学校

文字数 19,399文字

5TH

 いつまでたっても静かになんないから、岩倉の奴どうするかなって思ったら、いっちょまえに教師面して力なんて教科書ぐらいしか持たないから全然有りそうに無い膨れた腹と反比例した細い腕を振り上げて思いっきり机を叩いて大きな音を出して 
 「いい加減に静かにしないか!」
 って、これからもこれまでも奴のおとなしい日陰の人生の中で滅多に出さないエネルギーを、それこそ勇気を振り絞って授業そっちのけでマンガ読んだり、立ち話したり、プロレスごっこをしてたりする、奴から見れば、常識ある卑しい世間から見ればどうしようもないボンクラなこの教室の猿のような、さわがしい園児より力があるだけ大人の欲があるだけ質の悪い生徒たちにぶつけてきた。俺たちゃどうするか?ぶつけられたのならすぐに跳ね返す。チョークを投げてきたら鉛筆で打ち返すのが常套手段だ。ついでに鉛筆を太ももかどこか目立たないところに刺しておく。動脈まで達したら犯罪だが、比較的出血の少ない、しかし激痛を伴うだろう静脈までなら犯罪にはならない。至って簡単なルールだ。 といった感じで俺はいつもなら先頭きって「生意気言うな」って、はたきにいくところなのだが、今日はどっちかっと言えば「先生頑張れ」の立場だろう。静かにして欲しい。あれからずっと考え事をしてる。つまり俺は何がしたかったのかと。一昨日、ヨシヒコの家にいって「俺はいいカメラを買って俺にしか撮れない写真が撮りたかったのだが、何を撮ればいいのか解らない。」って相談したら、「それで金貯めよったのか」って妙に納得されて貯めた金の使い道を変に心配された。そんでもって俺は写真家の水沢清に憧れて写真を撮りたくなった。って話したら、「あーあの、どっきり写真?あんなモン撮ってどうするんや?どっきりの仕掛人をお前は芸術家って思ってるのか?どう考えたって三文写真だろ。それだったら「写るんです」で十分だろ。高いカメラなんてもったいないよ。一眼レフでも中古で十分じゃんか。十万円貯めてるんだろ?もっと有効に使いなよ。お前の兄ちゃんみたいに世界に旅に出るとか、夢見る若者ヨロシク東京に出て一旗上げるための軍資金だとか。下らなくて魅力的な使い方はいくらでもあるじゃなーいの。」なんて具合に否定的な言葉を返された。どうもヨシヒコの言い方が俺の行動が気に入らないようにしか思えないものだったので「なんか文句があるなら言ってみろよ」っていったら、「お前はいつも否定してきたじゃんか、なんもかんも低俗で下らないって。俺は世の中を下らないって迷いなく言えるお前がカッコいいと思ってたし、認めてたんだが、そんなお前が夢を持った。そりゃいい事だよ。で、内容はっていったら、解らない。こんな感じがいいなって、そこらのバカと同じ事を言ってるじゃねーか。「超カッコいいって言うか、超クールって感じ?」って自分の言うことに自信持てなくて疑問形でしか話せない、自分の言ったことを断定できない軟弱な奴らと同じ発想だよ。大体そこには意志がないじゃないか。意志があれば何がしたくて、どうしたらいいかって解るもんだろ。お前には強い意志があって、お前はそいつに突き動かされて行動してるもんだと思ってたが、ひいき目だったな。まさか物に頼るって方向にあるとは思わなかったな。待てリアリズム、マテリアリズム。物質第一主義。いい写真を撮るにはいいカメラがいる。間違いない。で、撮るものは?いいカメラがあったら、何撮ってもよく写るんじゃないのかな?そうじゃねーだろ、なんか造るってのはそんなことじゃないだろが。」って具合に捲くしたてられるように説教される始末。途中何度かキレそうになったが、それはみっとも無さすぎるので我慢した。
 それにしてもヨシヒコがあんなに熱い奴だとは思わんかった。いつもクールなはずだったが、兎に角あいつは歳取って酒飲みになったら説教親父になるに違いない。
 そういった訳で時間があれば(もっとも暇だらけなのだが)静かによーく考えたいのだが、この教室、バカばかり。動物園級のバカばかり。この前弘前さんが言ってた「傍から見ればみっとも無い」って言葉の通りだ。俺もこれまでは一番に授業中に喚き散らし暴れまくっていたものだが、よく考えればみっとも無い。授業中によく机とか椅子なんかを投げてたもんだ。野蛮人丸出し、馬鹿丸出しだよな。でもな、当時は気持ち良かったんだよな。ちっとでも気に入らないことがあれば(しょっちゅうだったが)机をテーッと投げる。ヤング星一徹。気に入らないことってのはすぐにでも、頭の中を一杯にして激しい衝動となって軽く飛び出ていく。そんときは頭の中は後先なんか無くて真っ白になってて、メチャクチャになったのを「はっ」と気付いたら少しの後悔と後は大きな開き直り。俺の何が悪いんだって、一見、ガキのようだが実は大人の思想ってやつを振り撒く。いいじゃねーか、だってそうだろ、今さえない岩倉のやってる工業高校に必要ない歴史の授業ってのは、過去の人間がやってきた身勝手と開き直りを解説してるもんじゃねーか。黒板にその名が書いてある豊臣秀吉は日本の天下を納め、無茶な朝鮮出兵。明治の世の中に武士として引っ込みのつかなくなった西郷どんは西南の役(あってたよな?)昭和になって調子に乗った日本軍は行くとこないから太平洋戦争をぶっぱなす。どいつもこいつも同じように前進前進でにっちもさっちも行かなくなってから、身勝手で後先を考えない衝動的な暴力でかたを着けようしてるじゃんか。ヤクザな発想をどうしようもないと分かっていながら開き直ってとりあえず前進してるよな。そして後悔する振りのくり返しだ。たとえば戒めのように歴史の教科書で「後に続く人達は変えなくてはいけません。」っていってけど、誰が読んでる?お座成りで下らないから飛ばしてる奴も多いだろうが、だいたい国の教育者ってのはそんなとこを読めって言わない。年号を、事件を覚えろとしか言わないのだ。歴史の流れを理解して何がどうして、そんな風に起こったかということを、何がいけなかったかと知ることは結構大事なことなんだけど、そいつを肯定し衿を正そうとすれば実在する世の中に対して誰だっておかしいって疑問を持つだろうし間違いなく現状を否定することになるだろうから、だから、なるべくみんな歴史の核心には触れようとしない。これは教育者も被教育者も同じ事なんだ。
