親友

文字数 13,363文字

 1ST

 学校から帰ったら、隣の川田家親子、ヨシヒコとヨシヒコの親父さんが玄関先で「おい、わしに代われ、おまえじゃ駄目じゃ、わしに代わらんか。」「父さんにゃ無理だよ。腰が悪くなるって。それにこれ、俺んだぜ、」「なんなら、何が無理じゃあ、もういっぺん言うてみい、とにかく代われ、わしに貸してみいや、ええ具合にしちゃるけぇ。」なんて具合にギッコンバッコン楽しそうに遊んでいた。もちろんヨシヒコの親父は広島弁丸出しの感情剥出しで、丸太のような腕を組み、眉間に皺寄せ怒鳴り散らしていた。ただヨシヒコの方も慣れたもんで、むかつき許容量まで耳に入れて、それ以上の我慢できない、ののしり、ヒステリックな高圧的な態度、絶対親父君主制度などはうまく聞き流していた。頑固親父と反抗期ちょっと過ぎの息子のぶつかり合う会話。隣の川田家じゃあ年がら年中くすぶったののしり合いが垂れ流しの電波のように続いていて、夕飯どきなんかはひっそりと最後の晩餐を毎日繰り返してる我が家に壁越しにくぐもった声で「出てけくそガキ」「ぶちまわすぞ」「やってみーや」「二人ともやめんさい。」「お兄ちゃん、お父さん」といった気の滅入りそうな会話をそれこそ毎日欠かす事無く提供している。ただここで一つ注意しとかなきゃいけないのが、我が家、いや俺だけかもしれないが、隣の気の滅入りそうなののしり合いの会話が嫌いというわけじゃないということだ。というよりも好きで俺は間違いなく憧れているんだ。実際あの親子は憎しみなんてもってない。だいたい、もしそんなもの持ってたら、今頃どちらかが墓の中で、どちらかが、たぶん豪傑親父の方が檻の付いた人里離れた別荘に縞の服着て過ごしているに違いない。ガタガタと罵り合おうが、無事に生きてるって事は、とにかく親子であることに間違いないんだ。今だって俺の目の前でお座成りの泥試合をイライラと楽しそうにやっているんだ。
 ところで一回試しにうちの親父に理由なくケンカを吹っかけて大声で「ぶち殺すぞ!」と言ってみたら、親父は青い顔してがたがた震えて何も言わなくてそのまま襖しめて引っ込んで、次の日の朝、母さんが顔に青あざをつくっていた。それを目にしたとたんに間違いなく本当にぶち殺してやろうかと思ったが、会社から帰った親父がくたびれた背広に「親子の対話」なんて陳腐な本を小脇に抱えていたもんだから、金属バットを握って俺は待っていたが、見たとたん殺すとか殴るとかそんな気は失せて、ただ呆れるだけだった。だってそうだろ、俺はなんて言えばいいんだ?とにかく、俺が言いたかったことは、ヨシヒコの所は血の通ったいい親子ってことなんだ。うちにないものが隣にある。うざったい頑固親父も隣の芝生。年柄年中続くのしり合いも楽しく遊んでいるようにしか見えないんだ。つまり気が滅入るというのはそこん所だ。
 「おう、ヨシヒコ、なにギッコンバッコン遊んでんの?仲間に入れろよ。上がったり下がったり、アップ・アーン・ダウン。楽しそうだな、俺に代われよ。」
 「うるせえぞシン。・・ハア・・これはこれで難しいんだよ。・・よし・・あ、駄目だ・・ハァ・・やってみるがいいさ。まあ、おまえがやってうまくいったら悔しいから絶対代わってやらんけどね。・・よいしょ・・あららまた駄目・・はぁ・・まぁ、おまえはペダルでも磨いとけよ。」
 「なんじゃい、もういっぺん言うてみい。ちっとばかりいいもんが手に入ったからっていい気になんなよ。そんなこと言う奴には・・・まあ今は言わんけどな。そのうち天罰下してやるよ。」
 「なら、何かあったら、全部おまえのせいね。請求書まわすから。・・よしかかれ!・・・あら、駄目なのね・・」
 「おじさんコンニチハ。これはいつ来たん?ヨシヒコくんまだ受験を控えた高校生なのにこんなん乗せといてええん?」
