9.百キロの隔たり

文字数 3,187文字

その週末、ひとみと母親が引っ越す日、富井がとぼとぼとやって来た。茨城ナンバーの小さなトラックにひとみ達の荷物が積み込まれると、トラックを運転してきた人が、出発すると合図した。富井はひとみのところに走りより、手を握った。もうそのまま永遠に離れないのではないかと言うほどに強く、しっかりと握った。それでも、ひとみの母親が、無理やりひとみを引き離し、ひとみをトラックの座席の真ん中に座らせた。そして、トラックは出発した。

富井は、その後を追うように走り出し、転んだ。地面に額を打ち、血が出ていた。それでも、富井は痛みを感じなかった。それは、心の痛みに比べれば、なんでもないことだったから。

トラックの座席に座らせられたひとみは頭をダッシュボードに打ち付け始めた。心配した母親がそれを止め、ひとみを自分の懐に抱きしめた。ひとみは、大声で泣きだした。そして、水戸に着くまでの間、ずっと泣き通した。

ひとみと母親の転居先の石塚は、水戸からバスで50分以程かかる。ひとみは、ほぼ毎年、お盆と正月に帰省していたので、馴染みがないわけではない。そして、母親が手続きをして、ひとみは地元の中学校に転入した。

しかし、ひとみは、あまりに急の、あまりに残酷な変転に耐えられず、学校にはろくに行かなかった。富井も、ひとみが転校してしまってからと言うものすっかり元気がなくなってしまった。百キロの隔たりと言うものが二人に及ぼした影響は計り知れなかった。他にすべもなく、二人は、手紙のやり取りを始めた。

(富井の手紙)ひとみさん、ぼくは悲しくてしかたがない。ぼくは、あまり手紙を書いたこともないし、他になんと書いたらいいか分からないのだけど。そうだ、今度、ひとみさんの写真を送ってくれる? いままで、いつも会っていたから、写真は必要なかったことに気がついた。そして、ぼくの写真、同封したよ。

(ひとみの手紙)きみ、わたし、さびしくて、死にそう。助けて! でも、無理なことはよく分かってる。ところで、写真、ありがとう。一日中見ている。ほんとうに、すべてが変わってしまった。でも、もちろん、きみに会えないことが一番辛い。どんなに遠い所に行ったって、もし、きみがいたら、わたしは幸せだから。それから、わたしの写真、入れたからね。会いたい。またね。

ひとみが引っ越してしまってから数ヶ月たった冬の夜、めずらしく、ひとみのところに富井から電話があった。
「ひとみさん! この日曜日に、水戸に行こうと思うんだ。電車を調べたんだけど、特急で、水戸駅に10時47分に着くんだよ!」
「ほんとー! 嬉しい!! その時間に駅で待ってるからね!!!」

富井は、家を出てから二時間半ほどで水戸駅に着いた。ずいぶん前から改札の外で待ち構えていたひとみは、富井を見つけると、すぐに走って行った。二人は今にも抱き合いたい気持ちだったが、それまで二人の間を妨げていた百キロの隔たりが、今だに二人を引き裂こうとしているような気もして、素直に行動できなかった。面と向かって、何も言わずに見つめ合い続けた。暫く経ってから、ひとみが静かに「きみ」と言い、富井の手を取って歩き始めた。ひとみは、富井を、近くにある偕楽園に誘った。寒々とした冬の日なのに、梅の花が咲き始めていた。途中寒くなると、観覧中の人たちから離れて、二人は抱き合って暖め合った。その後は、水戸の駅ビルで遅い昼食をとり、富井は、ひとみにおみやげのお菓子を買った。そして、一日はあっという間に過ぎ、富井は改札を通って帰路についた。この日の出費で、富井の貯金は激減してしまった。

その春、ひとみはなんとか中学を卒業し、地元のスーパーでレジ係として働き始めた。富井は三年生になった。そして、受験で忙しくなる前にと思い、夏休みに入ってすぐに、今度は、普通電車を使って水戸まで行く計画を立てた。