 なにも歴史だけに限った話しではない。自然界の常識を、自然のすばらしさと大事さを科学で習う。例えば地理では環境破壊は良くないことだと授業で明確にし訴えるが実際の世の中では焼畑農業でしか暮らしがたたない地区や環境破壊禁止を訴える先進諸国に利益のためにと環境破壊を割りに合わないちっとの儲けでやらされてる赤道近くの地区があって、そんな国たちに対して、教育水準が高いはずの、科学を知ってるはずの日本を含む先進諸国たちは「俺達は野蛮なおまえ等の何十倍もエネルギーを消費して暮らしているが、それはしかたのないことで、でもエネルギーの消費は減らさなきゃ地球はたいへんなことになるから、おまえ等はエネルギーを使うな。環境破壊が進むだろが、分かったな?」って感じのこれ以上ないぐらいの野蛮人な訳分からぬ身勝手な思想で、先進諸国ですって文化人気取りで、これから伸びようとする人達に貧乏人のままでいろって自分勝手なことを言う。どうにもこうにも前進前進しか知らないトンマな先進諸国。もちろん我が日本もそれだ。
 黒板に「金の茶室」と「千利休」ってチョークでカツカツ書かれた。お調子者のコウちゃんが突然前に出てきて岩倉横目に赤いチョークで「千ズリ休」って書くと一同呆れたバカ笑い。岩倉真っ赤な顔して
 「河野くん、席に着きなさい。」
 教育の社会科と現実の社会ってのは矛盾してる。教育と常識はかけ離れている。さて、理想論の白けた教育と(最近バカが教壇に立つから立派な理想論さえ聞けなくなったが)泥臭すぎる社会のどっちがいいかとはこれまた難しい質問になっちまうのだろうが、おれはどっちもどっちだと思うな。
 ところで男ばかりのバカばかりの教室はどうなったかって言うと、これがまたうるさいまんま。俺はムスっとして腕を組む。教室の中は男の熱気で湿気の多い空気をさらに不愉快なものにしてる。男がギャーギャー騒ぐなよ。たとえば話してる会話に耳をやる。
 「お前どこまで行った?あのゲーム?クリアしたの?」
 「おう、楽勝だったで。」
 「お前どこまで行った?雨の中よくバイクで走るよ?」
 「おう、楽勝だったで。」
 「お前どこまで行った?この間飲んだとき、お前意識無かったろう?ヘロヘロのくせに「大丈夫だって。」ってどっかふらふら歩いていったけど。」
 「おう、楽勝だったで。」
 「お前どこまで行った?この間引っ掛けた女と、いい感じになってたじゃねーか。やったのか?合ったばっかで。」
 「おう、楽勝だったで。」
 「お前どこまで行った?この間のトリップパーテーで、薬しこたま飲んでたじゃん。俺はいろんな物が見えてきたな。虫がうじゃうじゃしてて電車が走り去るような音が聞こえたりして、結構すごかったよ。不思議な世界見えた?」
 「おう、楽勝だったで。」
 どこも彼処もで同じような会話かが繰り広げられている。男同士の下らない称賛と負けず嫌い(そんなものか?俺の方が本当はすごいんだぜ、けっ)、無鉄砲と履き違えた男らしさ自慢。(あいつはすごい奴だ。どんな奴かと思えば、どこにでもいそうなただのバカ。)男には間抜けと、その日暮しが宿るらしいがまったくその通りだ。
 「おい、シン、どしたんや、しけた面して?まーた怒ってんのか。まったく疲れんやっちゃのう。そりゃそうと、こないだの女学院の子、どうした?お嬢様学校だからガード堅かったろう?うまくいったんか、うまくいって、イッたんか?おい、教ええーや。」
 「あー、うるせえ。俺がどうしようと勝手だろ?俺はなあ、今はあんまし女なんかに興味なんか無いんだよ。それこそ大事な時期を迎えた青少年なんだよ。」
 「ほう、お前、専門にでもいくの?大学無理だからな俺等の学校からは。どこの専門学校?情報処理?経理?福祉?それとも潰しがきかない夢のある奴か?俺なら女が多いとこがいいな。」
 「お前はそればっかだね。沖君、この間性病にかかって病院通いしたばっかじゃないのさ。そんなに息子を泣かしたいのか?目やにみたいな涙を出してとっても痛い思い。素敵じゃないの、それだけしかないお前の人生。脳味噌たまには使ってやれよ。数字とか文字のためによ。」
 「しかたねえだろ、お前と一緒で頭の中は女の事ばっかなんだから。いいじゃないの、気持ちいいんだから。あれほど気持ちいいことないだろ。」
 「沖、お前の気持ちいいってのは猿みたいなもんだろうが。それに言っとくが俺は女の子と遊んでもそんなに楽しくないんだよ、気持ちいいなんて思ってもないよ。ありゃあ、俺にとってはテレビゲームみたいなもんなんだ。心底面白いからじゃなくて、暇で反射神経をなんとなく動かしたいからって、ボーっとするよかましだからって、程度のもんだはわ。」
 「あれ、なんか虚しいこと言ってるね。そんなこと言いだしたら何もかんもつまらんようになるよ。「なんで?」って考えたら負けじゃんか。とにかくノれよ。とたんに面白くなくなるだろ。」
