体をそうするようにブルブルって振る。眠りそうになってた俺をこっち側に連れ戻す。保温ビンに準備した熱いコーヒーを狭いテントのなかでコップに注ぎゆっくりと口に運ぶ。喉を熱い液体がはっきりと解るように通り過ぎる。カッと熱くなった。冷えきった肺やら心臓のあたりが熱を感じ震えて共鳴する。俺は生きている。雨が降り続けるこの地上に俺は生きているのだ。何時の間にかあたりがうっすらと明るくなってきた。ほとんど水平に位置する遠くの空が白けてきた。どうやら夜明けだ。夜明けは決して淋しくない。なんといっても薄いブルーが生活をする全体に何となくかかっているのが解りだす。この曇り空の万年雨降り模様でさえ、空の青さが、太陽の青い光線が地上に降り注いでいることが解るのだ。なんてでっかい物に生かされているのだろうか。俺の頭がどうかしててもこれだけは言える。ただ俺達ゃ、それとなく生かされてるにすぎないって。間違い無い。
 明るくなるとともに、ここが波止場ですぐそこに灰色の海が広がってて、夜には暴走族やカップルなんかが車を夜には停め、昼には船からクレーンが積み荷を降ろし、輸送トラックが入ってきてるだろう広い物上げ場があって、遠くに海辺特有の錆汁を垂らした倉庫やら建物が並んでいるのが見えてきた。瀬戸内海のしょぼい波がチャプンチャプンと聞こえてくる。煙草に火を付ける。一息入れ、飲みかけのコーヒーに口を付ける。コーヒーの匂いと煙草の匂いが合わさり、加えて雨降りの湿った地面の匂いがしてきた。がそいつを上回る海の匂い、海辺特有の磯臭さが嗅覚のすべてを支配した。こんだけ雨が降れば、真水が空から落ちたならだいぶ塩辛さが薄くなりそうなものだが、こんなに鼻につくほど磯臭いってことはやっぱり海の水は塩辛いんだろうな。当たりきな馬鹿なことを考えて独りクスクス笑う。あはははは、雨が降っても俺はもう大丈夫。俺は俺であるって確信を得たから何があっても平気だ。ついには俺には全部じゃないが、だいたい解ったからな。俺がそこらの人より思い込んで、考え抜いて、どうしても解明したいことを誰に教えを請うこともなく俺が納得できる形で自力で解ったからな。もし公衆の面前でうっかり口を滑らせてそんなこと言ったら俺のことを解ったつもりだとバカにする奴が三ダースは出てきてもおかしくない。あとの連中はよく解らないふりをするだろう。それでも構わない。なんたって俺は自分で思い込むことに成功したんだ。世の中の大体の連中が何となく、もしくは渋々、まわりの環境、事情からそうせざる得ないようになって、食物を無理遣りうっかり開いた口に押し込まれるような格好で、どうしても取る方法である「思い込み」を自分の考えで、間違いない俺の意志でやってのけたのだ。俺には出来たのだ!それを思うだけで鼻高々うれしくなってくる。たしかに孤独だが、孤高とも言えるんだ。俺には胸を張って、独り占めできるこの朝の誰にも汚されてない空気を思い切り吸って吐くことが許されているのだ。もっとも生きてる奴なら誰でも許されてるんだが、胸を張るには思い込みが必要だ。度の過ぎた奴がね。
 日が昇り、朝が始まり、新しい日がやってくる。音を立ててだ。一瞬、ドキっとする。ドロロ、遠くからやんわりと聞こえるエンジン音が近付いてくる。カメラを懐から取り出す。こいつはマニュアル操作しか出来ない奴だが物はニコン、中古であってもファインダー越しの俺の創った視界を忠実に再現してくれる。(在り来りの下手な広告のコピーみたいだな。)少しは練習して動くものを撮るのも上達した。後は待つだけだ。ドドドド、エンジン音がさらに近付いてきた。こめかみの血管がピクピクとハッキリ動くのが解るほど俺は沸点に達して神経揺さぶり興奮してきた。心臓がバクバクする。あんまり激しい動悸なんで喉から心臓が暴れて飛び出そうだ。苦しいな。さっきコーヒを飲んだばかりだが喉が渇いていけない。