 「ほうなんよシン君。こんなん乗っとらんで教科書の一ページでも読んどきゃええんじゃけどね。推薦で決まるけぇもう勉強せんでええ言うとるし、私立じゃが県内の大学に行ってくれるし・・・あ、シン君はどうするんね。工業じゃけぇあれね、就職するんね。」 ステテコにランニングシャツの草履ばきのヨシヒコの親父さんが自慢の我が子の事を照れ恥ずかしいそうに話し、はっと気付き、後半は自慢したことを申し分けなさそうに、そんでもってそれを誤魔化すように、しかし一番聞いてはならないことを俺に聞いてきた。
 俺は普通科に入る頭はなかったし、工業高校だからといって先の見える身分ではなかった。反抗期真っ盛りの落ちこぼれの問題アリに何処の先生が就職案内なんて親切なことをしてくれるんだい?だいたい卒業さえ危ないといわれてるのに!そういえばこの前も先生がうちまで母さんに器物破損の請求書と俺に関する土産話をどっさり事務的に持ってきやがった。奴らはまだ解らないのだろうか?そんなトンマなことしやがるから、俺が暴れるってことを。ってそんな事情なんてヨシヒコの親父は知らんだろうし、知ってて言ったとしても別に腹は立たない。知らないことは別に罪じゃない。ただ、ヨシヒコがバツの悪い顔をしてこっちを見ていたが、俺は気にするなって合図してやった。口を半開きにして鼻のまわりにしわを瞬間寄せる。ヨシヒコは受理したと瞬間したり顔をする。小学校の時からの決まった合図だ。
 「もしのう、あれなら、わしに言えばなんとかしちゃるで。シン君根性有りそうじゃし職工ならわしの所にくればなんぼでも紹介したる。夜勤でもやりゃあ、車もすぐ買えるで、ヨシヒコみとうに、こがーなオンボロ乗らんで済むで。」
 「止めとけシン。うちの親父みてーになっちまうぞ。頭の中かび生えてコチコチに固まって頑固になっちまうぞ。家帰って酒飲んでテレビ見ておれらに当たり散らす。この繰り返しだ。・・・よしかかれ!・・駄目だ。はぁ・・こいつと同じでギッコンバッコンの繰り返しだ。いつまでもくすぶり続けるんだ。まぁ、それも結構いいもんだけどな。・・どりゃ・・駄目。ちと休憩。」
 「偉そうなこと言ってできんじゃないか。わしに代わってみい。なんもできん者が!貸してみい。おまえは口うるさくしてくれる者が居るぶん幸せなんじゃ、よう覚えとけ。」
 ヨシヒコの親父さんは目を三角にして筋肉の動きがぴくぴく見える血管の浮いた丸太のような腕でヨシヒコを払い除けると、職工のゴツゴツしたグローブのような手でハンドルをしっかり握り、ヨシヒコのように跨がって全体重を掛けてキック・スターターを振り降ろすようなことをしないで、跨がらずに自転車のつっかけ乗り(今頃はあまりいないが、よくおばさん、おっさんがするペダルに片足掛けて地面を蹴って反動で自転車を進まして飛び乗るあのやり方)のかっこうでエンジン始動のキックペダル(スターター)に足を掛けた。この時点で払い除けられたヨシヒコも俺もあのエンジンのかけ方だと無理だなと判断し「これ 何時来たんだよ」「昼すぎに叔父さんが軽トラに乗せてきたよ。やっぱ書類見たら初期型だったよ。俺の生まれる前の七十八年型。」「おまえの叔父さんもよく持ってたな。」「納屋にあったんだって、ほったらかしてて、でも一応叔父さん整備してくれたらしいけど、あの通り、エンジンかからんわ。」などとヨシヒコの親父さん無視して問題のおもちゃのことを話していた。その間、ヨシヒコの親父さんは子供の腹痛の原因を探るみたいに有らぬ所を見つめてキックペダルを足で踏み込まずカチャカチャやっていた。どのみち当分かかりそうだと思っていたら「よしゃ、ここじゃ。」の親父さんの一言に俺とヨシヒコはキックペダルに注目した。ヨシヒコの親父さんの曲げられた左足はエネルギーを静かに溜め、全くの静止状態になったかと思うと、エネルギーの張り詰めた緊張を守ることが出来なかったのか一気にエネルギーを爆発させ弧を描くキックペダルを振り降ろす運動をした。その一連の動きは瞬く間に行なわれたわけだが、あまりにも無駄が無くきれいな動きだったので実験映像のスローモーションのように見えた。キックペダルが最下点に来たときエンジン内部ではキックペダルに連動して回転したクランクがピストンをシリンダー内の最上点に持ち上げた。そこでプラグが発火しガソリンと空気の混合気の爆発が起こる。
 VROOOOM!