 「そうなんだよな。そこら辺が俺をこんな具合に落ち込ませやがる。」
 「いいじゃんか、面白かったら。どうせこの先知れてるじゃねーか。ろくなことないに決まってんじゃんか。だったら今のうちに遊んどかなきゃ損だよ。」
 軽い男、沖剛は人が考えてることを、重いことを軽く言い放った。虫けらのように踊らされとけばいい。楽しいフリがそのうち本当に楽しくなるからね。先のことをなんとなく分かっときながら、忘れたフリして、知らないことにして今を無鉄砲に気持ち良く突っ走るのだ。「これは危ないよ。知ってるけど楽しいのだから仕方がない。だいたい直接には自分たちにとっては危なくないだろ。今は大丈夫なことにして、誰かに考えてもらおう。もしくは誰かがどうにかするでしょ。そのために税金払ってるんだから。」たいがいの善良な市民の頭の中はこんな感じだろう。世の中ってのは、俺ぐらい、いいじゃないの世の中広いんだからって、みんながみんなでモラル無しで、そのくせたまにゴミ拾いでもしようものならこれみよがなしで「わたしがここのゴミを拾いました。世の中全体のため、地球の未来のためにいいことをしました。」って周りが「あなたは本当に素晴らしい、愛にあふれた人だ。」って称賛し認めるまで納得しなくて、うざったい選挙運動みたいなアピールを続ける普段は人の三倍は消費しなくては生活できない、地球にもっともやさしくないバカが多くて、そんなみんなの生活における目先の気持ち良さのためだけに世の中回ってる。それでいいのかなって、誰でも思ってるんだろうけど、あまりにも大きな渦に対して一人の考えってのは無力なので「まあ、いいか」になってしまう。それは間違い無い。だから仕方なく俺も「まあ、いいか」と言いたいところなのだが、その方が悩み少なく楽になるのだろうが、ケッ、俺は絶対認めない。死んでも認めるか!「そんなもんじゃねーだろ」って山奥の病院に連れていかれるまで言ってやる。虚しくてもいいから、とにかく否定し続けてやる。
 「おう、沖君。俺は世の中虚しくて結構。所詮そんなものだもの。いいんだよ、俺には目指すところがあるからな。暇つぶしで楽しむほどバカじゃないのよ。」
 「夢があるって奴か?目標みてーなもんか?ふーん。いいねえ、有るうちは。無くなったらどうするかしらんけど・・・・・・そうだよ、目標ってのが有るとして、そのために、まぁ、脇目も振らずに突き進んで頑張るわけだ。で、叶ったらどうするの?目標ってのは叶ったら目標じゃなくなるんだろ。目標が無くなるわけじゃんか。いやね、そこの岩倉が初めの授業の時「僕は社会の先生になるのが夢だった」ってほざいてたけど、この有様だろ。バカばっかで、ついでにバカの岩倉の授業のことなんぞ聞いてる奴は居やしない。見ろよ、あいつボロボロじゃんか。若干二十五でストレスによるデブと禿と鬱の三重苦。変に夢見て「がっかり」は恐いよな。」
 教卓の前をウロウロしながら俯いて独り言をつぶやいてる惨めな岩倉の姿を見て、カメラ片手に茫然とする俺を思いぞっとして、とにかく惨めな岩倉が死ぬことを願い俺は違うと自分に言聞かせる。
 「確かにあれは嫌だな。あんなになっちゃあ終わってるよな。でも、目標達成して燃え尽きたって言い方も・・出来そうに無いな。目標に完璧に裏切られてる。救いが無いな、って俺は違うよ。俺のはあんなことになるはずが無い。」
 「俺は人と違うって言う奴にたいした奴はいないってのがシンの口癖じゃんか。あらら墓穴掘ってるな。」
 「うー、うるせえよ。だから考えてんじゃねーか。うまい具合にやる方法ってのを。」
 外は寒くなりだしていた。もう十月も終わりに近い。男どもの毒気で上気して暑くなった教室の窓ガラスが曇っている。そこに落書、卑猥やつ。ヘタくそなドラえもんは泣いているじゃないの。そして四階の教室の窓の外の曇った寒空に降る雨こそが静かに見えた。トンマな雄叫び上がる教室とは正反対の静けさだ。清潔だよな。そうなんだ、雨がもっと降ればいい。何もかんもが始まる前の、誰にも荒らされてない朝の景色をそのまま保つのだ。
 「おい、気に入らないから、とどめを刺すぞ。決着着けてから俺は姿くらますは。コウちゃんに鐘鳴らせって伝えて、ヨシはラジカセ持ってきてるの?あるんだろ?いつものように「マイ・ジェネレーション」大音量でよろしく。カンジは、そうだな今日は自転車にしろ。早く伝えろ、あいつならやってくれるに違いない。そいでもって沖はいつものように癇癪玉。俺は机ブン投げるから気を付けろよ。」
 「おう、久々にやるのね?それでいいんだよ、シン。とにかく考えるなよな。間違いなくつまんなくなるから。ほれじゃあ、伝達してきまーす。」
 数分後、騒がしい教室内にどこからともなく温厚な羊たちを呼ぶハンドベルがチリンチリンと鳴り響く。教室内のみんなの動きが止まる。まもなく突然「ジャンジャンジャン、ジャンジャンジャン、ぴぷー・とらーい・ぷらーす・だーうん・じゃす・びこー・・いげらうん、」(たむろしてるってだけで、奴らは俺等をへこまそうと躍起だ)っていうザ・フーのマイジェネレーションがラジカセのスピーカから大音量でひび割れた音になって流れでる。祭りの始まり。教室一同声を上げて敏感に反応。メチャクチャ暴れだす。そこに素麺を湯がくときの差し水的な癇癪玉がパパンと鳴り響く。煙の匂いに誘われてさらに暴走を加速させる。俺は椅子を掴んで机の上にあがると引きつった顔の岩倉が立つ黒板に向かって椅子をぶん投げる。逃げる岩倉、ガシャン、そこにドアを貼り倒して自転車が突っ込んでくる。暴動が始まり、火に油が注がれた。椅子が飛びかい、ガラスが割れて、笑い声が絶えなくて、みんな目一杯に暴れる。振り回される意味の無い楽しい楽園だ。少なくともマイ・ジェネレーション一曲終わるまで警察が来たって絶対止まらない。間違い無いだろう。俺はそんな中冷静に教室の出口に迎う。祭りのようにはしゃぐ奴らを尻目にここから出ていく。廊下は静かかと思えば、三年三組の一暴れを見ようと授業そっちのけの暇なギャラリーが集まってきて結構ざわざわと騒がしかった。