富井は、家を出て、片道四時間近く掛けて、水戸までやってきた。もう昼時で、待っていたひとみとすぐに駅ビルのレストランに入った。
「ひとみさん、ぼく、もう貯金が尽きてきたよ。あの、嫌な弟からも、お金を借りたんだ。それで、悲しいけど、もう、なかなか水戸には来れないと思う」
「そうだよね。ここは、僻地だから。わたしが行くことが出来たらいいんだけど、それも無理だし......。それに、きみ、そろそろ、受験の時期だよね。頑張ってね」

昼食の後、駅ビルの中を少し歩いている間に、もう富井の帰る時間になった。駅の改札の前まで来た時、富井は、それまで握っていたひとみの手を振り払うようにして帰途についた。その後、二人の手紙のやり取りは続いたが、頻度は段々と減っていった。二人共、お互いのことを忘れはしなかったが、百キロの隔たりが、確実に二人の間を遠のけていると感じた。富井の受験が終わり、新学年が始まった頃、久しぶりに、ひとみから富井に手紙が来た。

(ひとみの手紙)わたし、ここでは、あまり楽しみもなくて、落ち込んでいたんだけど、それではいけないと思って、新しいことをはじめたの。アイルランドから来ている宣教師が、無料の英会話教室をやっていて、それに出てみることにしたの。わたし、ほんとうは英語なんかに興味があるわけではないんだけど、タダだし、少しは他の人とも接しないと思って。この教室に来る人は、先生も他の生徒たちも、みな年配ばかりで、若者は、わたしだけ。それで、皆にすごく喜ばれている。みな、いい人ばかりで、わたし、少しは元気が出てきたと思う。教室の仲間で、時々、バーベキューをしたり、車に分乗してモールに繰り出すことも。それで、わたしは、みんなの孫みたいな年だから、いつも、いつも、ごちそうしてもらったり、お土産をもらったりしているの。わたし、「ずるいみたい」と言ったら、みんなが、若い人が来てくれるだけで嬉しいって言うんだよ。それで、わたしも、ついつい、その気になっちゃって。また、書くね。

(富井の手紙)ひとみさん、英会話教室に行くようになって、よかったね。ひとみさんみたいな人が来たら、みんな喜ぶのは当然だよ。ぼくも、その教室に行きたいなぁ。ところで、やっと、受験が終わり、ぼくは、希望の高校に進学したよ。電車通学で、一時間位かかるんだ。初めは、それだけで、結構疲れちゃった。ぼくの高校は、学校行事がすごく多いんだ。新入生歓迎会に始まって、合唱祭、体育祭、演劇祭、文化祭と目白押しなんだ。そして、新入生歓迎会の時に興味を持った、コンピュータ研究部に入ったよ。今、ぼくが作っているプログラムは、飛行機で飛ぶ時の事を想定したものなんだけど、地球上の一点からもう一点に飛行するには、どの方角にどれだけの距離を飛んだらいいかを計算するんだ。そんな訳で、それなりに忙しい毎日だよ。

***筆者注:この時代の「コンピュータ」と言うのは、ホテルの部屋にある冷蔵庫程も大きいのに、計算能力はと言えば、昨今の電卓程度だったそうです。

さて、ひとみが引っ越してから、二年以上経った頃、ひとみの祖母が亡くなった。この人は、すでに他界している、ひとみの父親の母で、葬儀のため、ひとみは母親と一緒にバスで上京することになった。葬儀の後、母親は他の用事があったので、ひとみは、東京駅で富井と二時間程会うことが出来た。
「ひとみさん、その黒い服を着ていると、もう、立派な大人だね」
「そう? きみだって、背も高くなったんじゃない? でも、わたしたち、これから、どうなっちゃうんだろう?」
母親と合流し、ひとみがバスに乗り込む時、二人は手も触れずに別れた。

二人が離れ離れになってからの三年半程の間に会ったのは、この三回だけだった。それでも、毎年、富井の誕生日には、ひとみからカードが届いた。そして、いつも、「また、きみに、はまぐりの酒蒸しを作ってあげたい」と書いてあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み