 爆撃音にも似た単気筒の単車のエンジン音が辺り中に響きわたる。発動機が始動した。さすがヨシヒコの親父、車作ってる工場に勤めているだけのことはある。かっこいい!ヨシヒコも男が男に向ける尊敬の眼差しで親父を見ていた。だが、そのあとがいけなかった。おれたちが称賛の声を浴びせようとしたときに親父さん調子くれて得意満面で出鱈目にアクセルを開け、近所迷惑なレッドゾーンの甲高くもある耳に耐えない音を鳴らし上げて、ついにはキャブレターをかぶらせ、せっかくかかったエンジンの息の根を瞬時に止めてしまった。すぐにも俺等の呆れた眼差し。親父さんは俺達の方に顔を向けられずに単車のほうが悪いといわんばかりに怪訝な顔してエンジンを覗き込む。
 「しかし、こりゃうるさいのう。あのバカいろいろ交えとんじゃろうのう。それともマフラー穴開いとんのかのう。ヨシヒコ、これほんま乗るんか。あれなら弟にまた持って帰ってもらうで。」
 「父さんこんなもんだよ。SRはこんな音がするんだよ。これがいいんだよ。でもよくエンジンかけたな。あんだけ俺が必死かもっしかしてもかかんなかったのに、やっぱ親父はたいしたもんだよ。」
 ヨシヒコの親父さん息子に尊敬されまんざらでもない様子だ。表情がそれこそパッとした。そんなとき男なら上機嫌の満面の笑みで「パチンコで勝った。」「ビールを浴びるほど飲んだ。」「酔っ払って店で暴れた。」「飲んで車に乗って100キロのスピードで帰った。上手いもんだろ。」などと自分の悪党ぶり(かわいいもんだが)を誇示し男らしさを強調するもんだ。ヨシヒコの親父も例外でなく自分の跳ねっかえりかげんを身振り手振りを入れて語りはじめた。
 「わしもの、昔バイクを乗り回したもんじゃ。娘さん後に乗っけて、細い路地を擦り抜けるように150キロぐらいでピューと走っとったもんでの、まぁ免許持っとらんで近所のにバイク借りて乗りよったんじゃがの上手いもんだったで。弟も免許取って乗りよったが、あいつより速かったわ間違いないけぇ。ほいじゃがの、一度恐い目見てからバイクは乗らんようになった。」
 「おじさん、どんな恐い目におうたん。」 「まあ、シン君待ちんさい、こっからじゃけぇ。ある雨の降る日にのう、それも夜よ、何も見えん晩のことよ、わしは工場から帰って、まぁ暇だったんよ。ほいで、近所のに「雨じゃけ乗るまあが、貸してくれーや。」って、渋々言うのを借りて、乗り回しとったんよ。雨の日はタイヤがつるつる滑って面白いの知っとたけぇね。じゃがの若い頃面白いことっていうのは危ないことよのう。今じゃ恐くてようせんけことよ。ほいで、つるつる滑りながら近所の路地くるくる回って遊びよったわけよ、それで直角の路曲がりきれんで、田中さんとこの玄関に突っ込んだんよ。あーっちゅう間に玄関の開き戸が目の前に迫ってきて「ガシャン」ゆうて玄関ぶちめいだんよ。あっという間に粉々じゃったね。ガラスが飛び散っとって、ほいでもわしは怪我を一つもしとらんで、痛くもなくて、とにかく気付いたら人のうちの玄関にバイクごと上がり込んどって、家の者も集まってわしのことをどうしてええか分からん顔で見よるんよ。怪訝な顔よ。わしもどうしてええか分からんで、とにかく「こんにちは」って言っといた。まずは挨拶と思ったんじゃ。」
 ヨシヒコの親父が言い終わると、ちょっとしてから俺とヨシヒコは大笑いした。人の家に玄関ぶち破ってバイクごと突っ込んどいて事もあろうに第一声に「こんにちは」。ノリノリじゃないか!面白すぎるぞ。それにヨシヒコの親父自分のしでかしたコントに気付いてないと来たもんだ。俺等が息切らして腹抱えて大笑いしてるのになんのことか解らないで、きょとんとしているヨシヒコの親父。暴力と天然ボケがリンクするとメチャクチャ面白い。ヤクザの神父、血が嫌いな外科医、血塗れの床屋、歯槽膿漏の歯医者、ゴリラの国防長官。これらは空想だがヨシヒコの親父は本当に実在する。あはははははは。俺とヨシヒコはねじ切れるかという程バカ笑いした。これが本当に可笑しいんだ。