冷えきって冷たくなった手が感覚失いワナワナ初めての時のように震える。頭が、顔が、体が熱くなってきた。真っ白になりそうだ。サウナのようにミニビニールハウスの中がムンムン蒸してきた。こうなったら頭のすぐ上のビニールに落ちてきている雨粒が恋しいくてしょうがねーな。いっその事ビニールシートを取っちまおうか、俺は雨のなか熱くなった体を無理矢理冷まそうとする。仁王立ちで顔を上気させて歯を食いしばる。きっと今、ビニールシートを取って雨に濡れたなら汗まみれで浴びる真夏のシャワーのように気持ちいいに違いない。ひねくれた俺にだってこの雨が必要なことがよく解るだろう。なーに嫌っちゃいけない。だがカメラはどうする?濡らすわけにはいかないだろ。上を見上げる。ビニール越しに雨が迫ってきている。そいつで世界が一杯になるのかな?穏やかな気持ちだな。
 バラララララ
 突然、空気を張り裂くけたたましくエンジン音が大音量になった。百メートル遠くの倉庫の影からバイク姿がの思ったとおりに現れた。遅れてきたヒーロー登場。それにしてもヨシヒコのバイクはうるさいな。だがよく来てくれた。ありがとうヨシヒコ。お前は間違いなく俺の友達だ。ヨシヒコは止まらないでこっちににやって来るに違い無い。俺はカメラをかまえてファインダー越しに迫ってくるヨシヒコとバイクにピントを合わす。緊張は張り詰め、体内で荒れ狂う心臓の苦しいぐらいの高鳴りが、早くなった鼓動が、向かってくるヨシヒコのSRのエンジンのパルスと信じられないほど自然に、暴力的に同調した。五千回転は楽々と越えてるだろう。いや、それどころじゃなくレッドゾーンを回転計の針がうろついている程のかなり早い鼓動だ。頭の中の血管が破裂してぶっちりと切れそうだ。詰まるように息苦しい。やたらと手にじんわりと汗をかく。カメラがうっかり俺の手から滑り落ちそうだ。ここでフィルムをいそいで巻き上げシャッターを切る。バイクはさらにこっちに迫ってくる。ファインダーの中のヨシヒコの乗ったバイクが大きくなってきた。ファインダーという俺の視界が、世界がバイクで充たされていく。ここでまたピントを素早く機械のように合わせシャッターを切る。ここから忙しく手動の連続でシャッターを切り続ける。
 どうだ、冷たい雨の降る視界のなかの世界が、忙しなく動き、潤滑油に包まれてるが、鉄の駆動する歯車を轢らせ、内燃機関の燃料による暴力的な不可避な爆発音を轟かせ、排気管から熱煙を吹き上げて突き進む鉄の塊である機械を操り、乗った、あの今生きてる奴らがするだろう表情の人で充たされていく。けたたましい止まることないエンジン音が迫って頭の中が一杯になってくる。聞こえてくる、響いてくるこの音もフィルムに収めることが出来たのならなんて素晴らしいことになるだろうか。とにかく真っ正面に迫ってくる。世界がヨシヒコとバイクでどんどん一杯になってきた。バイクが近付くほどシャッターの間隔は短くしなくてはならなくなる。でないと一瞬一瞬に間に合わないのだ。そいつを見て前に進むとそいつで世界が一杯になる。それに伴い頭の中はそいつで吸い取られて空っぽの真空状態になっていく。頭の中が何かで一杯になるき、考えることがなくなって、なぜか、ヤケクソなのか、いい気持ちになる。これが俺の言いたいことだ。そしてその行き着く先どうなるかが俺の知りたいところなんだ。大体想像は付くけど、どんどん迫ってきてその後どうなるかを見たいだろ、どんな感覚なのか誰だって知りたいだろ。
 ファインダー越しの世界はハンドルとヘッドライトとエンジンとタイヤだけになった。ヨシヒコは腕しか見えない。一つ前のコマでヨシヒコの顔が一番大きくなったが、その表情ってのは・・・俺は奴に謝らなくてはならない。友達だから、俺のためだから仕方ないって許してくれることを信じて、これが終わったら本当のことを言おう。いつのもしたり顔をして許してくれるだろう。でもな友達にあんな表情をさせちゃいけなかったな。マジで悪かったよ。でもな、ヨシヒコのその世の中のすべての矛盾、悪事に憤りを感じて怒りに満ちた、親にでも裏切られた、うっかり信頼をすべてドブの中に失ったような悲しそうな、しかしながら荒野を進むしかない意志を剥出しにした、その顔ってのはどうしても必要だったんだ。