 「おい、なんでお前が外に出てるんだよ、暴れん坊大将が参加してねーのかよ?シン、消火器でも持ってくるのか?それとも前みたいに校長の車のフロントガラスに石を投げ込むんだろ。」
 「んーなことするか!そんなの卒業しました。ところで浩二、南浩二よ、煙草を分けてくれんか?お前のキャメルを二、三本俺のマイルドセブンと交換。いいだろ。」
 「ライトだろ?そんなんいらん。俺の残り少ないから全部やるよ。」
 「ありがとう、って一本しか入ってないじゃんか。まぁ、いいか。」
 「で、どこ行くんや?」
 「散歩。雨の中、考えることが山ほど有るからな。じゃあな。」
 「お前いつもそれだな、一年の時から卒業しようって今まで。変わらんな。」
 「変わるわけないだろ。おめーみてーに髪の毛茶色にしやせんよ。似合ねーんだよ。日本人顔のおまえにゃー。」
 「なんじゃ?似合っとらんって、本当のこと言いやがって、本当のことは辛いんで。」
 「知ってるよ。じゃーな。」
 俺は常時濡れてるタイルの廊下をつかつかと音を立てて歩いていく。騒ぎは対岸の火事のように感じられるほど離れるほどに静かになっていった。

 
 一人寒空雨の中を歩くってのはなかなか気持ちいいもんだ。濡れたアスファルトの歩道はこれ以上ないぐらいの濃い紺色で間違って足を踏み入れようとしたならどこまでも落ちていきそうだった。なんでかって言うと、日が落ちた夕暮の深い紺色を思い出させたからだ。最近見ることなんてないが、晴れてた頃夕暮の日の落ちた空を見上げてはその遠く頭上に離れていくごとに必ず宇宙につながってるだろうと容易に想像できる深い青色の空を見るのが何となく好きだった。とてつもなく広いってのは考えることが止まるからいいんだ。ボーと出来るよな。見るというより見えるといった視界のなかじゃあ進むこともままならない。白い息を吐いて歩きながら不意に空を見上げる。曇り空は想像力を阻むように重くどんより広がって、その厚さは海の深さより、高い山より幅を持ってるに違いない。つまりどうすることも出来ないのだ。これじゃあ、狭っ苦しくて、考えるしかねーんだ。腹の中がごろごろいって、キリキリするが考えるしかないんだ。腹減ってきたな。
 工業高校の周りのこの街の通りってのは何でも一応は揃ってる。パン屋に自転車屋に歯医者、スーパーマーケット、お好焼き屋、クリーニング屋、電気屋。ついでにファーストフード店各種にパチンコ屋。ここは生活するための清潔なちんけな街だ。そんでもって雨のなかでも皆さん慣れたものでうまい事家に閉じこもらないで生活している。合羽を着たおばさんとその五歳ぐらいの子供が自転車に二人乗りして流行の防水買物袋をあっちこっちにぶら下げてフラフラ前も見ないで走ってたし(晴れてても周りを見ないで自転車こいでるだろ)何をして生活してるか皆目見当つかないスラックスにポロシャツ、白い運動靴姿のよくいるおじさんはやっぱり毎日フラフラ街を歩いている。決まったように機嫌の悪い顔をやっぱりしてる。傘さして煙草吸って痰を吐く。いったい何やってるんだろうな?バス停でバス待ってる化粧臭いおばさんたちはやっぱり何があろうとデパートに買物にいくのだろうし、街行く老人たちはフラフラした足並みで今日も病院を目指すのだろう。大して悪くもないのに行き場所を求めて老人たちの集いの場の病院に、効くのか効かないのかはっきりしない薬を両手に抱えて満足気に家に帰るために。逆に子供もよく見るな。黄色や赤のレインコート着て傘を誇らしく抱え持って彼らにとって世界の半分以上であるお母さんの後をちょこちょこと、たまに見かける外の物、母親の知り合い、その同い年ぐらいの子供をお母さんの大きな体の後から人見知りな顔でのぞき見る。雨が降っても街の景色は同じだ。通りにはやっぱり引っきりなしにトラック、バン、乗用車が走っている。ビシャーって水しぶきを上げられるのが困りものなのだが、それ以外は天気のいい頃となんら変わりゃしない。
 世界的な規模で見れば異常気象で世の中大変らしいが、日本はただ雨が多いってだけで、よその国のように人がたくさん死んだり大陸が沈んだり、って酷い目にあってない。日本てのは天気でそんなに酷い目に合うあって事が無いんだろうな。脳天気なのはそこからなんだろね。どうにかなるって、心配性の俺でさえ思っている。たぶん酷い目ってのは合ってから対処したんじゃ遅いんだけどな。世界的な異常気象のなか呑気に安心して買物してられるのが、買い手がつくのか解りゃしない製品を作って、死にそうな国に売り付けようって、いい物作りゃあ売れるって信じて疑わなくて今だに開発したり製造したりで、呑気でお人好しの頑張り屋さんってのが日本なんだろうな。