 「笑い話のつもりじゃなかったんで、とにかくの、雨の日は危ないって事が言いたかったんよ。本当よ、雨の日はタイヤが滑って危ないけぇ、雨の日は乗るなよ。」
 「なら、何時乗るんだよ。」
 ヨシヒコは笑うのを少し押さえて砕けた感じで親父さんに尋ねた。雨の日は乗るなって、そうだよ何時乗るんだよ。ヨシヒコの親父さんはステテコにランニングシャツの下着姿で外に出ているが、学校帰りの俺は制服の上にオレンジのゴアテックスの合羽上下にゴアテックス製のチューリップハットで外にいるときは四六時中帽子からたれる雫が肩にあたる「ポタポタ」をうんざりするほど聞いてるし、バイクに跨がっていたヨシヒコもブルーのゴアテックスのポンチョにシールド付きの銀のジェットヘルメット姿で、それこそ「水玉模様」を全身で楽しんでるのに、何時乗れと言うんだ。今年の6月の梅雨入り以来、ここ4ヵ月、衣替えが来たって言うのに、今だに合羽姿でいなくちゃならないこの雨降り世界で、雨の日に乗るなだって?
 「おじさん、雨の日はタイヤが滑って面白いんでしょ?だったら当分面白い思いが出来るじゃんか。ヨシヒコ、良かったじゃん。今度乗らしてね。」
 俺はさっきみたいに口を半開きにして小鼻にしわ寄せてヨシヒコに合図を送った。ヨシヒコもシールドの曇ったヘルメットの中でしたり顔をする。曇っててハッキリとは見えなかったが、たぶんしただろう。
 ヨシヒコの親父さんは少ない髪の毛を日本海の海岸の海藻みたいに頭に張りつけて、腰に手を当て突っ立っている。どうして良いものやら、困ったような怒ったような顔で頭をひねっている。ここで馬鹿なことに気付いた。ヨシヒコの親父さんのランニングシャツが雨で濡れて透けているのだ。ヨシヒコに冗談で「おまえの父ちゃんシースルーの服着てるよ。ビーチク、え見るま」等と小声で言いたくなった。こんな冗談ちっとも面白くないし、不愉快なだけなことも知っているが、思い着いて言いたくなるのだ。たぶん湿気のせいで頭が少しずつおかしくなっているにちがいない。脳味噌にカビでも生えているんじゃないのかね。まぁ、体にはかゆいカビが生えちまってる。もっとも、このご時勢インキンは当たり前で、関係ないが、この前も駅前の薬局に劇薬買いにいったら、下田のおばちゃん、まぁ同級生の母親なのだが「シン君、ごめんねえ、売り切れたのよ。かゆいのにねえ」なんて、我が息子のことをわが息子のように心配し同情してくれてた。おばちゃんの息子、下田はヨシヒコと同じ偏差値高いらしい高校にいってるのだが、ヨシヒコと違ってたいそうバカだ。間違いない。勉強が出来る出来ないの判断基準じゃなくて、人間的にちゃらけてて、学力を判断基準にして人を見下すようなどうしようもないバカなのだ。脳味噌にカビが生えてたって、俺は解る。参考書片手に「これぐらい解んないの?」だとかきざに言うような点数稼ぎバカなのだ。
 「ただいま~って、父さんあれほど言ってるでしょ、そんな格好で外出てたら風引いちゃうって。結構みっともないし、早く着替えてらっしゃいよ。」
 「おかえり、智子。えっと・・その・・なんよ・・わかった、着替えてくるよ。ヨシヒコ、乗るんなら気を付けて乗れよ。大学決まっとるのに死んだらしょうがないけーの。ほいじゃシン君さよなら。」
 ヨシヒコの親父さんは背中丸めてそそくさ家に入っていった。娘にはかなわないって感じだった。まぁ、俺でも智子ちゃんに何か注意されたらへどもどしながら間違いなく言うことを聞いてしまうだろう。何しろ可愛いのだ。たまにいる「この子は別格、そこら辺の女と違う生物なんだ。美しい正当な進化を遂げた女の子なんだ。」といった間違いのない可愛さを持っていて、肌からして違う。そこらの「メス」とは構成分子が違うようにしか思えない女の子、完璧超人。それに「見た目はいいけど中身はどうだかね」等と言わせない中身も持っていた。なんて言えばいいか分かんないけど、例えば太陽の匂いがする真っ白なハンカチの清潔感を持っているのだ。