 さらに迫ってきた。もう音が聞こえない状態になっていた。音なんて忘れていた。たしかに俺の頭の上では豆まきみたいに雨粒がビニールを打つパラパラって音がしてたし、すぐそこにある海からだってずっと昔の洪積世から小さな波の音は止まることなくしていた。街も朝になり屈託なく動きだしていつものような車の走る音だって遠くから聞こえてきてたに違いない。迫ってくるものに興奮して調子狂ってる速さの心搏音だって体内から響いてきてるのに、まるで聞こえてこないのだ。あの迫ってくるヨシヒコのバイクのエンジン音さえも聞こえてこないのだ。無音の世界だ。その中でシャッターを切る。バイクが近付くのと比例して空っぽの真空状態になり、俺の頭は一切の考え事なんてしなくなる。ただ命令された運動神経がピントを正確に合わせて機械のようにシャッターを切り続ける。ヘッドライトと前輪タイヤとフロントフェンダーだけがファインダーに見えた。シャッターを切る、ファインダーが一瞬閉じる。再び開く。ファインダーの中は真っ黒だった。視界が黒で充たされた。世界が闇に閉じたのか?あっそうか、タイヤだ。タイヤで視界が一杯になったんだ。そりゃそうだ、俺は地面に座ってカメラを持って見ていたのだからな。ははは、タイヤか・・ ドン!
 強い衝撃が俺を襲う。一瞬のうちに天井と地面が解らなくなった。あれ?変な所に空が見える。俺の腕はどこだ?足はどっちに向いてる?こりゃ浮いてるな。くらいなあ。目に見える視界に黒い淵が見える。昔の映画フィルムのようだ。海が左上に、波止場の係船柱が右下に、倉庫は逆さまで。それにしても考え事が十分出来るって事は浮いてる時間がずいぶん長いなあ。いや、ゆっくりと感じられるのかもしれんぞ。いわゆる走馬灯って奴だ。死ぬ間際に何を思い出そう?そうだ、夕焼け空に飛行機雲が見たいな。そいつを写真に撮るんだ・・・そうだ!カメラはどうした?あれはどうしても守らなきゃ。
 ドスン。
 地面に叩きつけられた。一瞬真っ暗闇でこりゃ死んだなって冷静に、この時始めて冷静になったが、真っ暗やみのなかで体に鈍い痛みがゆっくり走って生きてることを確認して、その痛みが本格的になる前に目をゆっくりと開けた。視界は一瞬真っ白で、光に慣れてくると右目のすぐ右はアスファルトで、小さなボコボコの間に水が流れているのがよく見えた。地面スレスレから世の中を見ると地上はどこまでも広がって見えた。曇っていようが空が高くてでかい。広がってる。右の顔が痛いのに左目が上を必死で向いてくれてるのがよく解った。どうやら俺は戻ってきた。そこで急に音が一気に聞こえてきた。右の地面に付いてる耳には低いうなりのような地鳴りが聞こえてきた。左の耳からは街の音、車の走る音、波の音、風が吹く音、地上の音が全部聞こえた。ただ、あの音が、聞こえるはずのヨシヒコのバイクのけたたましい音が聞こえてこなかった。
 「おーい、どうなってる?」
 そう言ったつもりだが、どうも口からうまく言葉が出なかった。せっかく智子ちゃんと話すことが少しは出来るようになったのに、また無口なシン君の逆戻りか。やってられんよ。それにしても動いて確かめなきゃあな。よし!あれ、力が出ない。動けよ俺の腕。おろ、ちくしょう。このやろう。
 雨が脱け殻になった俺の体を冷やしてくれてる。役に立ったな、こんなクソ雨でも。それだけは間違い無いな。
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