 でもな、よく見れば雨の中痛々しい呑気がキチガイじみてあちこちに存在していた。店閉まい大売り出し・店内改装のため全品処分価格。売りつくしてどうするの?売って売って、儲けて儲けて、どこまで行けば気が済むの?限りなんて無さそうだな。こんな雨の中誰が仏壇なんて買うんだよ。猛スピードでしぶき上げて走る軽トラ。「竿やー竿竹ー」ってどこに干すんだよ洗濯物。コイン洗車場になんで車が止まってるんだ?合羽着て雨の中車にホースで水掛けて何の意味があるんだ?郊外型の大型アウトドアショップ、なんでバーベキューセットを平気で軒先に並べてるんだ。誰が氾濫する川原に行くんだよ!みんなどこを見てんだ?混乱して現実が見えてないのか?そりゃ明日の生活が目先の行動にかかってるのは違い無いんだろうけど、そのうち、いや、まもなく間違いなくそれどころじゃないって時がくる。いや、もう来てるんだろうな。お金とかが意味がなくなってしまう時期ってのが。それって認めるのが恐い、前代未聞のことなんだろうけど、みなさん危機にあるって事を認めなきゃいけない時なんだろうに。まぁ、分かっていながらもほっとくってのは日本人の常套手段だし、規定とか指導ってのが無けりゃなんもしないってのも日本人の常套手段だよな。日常を繰り広げるしか脳がねーもんな。俺だってそうだ。雨の中ブラブラ歩いて、何考えてるんだっけ?そうだ、写真だ。何撮るか考えなきゃあな。兎に角そのことを考えよう。それが俺には大事なことだ。雨とか生活の危機なんか後のことは誰かがやってくれるだろ?俺の親父はそのために税金払ってるんだからな。
 これだけ街に物が、人が溢れてるんなら、色々見てりゃあ何をどう撮りたいかはっきりするだろう。何撮りたいかははっきりしてないが確かに俺には有るのだ。これを目に見える形にしたいって気持ちが。これだけは間違い無い。ただ、これってのが分かっているようで分かってない、もやもやした、しかし大きな存在感を持つものなのだ。この前ヨシヒコに何が撮りたいかって説明しようとしたとき俺の口から出た言葉は「なんか、こう、迫ってくるもので」と「それがすべてで、それですべてになることなんだ。」と「はっきりしないが」の三つだった。ヨシヒコはよく分からんが、それは小さいものと大きなものの対比ってことかって言ってたが俺はズームアップに似ているって答えといた。ここまで言ったら何を撮るか悩むことが無いような気がするが、詰めの部分である「対象物と表現の仕方」が問題になってくるのだ。大事な所が決まってない。分かっているようで分かってないどうしようもない状態なのだ。
 何か無いかと空を見上げる。目に入ったのが電線がいくつもぶらさがった電信柱。俺は脚を止めないで歩きながら電信柱を観察する。はじめは遠くにあるから細かいところまでは見えないわけだがそのかわり曇った空と、灰色の町並みが周りに見えて電信柱の全貌と周りとの位置関係、役割なんかがはっきりと見えている。一つの物を見ながら前に進んでいく。電信柱は相対的に大きくなり今まではっきり見えなかった細かい部分、高圧線の配線、ボルト、昇るための杭、絶縁体、表面の材質なんかが見えてくる。これが前に進むごとにもっとはっきり見えてくるわけだが、その代わりどんどん見えなくなってくるものがある。周りのものだ。街の風景やら、空、位置関係がどんどん見えなくなっていく。ついでに自分の足元さえ見えなくなって結構危ない。目標として前進すればするほど電信柱が視界を充たしていく。世界の中の電信柱が世界である電信柱となっていく。目標である対象物の定義が解らなくなってくる。気付いたときには目の前は電信柱の表面、コンクリートで一杯なのだ。何を見てたのか解らなくなるほど何かをどんどん近付いて細部を見ようとする。その時にはそれがなんだか解らなくなっている。そして鼻先までの距離に到達する。接近して接近して、この先どうする?突き進めばどうなる?ただぶつかるのか、それとも突き抜けるのか?そこら辺が撮りたいのだ。どんどんものが迫ってきて、ものに迫っていって、いつのまにかそいつで世の中が一杯になってしまう視界を見たいのだ。いつのまにか目標が何だか解らなくなる感覚を目に見える形で、誰にも解る形で、写真で表現したいのだ。って具合に答えは出てるのだが、何がそうなるのかってのが一番表現に適していて、撮る俺が面白いか、俺が撮りたいか解らないのだ。
 ところが致命的なのが何でそれが撮りたいのか俺がまるで解ってないのだ。出発点がはっきりしないのに、何が撮れようか?何で撮りたいのかはっきりしたときこそ何を撮るかはっきりする気がする。
 ここまで考えるのに、はっきりさせるのに結構かかったが、はっきりさせていくってのは考えだすって思考回路ではなく、思い出すって思考回路だったので時間はかかったが楽なもんだった。それはカメラを買おうと思いついたときまでにカメラで頭が一杯になる前の状態に頭の中を溯り戻していくだけの単純作業だった。カメラの相対関係を縮小していくとカメラの頭の中での位置関係が見えてきて、何で写真なの?が見えてきた。ここまでくるのに一ヵ月。弘前さんに「何を撮るんや」言われてからそれだけかかった。一回やったことだから戻るのは簡単なのだが、進むことより戻るって行動は「未熟を認める」事が多くなるからどうしても時間がかかるのだ。 今度は街路樹を見て前に進む。街の背景の一部であった街路樹が、一本の樹になり、葉っぱと幹の肌になり、茶色のガタガタした表面になる。おろ、足元が見えないからつまづいちまった。前によろけて一気に木目が目の前に近付く。ぶつかる瞬間、手で支えて樹とのすっと距離を離す。茶色い表面は幹となり、葉の付いた樹となり、街の街路樹の中の一本となる。今度はちょっと先に止めてある自転車を目標とする。雨の中ほったらかしにされて道端に置きっぱなしの黒いママさん自転車だ。濡れた地面と同様全体が濡れている。雨粒は玉になってひっついてなくて、しみ込んでいく。立て掛けられた壁と自転車、自転車、ハンドルと前輪、ハンドルとワイヤーが切れてぶらさがってるだけのハンドブレーキ、錆びた鈴、そこに垂れる水滴、錆びた鈴のクロームメッキには曇った雨の景色がずっと前から、そしてこれからも映されている。そこには俺がどんどん大きくなって映されていく。