カビ塗れで腐り切った俺にも一桁の足算より理解できる真実なんだ。具体的に何処がどう良いかは挙げるだけきりなく、まぁ、人を誉めたりするのが不得意な俺にはきちんとしたお嬢さんとしか言いようがない。こう説明すると「なんだ、そんなもんか。」と思われそうだが、今の世の中、きちんとした女子高生が何人いることか。俺の知ってるかぎり、そんなにいないはずだ。どいつもこいつも「思い出」と「ノリ」と「おとこ」と受け売りのそのほとんどがやってる「自分流」をキーワードに「たのしー」を目標にしてテキトーにやってる。そのためなら、まぁ金のことだけど、なんだってやりやがる。恥も外聞もはなっから頭にないんだ。地下に居るベガーだよ。間違いない。
 「シン君こんにちは。」
 「・・・・・・・」
 「何いきなり黙りこっくってんだよシン。さっきまでの威勢はどうした。なんとか言ってみろよ。」
 「・・・なんとか。・・・」
 「ははははは、シン君普段黙ってばかりだけど、たまに照れながら面白いこと言うよね。ところでお兄ちゃん、叔父さんのバイクってこれ?なんか、思っていたよりカッコいいね。今度うしろ乗っけてね。どうせ乗せる彼女もいないんだからいいでしょ?晴れたらの話だけど。」
 「おまえ、晴れることが無さそうだからそんなこと言ってんだろ。この間言ってたじゃないか「お兄ちゃんにバイクに乗してもらうんだったら保険賭けとかなきゃ」って、そんでもって、冗談で保険屋に電話しやがって、おい、シン、こいつ馬鹿なんだよ。保険に入りもしないのに、いろんな保険屋に電話して当分の間、家を電話とダイレクトメールと瞳孔の開きっぱなしの丁寧な人たちの訪問でてんやわんやにしやがったんだ。父さんは智子に甘いけど、母さんが無駄なこと、欝陶しい事嫌いな人だからしこたま怒ったんだよ。そしたらこのバカ、「来客の多い家は繁栄するからいいでしょ。」なんて言ってんだもん。おい、シン、止めとけって、こんなバカ、間違いない。」
 「お兄ちゃんいい加減なこと言わないでよね、わたしは、来客の多い家は賑やかでいいでしょ、って言ったのよ。実際面白かったっじゃない。毎日郵便受けはいっぱいだったし、家に帰ったら誰か来てて、お菓子持ってきてくれた人もいたじゃない。まぁ電話は本当欝陶しくていやだったけど、逆イタ電面白かったじゃない。お兄ちゃんも楽しんでたでしょ、「はい七曲署、捜査一課だが」って、太陽に吠えてたじゃのよ。わたしより質が悪いこと言ってたじゃない。シン君、ここで言えないようなこと、電話だからってお兄ちゃん言ってたのよ。今度教えてあげるね。」
 正直、俺は「教えてあげる」の台詞にまいったね。智子ちゃんには教えてもらいたいことは幾つでもあるんだぜ、などとバカ大学生が電話先でコンパかサークルで見付けたバカ女子大生にささやく陳腐でみっともない台詞をみっともない事承知で冗談として言ってみたかったが、ところが言えないのだ。何も言えなくなったままに時間が経ち過ぎて、きっと俺の中で智子ちゃんと話す機能が錆付いて錆汁を垂らしてカチコチになっているに違いない。スパナか何かなら灯油にでも漬けとけば少しは動くようになるんだろうけど、駄目なんだよ、あんなことがあったら、この俺でさえ、たった一人の人間に対して言語を失うショックを受けるに違いないんだから、ましてやそこらの奴らなら、まぁ、平気なんだろね。ともかく、実際悔しいよ。一番話したい人と話せなくなってるんだから。このことはヨシヒコも知っている。そんなわけでヨシヒコは俺等の会話に智子ちゃんが入ってるときは難しく不器用な気の使い方をしてくれる。 ところでこうしている間もやはり雨は降り続いている。帽子の縁にたまった雨粒が、まとまって目の前を一筋の線になってすっと落ちている。智子ちゃんは黄色いゴアテックスの合羽(合羽は上だけで下はスカートにブーツ)に赤い傘をさしている。目の前に落ちていく雨筋に赤と黄色が写り込んで灰色に染まっていた世の中が眩しいぐらいに明るく見える。色だけじゃなくて彼女のぱっとした存在感ってのも俺にとっては関係有るのかもしれないのだが、とにかく智子ちゃんのおかげで灰色の腐った雑巾のような世の中がぱっとして見えてくる。「あなたは僕の太陽だ。」なんて台詞は確かに一昔前のカビの生えたものに違いないんだろうけど、このカビに塗れた、じめじめした世の中にはちょうどいいんじゃないのかね。だって、ほら、空を見上げてみろよ。