 「いてっ。」
 ついには自転車のタイヤに足をぶつけた。濡れたクロームメッキに映され頼れた自分で世界が一杯になる前に痛みで現実に引き戻された。一気に世界が広がっていった。自転車は濡れたちっぽけなものになって、立ち並ぶ店や家、会社、ブロック塀、マンションなんかのビル、車が引っきりなしに走る道路、車の走り去る音、雨がパラパラと地面にあたる音なんかが一気に戻ってきて、どんよりした曇り空が頭上に広がっていく。何かに集中してたら周りが見えなくなるばかりでなくて音まで消し飛んでいく。何かしら音は自分の中に情報として入っていたのだろうが、脳味噌が関心を持ってない音なんかそっちのけになってて何も聞こえていやしなかった。
 こんな雨の中でも見上げるほどのビルを建てようとするバカがいてそいつがキチガイじみたでっかいクレーンを使って鉄筋を組んでいた。クレーンはどんよりした曇り空に嫌になるほど似合っていた。機械のアームが空を掴む。どうせならぶんぶん振って雲を拡散して晴れ間でも見せてくれよな。人の役に立ちなさいよ。機械なんだからさあ。今度はそびえ立つオバケのようなクレーンを見て前進する。曇り空、ビル、クレーン。クレーン。油圧式のショックアブソーバーの付いた鉄の腕はゆっくりと正確に動いている。そして巨大な鉄の爪。あんなのに挟まれたらひとたまりもないだろうな。
 「すいません。」
 自転車のご夫人が俺にぶつかった。頭の中が空だったからいきなりのショックにちょっと驚いてへどもどしたが、悪いのは俺だから 「こちらこそボーっとしてしまって」
 って頭を下げて丁寧に謝っといた。どうも進みながら何かで頭を一杯にするってのは危険らしいのでひとまず休憩。右前方に公園が見えてきた。雨の中じゃあ誰もいないだろうから、落ち着いて考えることが出来る。缶コーヒを自販機で買って一服するか。
 公園は長雨で草ボウボウになってて、使われないブランコや滑り台は錆汁を垂らしてて子供が遊んだり、主婦が憩いの場にするなんて考えられないぐらい荒れ果てていた。晴れてた頃にいたベンチに布団を敷いて気持ち良さそうに寝ていたホームレスもどっかに行っちまってた。俺は当分誰も使ってないだろう白いペンキが剥げた腐ったようなベンチに腰掛けて、あったかい缶コーヒーを飲んで、浩二に貰ったキャメルに火を付ける。ゆっくり煙を吸い込んでニコチンを肺に貯めて、一気に吐き出す。匂いのきついキャメルが肺の中を一巡したら頭がクラっとした。考え事をするときには頭の回転をきつい煙草でなるべく鈍らしたほうがいいに決まってる。考え付くスピードに考えをまとめる思考が追いつかない状態だからな。
 ぼんやりした頭で空を見上げる。雨の粒が落ちてくるのがはっきり見えた。物凄いスピードで落ちてきて眼の中に迫ってきて眼を瞑る前にぺちって眼に入った。俺は水を被った犬のように頭を左右に激しく振った。ブルブルってね。そうなんだよな、俺の今考えてるってのは「迫ってくる感覚」であり「突き進む視界」なんだよな。そういえばヨシヒコの親父さんがバイクで人の家に突っ込んだ話ししてたな。玄関が迫ってきてガシャーンて玄関ぶち破ったって言ってたな。きっとぶつかる前ってのは視界が玄関で一杯になってたんだろな。世界が玄関で埋まる。このあいだ電車の窓から看板見てたときにも、電車が進んで看板で世界が一杯になったな。どうって事のない話なんだろうけど、なんか引っ掛かるんだよな。そいつだけ見て前進してそいつで目の前が一杯になる。当たり前なんだよな。視界ってのには限りがあるんだからな。目に見えるものがそいつにとってはすべてなんだろ。だってそれしか見えないんだからしょうがない。でもそれが危険なんだよな。歩いてそんなことしてたら詰まづくに決まってる。周りが見えないってのはヤバイよ。実際カメラ買うことに躍起になって他のことが何時の間にか見えなくなってたからな。この俺の場合は。だれしもそんなとこ有るよな。欲しい車があって齷齪金貯めて、貯まってさあ買ってみたところ免許取ってなかったとか、こんな間抜けな話ってのは無さそうだけど、「人間マヌケ」ってどこにだって有るんだよな。例えばヨシヒコのバイクのエンジンかからなかったのは鍵をひねってメインスイッチをオンにしてなくて、ヨシヒコの親父はぱっと見て気付いて容易くエンジンをかけたって事らしいしな。あと、寓話で言えば賢者の送り物って話もそれだよな。髪が自慢の彼女に自慢の金時計を売り髪飾りを買う男と、彼氏の自慢の金時計の鎖を買うために自慢の髪を売ってしまう女の、間抜けな恋人同士の話。周りが見えないってのはお人好しでちょっとした悲しみを生む。前に考えて嫌な思いをした、喘息の息子を病院に入れるために喘息の元になる煙をどんどん出す工場で必死に頑張るお父さんの話。お人好しなだけに悲しい話だ。誰が悪いのか知らないが、世の中に周りが見えなくて悲しい思いをする人は大勢いる。間違いない。この雨だってそうだ。文明を発達させ、より良い暮らしをって願いの元、頑張った人類が得たものは爛れた水と異常気象。深刻で人がたくさん死ぬ奴だ。曇り空の下たくさんの人達が暮らしている。不安なのにそんなの微塵も見せないでなんかのために頑張っている。なんなんだろうな。こんな悲しい雨があるのかってぐらい冷たく濁った雨だ。曇り空め。悪いのはどいつだ。言ってみろ!