 今じゃどこ行ったっていつも薄暗くて窒息しそうな閉塞感に溢れている。前は退屈な生活の中で息ぐるしさって奴を肌身で何となく確実に感じているもんだったが、今は目の前にある誰にでもはっきりしている雨空という現実になっている。なんとも解りやすく世の中で生きているのが息苦しい。言いようによっては、すっきりしているとも言えるけど、やっぱり、たまに見上げる空の広さが、嘘のようなしかし憧れる果ての無い広さがないのも考えものだ。誰だってたまになんんとなく空を見上げる癖を持っている。金持ちでも貧乏人でも、サラリーマンでも学生でも男でも女でもどんな奴らでも、空は平等に見つめることができるものだ。しかしそれが今は見えないのだ。見上げたって、鉛色の空、あの自然なのに不自然な明るさと暗さを持つ曇り空と雨つぶしか目に情報として入ってこないのだ。びっちし厚く積もった雲。高原に行こうが、日本海に行こうが、太平洋側に行こうが、富士山に登ろうがどこも同じだ。気の狂うほどに体中にまとわり着く、それこそ「不快度指数100」のじめじめした湿気。最近自殺者が増えているのも十分納得行く。俺だって事情と思いがどうにかなれば、自分から死ぬに決まっている。間違いない。それか自棄になるだけの事だ。そこら辺に生えてるつまらない宗教に入って、理想と心中したり、「生まれたからには自由なんだ、好きなことをやるために生まれてきたんだ。」って性犯罪、好きなことをしこたまヤルのもいい。冷たい雨の中、頭から湯気を立てて、理性を失い歓喜に胸震わせてよだれ垂らして仁王立ちしとくのも悪くない。所詮そんなものなんだ。はなっからバカなのは重々承知だ。俺も含めてどいつもこいつも。工場からでた煙りまみれの町に悲しみの雨が降る。冗談でなく本当に悲しい雨なんだ。間違いない。

 「シン、また不満か?それにしてもしつこい雨だな。おやじの言うとおり雨の日は危ないからなぁ。教習所もいい加減雨ばっかりで、乾いた道路なんて走ったことないんだけど、やっぱり嫌だな。それに、俺が単車に乗りたいのは、気持ちいい風の吹く中、スピード上げてあの金色に輝く太陽に出来るだけ近づくためだもんな。どんどんスピードを上げて音速をこえて青空に突っ込みたいのよ。「ワー」って雄叫び上げてよだれ垂らして、うんことしょんべん垂れ流しで、生まれたばかりのように泣き叫びたいんだよ。それで生きてることを確かめたいんだよね。それが人生っちゅうもんで、まぁ俺にとっては水虫みたいなもんで、兎に角可愛くって仕方ない。ステーキを川に落とした犬、負け犬のような気分だよ。まぁ、シンとし君、寿司でも摘み給え、ここのはとびっきりの休日だ。」
 「ヨシヒコ、おまえ笑ってそんなこと言ってるから、まだいいけど、あんまりそんな気の触れたおかしなこと言わないほうがいいぞう。どこの誰が聞いているか判りゃしないんだから、いつでもぼくたちは監視されてると思った方がいいよ。いいや監視されているんだ。あちこちに秘密マイクがしこんであって、少しでもおかしなことを言えば紫色の触手が伸びてきて間違いなく、お陀仏よ。あは、あは、あは、知ってのとおりぼく達の町には三つの組織があり互いに敬遠しあっている。愛し合っているからだ。」
 たいがい、最近とくに多くなったが、訳の判らない意味の無いしかもつまらない思いつきの会話をしてやけくそに笑うことが多くなった。笑い方も工夫して昔の「トムとジェリー」の意地悪なトムさんの笑い方を心がけている。上を向いて笑うと、曇って雨が、霧のような細かい奴なのだが、絶え間なく降り続いていて、俺の行き場のない熱気を奪い取るみたいで気持ちいい。人生において何もかも取られるのは実際、癪なわけだが、変な話、それがなんとも気持ちいい。だからといって勘違いしないでほしいのは、決してやけくそだからとか諦め切っている心境にいるわけではないんだ。言っとくが俺はこれまでもこれからもこの地上で真っとうに生きていく。
 「あれ、シン君もちゃんと喋れるんだ。あ、ゴメン。変な言い方になっちゃったけど、へぇー意外ね、お兄ちゃんみたいに変なこと言うんだ。」
 チャンスだと思った。ここで高速道路の入り口から本線の流れうまく乗るようにスムーズに会話に入れたら、それをきっかけに智子ちゃんと話が出来るように、俺の機能が回復すると思われたからだ。回復したあかつきには、俺の上の暗雲は切れ目が入りそこから裂けて、めいっぱいの太陽と宇宙につながる突き抜けた空が眩しいぐらいに、ナメクジかモグラが隠れてしまうぐらいに広がっていくに違いない。今こそなんとしても突き抜けるのだ。足の裏や手のひら、脇の下に変な汗をかいて、とんでもない緊張と激しい動機、むず痒さ、恥ずかしくて思わず「あっ」とか誤魔化すような意味不明の言葉が口からひとりでに溢れるぐらいの恥辱、そんなものを抱えて今こそ俺は勇気を振り絞る。ドでかい希望に高揚し、不安に苛まれ、意識を錯乱させながら苦しい胸を絞って言葉を出そうとする。腹に貯まった空気が喉元まで来て扁桃腺を揺らし音を今から出そうとするその瞬間、突然気付く。
 「・・・・・・・・。」
 俺には話す言葉が体のなかにどこにも無いことを。むしゃぶり尽くした振っても応答の無いドロップの缶の中身のように虚しく一切無いことを知る。俺の中には何にもない。恐ろしい程真っ白で、本当に空なのだ。アセル。駄目だ。飛び立つ直前にエンジンのとまった飛行機のように急速に失速していく。燃焼することのないたくさん残った燃料がちゃぷちゃぷいってる。機長は気が狂う。突如、俺の頭に両サイドから腕の太さが有ろうというくらいの木ネジを無理矢理ねじ込まれた激痛が走る。一気にどん底に落とされすべてを信じられなくなる。無音状態での「キーン」って耳鳴りがする。頭の中も目の前も真っ暗で真っ白だ。スベテガテキノヨウナキモチ。逃げようか、死のうか、笑おうか?ギザギザしたもので生の脳味噌を擦られて落ち着かないムズムズを感じ、世の中すべてに対して頭から湯気のでそうなほど恥ずかしい気持ち、ちょうど下半身裸で街中に押っ放り出されて取り繕う表情をしようにもどうしてよいか判らず、笑ったような、困ったような気色の悪い表情を浮かべ、どこを見てよいのやら判らずおかしな所に視線を、決して人と目が合わないような視線で、誰も尋ねない言い訳を独り言わざるえない心理状況。辛くて、みっともなくて、恥ずかしくて、惨めで「いっそのこと殺せ」といった気持ちで熱を奪う冷たい雨に降られている。熱したフライパンに水を散らしたように俺の体に降り注ぐ霧雨がジュって蒸発する音が聞こえてきそうだ。たぶん耳から湯気が立っているだろう。
 「シン君、どうしたの顔色真っ青よ。がたがた震えて大丈夫?風邪でも引いたんじゃないの。」
 「おい、シン、平気か?」
 ヨシヒコと智子ちゃんの距離は僕からそんなに離れてないし、二人とも僕からと同じような距離にいるのに、声も同じような人に気をかける、心配するときの多少大きめな声だったはずなのに、耳の側から鼓膜が破れるほどの声に聞こえたり、雨音が聞こえるほどの小さな声に聞こえて自分の心臓の音、頭蓋骨の内側に頭にあたる空気が響く音が聞こえるぐらいの声に変化したりした。まるでヘッドホンを無理矢理付けられてボリュウームをぐりぐり悪戯される拷問のような気がした。頭が捻れ飛んで変になりそうだった。目の前の景色も歪んで魚眼レンズを覗いているようだった。雨が曲がって落ちていたし、あんなにきれいな智子ちゃんがへにょへにょのもやしのように見えた。赤と黄色が激しく揺れる。 「大丈夫だよ。風邪でも引いたのかな。急に気分が悪くなったんだ。もう大丈夫だよ。こんなに雨ばっか降ってたら、おかしくもなるよ。早く止めばいいのにな。」