 煙草の火はとっくに消えて、缶コーヒーも半分飲んだら口が飽きた。十一月の雨が体の芯から冷やしやがる。合羽の下にライナー付けなきゃな。気付くとすぐそこに口をぽかんと開けたゴム制の紺色の合羽を着た老人が何時の間にか何時からか知らないが突っ立っている。あまりにもボケーっとしていて自分の意志でなくて嫁か誰かに合羽を着せてもらい外に出してもらったって感じだ。
 「よっ爺さん元気か?」
 「・・・・雨・・・・・」
 少し痴呆症が入ってるのか濁った眼をぼんやりさせて、挨拶したのにもかかわらず微動だにせず一言「雨」とだけ答えた。なんのことかなって思ってたら急に雨足が強くなってきた。合羽着て傘さしてるが、強い雨に当たるのも賢明ではないに決まってるので雨宿りできる場所を探した。公園には屋根のあるとこなんて無かった。パラパラパラ。合羽にあたる雨音が激しい音になってきた。地面は沸騰したかのように水が激しく踊りだした。夕立のような激しい雨だ。シトシト雨ばかりだったのでこんな雨はめずらしかった。突っ立ったままの老人はもちろんほっぽらかして公園から飛び出て通りを走る。水しぶきを上げて息を弾ませて走った。これが正解の行動かのように思いきってだ。力が込み上げる。怒りとも悲しみとも言えない蟠りのようなものがこみあげて俺は雄叫びを上げたくなった。俺の中で何かのバランスが崩れようとしていた。なんて弱っちい精神力なのか?畜生、俺は解りかけているのに。頭の中が勝手に動き出してきた。この長雨が始まる一週間前に面白い雲が出ていて、俺は家のコンパクトカメラで珍しいからってただそれだけで雲の写真を撮った。その雲って言うのは竹の八手ほうきのように何本か真直ぐな線が伸びていて、とてつもなくでかい手の平のような雲で太陽はその雲の手の平のほんの一部にすっぽり隠されていて、なんか不吉だがカッコ良くて、おまけに白い筋が横断歩道のように真っ青な空に規則正しく並んで青と白の巨大なストライプが物凄くきれいでとてもいい写真になった。このときかな?写真に興味が出てきたのは。その前後に水沢の写真に合ったんだ。どっちが先か忘れたな。まぁ、兎に角いい写真で、誰かに見せようと思ったら雨が降りだして、それから人に見せるのが忍びないような写真に思えてきて誰にも見せず机の中にしまっている。なんでこんなこと思い出すんだろう。あれ、急に心細くなってきた。雨音が俺を激しく責めてるように聞こえる。地面で激しく踊る叩きつけられた雨粒の飛沫が何かのたくさんの生きものに見えてきた。漁港で水揚げされた小魚が一斉に跳ねているようにだ。どんな生きものか知らないが、そいつらは俺の毛穴という毛穴から俺のなかに入ってきて一暴れして、食い破り、卵を血管中に産むに違いない。雨から生まれたこいつ等は根こそぎ俺を搾取するつもりだ。俺は恐くなって出鱈目に走り回る。顔を雨に濡らし激しい雨に目を細めパン屋の門を曲がり郵便局の前の横断歩道を渡りどこまでも走っていく。この激しい雨から絶対逃げるのだ。決して逃げれないのは百も承知だが頑張る価値があるだろう。でも、ああ、畜生!俺が何をしたって言うんだ。なんでこんなに追い詰められなくっちゃならないんだ。どいつもこいつも腐れ阿呆だ。呑気に買物なんてしてる場合か、コンビニで読みたいかどうか解らない本をいつまでも立ち読みしてるんじゃねえ、だから言ってるだろう、自転車よそ見して二人乗りなんてすんな、いい加減飽きたらどうだ車を走らすのを、その音を即刻止めろ工事現場よ、横に並んで歩くなよ狭い道を、なに俺を見てるんだ、なんか文句あるのか?
 俺はメチャクチャに走っていく。どこかで何かが壊れた。とにかく俺は目標を持たずに首を切られた鶏のようにひた走る。雨も止まらずに激しく降っていた。これだけいっぺんに降れば晴れるんじゃないかな?明日あたりは。こんな半端な夜明けが明け切るのだ。俺はその時車の走ってないガランとした都市部の道路の真ん中を信号なんか気にしないで雨上りのすっきりとした空気を切って突っ走っていたい。もちろんこの足でだ。青掛かった空がどんどん明るくなってビルの上の方に太陽の光が当たる。ガラス張りのビルは文明を象徴するかのように光輝くだろう。俺はひた走る。ときたま走りながら太陽の出てくるほうを振り向きながら。朝日に延びていくビルの影を全速力で抜け切ったら、でっかい太陽が見えるだろう。朝七時だ。世の中が眠い眼をこすってゆっくりと動きだす時間だ。俺は「お早よう」の代わりにありったけの声で笑って「さよなら」を言おう。やさしい光が広がる平野に、街に、団地に、そこで生活している人達に。そして雲一つ無い青い空に。
 もうこれ以上駄目だ。キチガイじみた走りによってヨシヒコのバイクのエンジンより早くなった鼓動の俺の心臓が終わる前に俺のハートが終わりそうだ。理由なんて無いも同然だった。ただ考え事をしていた。そしたら息の詰まりそうな悲しい気持ちになり、意志が体をコントロール出来なくなり、勝手にメチャクチャに走りだした。冷静な奥の自分と進め進めで止まることを忘れた頭の先っちょにできた嫌な緊張からくる出来物のような、まったく落ち着かない哀れな俺の精神。走り詰めで急激に体中の酸素が薄くなっていくような苦しさが体中にドロリと広がっていく。本当に苦しい。動くことができないほど弱っているのに動かなければどうにかなりそうな苦しさだ。泣くことも出来やしない。前にも一度だけこんなことがあったな。逃げ出したいのに逃げれない行き場のない不安感を感じたことを。冷静な俺のほうが力業でねじ伏せて永遠に封印したはずの苦い思い出を思い出そうとする。あれは、そう、そうだ、智子ちゃんだったんだ。あれ?智子ちゃんだ。
 暗くなってきた繁華街の道路向こうの通りに黄色い合羽を着て赤い傘をさした智子ちゃんが歩いていた。俺は無我夢中の無意識で道路に飛びだした。もちろん車は走っていたがそんなのおかまいなしだ。急ブレーキの音が何度か聞こえた。その音に反応して智子ちゃんがこっちを向く。俺は智子ちゃんを見ながら突き進む。どんどん智子ちゃんが迫ってきて、周りの腐った街は視界の彼方に飛んでいき、智子ちゃんで俺の世界がどんどん充たされ一杯になってきた。もう雨なんか気にならない。俺のおかしな苦しさは気持ちの高ぶりで紛れて消えていき、オルガスムスに似たそれ以上の快感が体中に伝わっていく。俺の中から我慢できなくなって溢れ出そうだった。体中の皮が剥かれた過敏な神経に快感だけがひた走る。目と鼻の先に驚いた顔の智子ちゃんがいる。俺はどうやら夕方の交通量の多い道路を無事に渡って来たようだ。本当は一度は車に轢かれてるのかもしれんな。体が気付いてないだけかもしれんな。そんなことはどうでもいい。俺は夢中で智子ちゃんにガバって抱きついた。体の奥から至福の快感がめくれあがって破裂した。とうとう手に入れた。 「シン君、突然どしたの?・・とにかくここから逃げようよ、注目の的じゃないの。」智子ちゃんは俺の腕からスルリと抜けて俺の手を握ると唖然とした顔が並ぶ人込みを掻き分けて走りだした。