 ようやく声が出た後、やけくそだが、情けない顔で、息を切らして小鼻にしわを寄せていつもの合図を送る。ヨシヒコが納得いかないしたり顔、俺にとってはヨシヒコのその顔が同情と蔑みに満ちた屈辱的な表情にしか取れない感じで何だか腹は立つし、情けないしで、ヨシヒコに顔向けなんて恐くて出来なさそうなものであったが、そうするしかなかったのだ。心配と多少の驚きの表情、原因はもちろん俺で、こっちを向いてる智子ちゃんの顔をどうしても見られなかった。本当は見たくて仕方ないし、「大丈夫だよ、ありがとう。」なんて言いたくもあった。いや、どうしても言葉を交わしたかったんだ。じゃなきゃ言葉を覚えた意味がない。話したいことが話せない、話せる能力があっても、不可能。支離滅裂な思考回路とマヒした言語能力。顔が半分に無理遣り引き千切られるような苦痛。 雨の音ばかりが耳に入ってくる。霧のように細かい雨で音なんて聞こえるもんじゃないだろうに、しっかり雨に関する音が頭中に響くように聞こえてきやがる。ポタポタと合羽姿の俺の肩に落ちる水滴の音、雨樋にたまった水がポタポタと落ちる音、この長雨で雨樋の下は雨粒のせいで土がずいぶん掘られて、細かい粒子だけが流れ去り、後に残った砂利や小石やレキがまるで歯槽膿漏の末期的な状態のように酷くえぐれていた。そこに雨粒が落ちる。ぺちっ、ぺちっ、まるで舌打ちしているよう聞こえた。とてつもなく痛々しい舌打ちの音だ。どこでどうしてそんな音がでるのか知らないが、ポチョン、ポチョンと水滴が水面に落ちる音も聞こえる。乱打の連続で聞こえたり、不思議な等間隔で聞こえてきたりもする。
 自分の体が水で出来ていて、体の表面中に波紋を立てて水滴が降ってきて飽和水量に達して、体から中身がしみてゆっくり溢れ出ていく。そのうち雨が俺の中身とそっくり入れ替わるのだろう。そしたら、俺はもうちっとまともに変われるだろうか?まぁ、俺は俺だから、やっぱり代わりなんて考えられんだろうな。けっ、下手な言葉遊びだ。くそっ、なんで出来ないんだろね、大事なときに。
 「雨が長く続くのも考えものね。シン君みたいに体壊しちゃう人もいるし、お兄ちゃんみたいにバイク乗れない人もでてくるし、」 「そういえば今年は蝉が鳴いたのを聞いてないな、蝉も幼虫の時に溺れちまうよな。」 「本当に迷惑な雨だよ。雨は嫌いだ。」
 「でもね、シン君やら、みんなには悪いけど私この天気そんなに嫌いじゃないのよ。」 ヨシヒコはマズッたという顔をして「雨が嫌い」発言をした俺に気を使いながら、便宜上仕方なく「なんで?」と平たくぶっきらぼうにカリカリしながら智子ちゃんに聞いた。 「だってね、雨の日って、一日中薄明るくて、透明な青が何となくかかっていて、まるで霧の深い朝みたいじゃない。それでその朝ってのも、普段の生活じゃ見ないじゃない。毎日、早起きするわけじゃないからね。となるとそんな朝まで起きてるのは、特別なときじゃないの、修学旅行とか、高原にクラスで夏にキャンプにいったときとか、朝まで友達と話してて薄明るくなって、「わぁ、明るくなってきたね。」って、疲れてるけどワクワクするときじゃない?空がいつも見てるみたいに青くなる前の一日の始まりで何時も薄明るかったらずっと楽しい夜明みたいで、なんか始まりそうで、私、朝の雰囲気みたいだなって思ったら、けっこういい感じよ。」
 「あんたは長生きするよ。」
 「お兄ちゃんバカにしてない?」
 長生きしてくれ、お願いだから。だからって何が変わるってもんじゃないんだろうけど、兎に角長生きしてくれ。時間があるってことは希望が持てるってことだからな。もっとも解決策の無いまま悪戯に長い時間が意味もなくゼロゲームで進んだらどうなるだろう?まぁ、それまでにはこの雨も止んでんだろうよ。間違いない。
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