 俺の手と智子ちゃんの手は間違いなくつながっていた。智子ちゃんのやわらかな手の感触が、その感触だけで俺のナニに釘を刺したような強烈なズキューンとした刺激が体の中心の中枢神経を通して脳に走る。とんでもない快感だ。俺のナニはズボンの中ではち切れんばかりに自分の存在を世界中にアピールしている。何時の間にか訳分からなく、どうにかなりそうだ。俺の顔は溶けたように、にやけて涎を流してるに違いない。このままどこまでも走ろう。おい!みんな見てみろよ、俺は智子ちゃんとこうして手を握り合っているよ。どうだ!俺には雨なんて気にならない。俺は晴れた空のした大きな空を仰向より晴れ晴れとした気持ちでいる。十一月の冷たい雨の中にいたって、満開の桜咲く暖かい公園にいる気持ちだ。バカ野郎、俺は手に入れたんだ。
 「ここまで来れば安心ね。どうしたの?あんな無茶なことして、ついでに抱きついたりして、びっくりしたんだから。」
 智子ちゃんはすっと手を俺から離し立ち止まり訳の解らないことを言った。笑ってるようにも見えたし、取り繕ってるようにも見えた。なーに、だが俺の気持ちは分かってるし受けとめてるんだろ。
 「どうしても止まんなかったんだ。智子ちゃんが見えて、だったら俺ならまっしぐらに突き進むに違いない。」
 「はー?車が走ってる道路を渡るなんて危ないよ。運転手の人達驚いたりクラクション鳴らして怒ってたりしてたよ。それにあんなことやったら死んでもおかしくないよ。なんで?」
 「智子ちゃん、ほら、俺、今、智子ちゃんと話してるだろ。本当は出来るし、前からしたかったんだ。」
 「・・・はー?・・・なんかおかしいよシン君。どうしたの?」
 「おかしくないよ、これが俺なんだよ。俺は智子ちゃんと話せるんだよ。今までのは嘘だったんだ。風邪を拗らせたようなものだったんだ。でもこれからは違う。雨もきっと止むよ。ほら言ってただろ。分かってくれなかったけど、本当は分かってたんだろ。」
 小学3年の時だった。俺は夕方の帰り道、風邪をひいたヨシヒコの代わりにお隣の智子ちゃんを家に送っていた。一緒に夕日が落ちるなか二人で歩いていた。俺はませていたのかその頃から智子ちゃんが気になってた。空を見上げると綺麗なオレンジと深い紺色の夕焼け空に飛行機雲が何筋も出ていた。ガキだからどうこうしようなんて思いつきもしないし、でも智子ちゃんの気を引きたくて、どうしようかなって思ってたときに智子ちゃんが空を見上げて
 「あっ飛行機雲。」
 って空に指差した。そこで俺は理科の時間に先生が言ってた話を思い出し「シン兄ちゃんはなんでも知ってる」って思われたくて
 「あのね、飛行機雲が西の夕焼け空に出るときは次の日、雨が降るんだって、だから明日雨が降るんだよ。」
 って言った。当然俺は智子ちゃんに「すごいねえ、何でも知ってるのね」なんて返答を期待したのだが、
 「(飛行機雲が)たくさんあるね。」
 って智子ちゃんは返してきた。そのとき一瞬、独りぼっちで淋しい気分になったが、取り直して
 「明日雨が降るよ。僕は知ってるんだ。明日は雨になるんだ。」
 ってムキになって言ってみたが
 「たくさんあるね。あっ飛行機がいるよ。何本あるのかな?たくさんあるな。」
 って無視された。意地悪された気持ちだった。子供の時ってのはそんなのに敏感だろ。でも、だから意地を張るんだ。とにかく俺は雨が降ることを智子ちゃんが認めるまで帰り道歩きながら呪文のように明日雨が降ることを何度も言った。しかし答えは「たくさんある」だの「一番星まだかな」とかで、まったく人の話を聞いてなかった。それでだんだん二人でいるのに独りぼっちで、恐くなって、それ以来智子ちゃんと話せなくなってしまった。ずっと近くに住んでて、毎日でも顔を合わすのに駄目だった。時間が経つに連れて智子ちゃんは可愛くなって、俺も分別付くようになって智子ちゃんをどんどん好きになっていったが、そのたびに離れていく気がした。近付こうと気持ちは前進してるのに離れていく感じ。遣り切れなかった。しかし今はこうして一緒にいる。まともに話している。
 「何のことだか解らないけどちょうど良かったのよ、一人で暗い夜道歩いて帰るの恐かったんだ。でも、シン君どうしてこんな所にいたの?わたしはお使いの用事があってここまで来たんだけど、びっくりしたのよ。でもなんか映画のワンシーンみたいだったね。道路を飛び越えてきて抱き締めるなんて。おもしろいね」
 おもしろい?なんで?あれ?何か違うことないか?また変なこと言ってるよ智子ちゃんは。あれ?
 「とにかく寒いから早く帰ろうよ。」
 「・・・うん。」
 ゆっくりと感覚が現実に戻ってきた。俺はなんてことをやったんだ。突然飛び出して抱きついたりして、いいのかな?訳分かんないな。あれ、緊張してきた。恥ずかしくなってきたな。どうなってんだ?何か話さなくっちゃな。
 「俺にとって智子ちゃんはヨシヒコの妹じゃなくて、もっと身近な人なんだ。俺、昔から智子ちゃんのことが・・・」
 「えー、ゴメン聞いてなかった。それより肉マン食べようよ。あそこのコンビニで売ってるよ。あたしはピザまん。シン君は?カレーとか?知ってる?お兄ちゃんはアンまん好きなのよ。変でしょ。」
 分かんないな。抱きつかれて暗い夜道二人で歩いているのに、俺がようやく思ってたこと言おうとしてるのに「肉マン」の話かよ。どうなってるんだろうね。
 「俺もピザまん好きかな。」
 夕方は夜に変わった。雨はさっきより小降りになってきた。いつもの霧のような雨に逆戻り。そう言えば俺何してたんだっけ?それにここはどこだ?何で智子ちゃんこんなとこにいたんだろう。まあ、いいや。とにかく二人でいるんだから。どうにも噛み合わない会話をして。それはそうと、さっき智子ちゃんに向かって走ってたとき、智子ちゃんが迫ってきたとき、変な感覚だったな。もしかしてあれがそうなのかな?今すぐ誰かに言いたいけど、言ったらはっきりしそうだけど智子ちゃんには話さないでおこう。また独りぼっちになるからな。
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