10.スーパーの買い物客

文字数 3,005文字

また新しい学年が始まろうとしていた頃、ひとみは、相変わらず石塚のスーパーのレジ係として働いていた。夕刻、次の買い物客の手元を見ると、水のボトルを一本だけ買おうとしている。ひとみは、「いらっしゃいませ」と挨拶して顔を見た時に、ものすごい驚きと喜びに包まれた。確実に大人っぽくなってはいたが、それは、間違いなく富井だった。ひとみは、抱きつきたい気持ちを抑えながら言った。
「きみ、こんなところで何してんの?」
「なんにも」
「嘘でしょ。まだ、わたしのことが気になってるの?」
「うん。気になっている。ずっと気になってる」

ひとみの動作が中断してしまったので、次に並んでいた客がしびれをきらして声を出した。
「あの〜、早くレジ済ませてほしいんですけど!」
ひとみは、我に返って、返事をした。
「あっ! すみません。すぐにします」
ひとみは、今度は、富井の方を向いていった。
「わたし、あと30分くらいでシフトが終わるから。そうだ。きみ、ちょっと、お客さんの袋詰手伝って!」

シフトが終わると、ひとみと富井は連れ立ってスーパーを出た。
「わたし、ず〜っと、夢見ていたんだなぁ、いつかこういう日が来るんじゃないかなぁって。きみが、急に現れて、わたしをどこかに連れて行ってくれるんじゃないかなぁって」
「そして、その、どこかなんだだけど......。え〜と、ぼく、茨城大学に入ったんだよ! そして、大学のそばに、一部屋なんだけど、アパートを借りたんだ!! 今日のことだよ。そこに、ひとみさんを連れていきたいんだ!」

あまりに急の展開で、ひとみには、ポカンと口を開けて富井のことを見つめ続けていた。そして、やっと、状況を理解すると、富井に抱きついた。
「ほんとに?! きみ、ほんとに、わたしのこと、迎えに来てくれたんだね! 嘘みたい!!」
「うん。たった今、このまま、ぼくのアパートに来て......、そして、ずーっと一緒にいてくれる?」
「うん、うん! 一部屋だって、何もなくたって、きみと一緒にいられればいい!!」

二人は、バス停まで来ると、しっかりと寄り添ってバスを待った。ところが、時刻表に書いてある時間になってもバスは来ない。その時、急に、ひとみがためらいながら言った。
「え〜と、ちょっと気になってきたんだけど......。きみ、浮気しなかったでしょうね?」
あまりに思いがけない質問に、富井は戸惑った。
「えっ? その〜」
富井は、真正面を向いたまま、ひとみの方を見ない。
「したのねっ?! きみの顔にそう書いてあるよ!!」
「その〜、デートをしたことはあるんだけど......。何でもないよ」
「まさか、あの、バレンタイデーの子?」
「あ〜。うん。ひとみさんが引っ越してしまったことを知っていて、それからも、毎年バレンタイデーにチョコレートをくれたんだ。それで〜、実は、その子も同じ高校に......」

ここまで言った時に、ひとみは明らかに怒っているような顔つきになった。
「きみっ! 今まで、わたしに、そのこと、一言も言ってなかったよねっ!!」
「だって〜、関係ないと思ったんだよ。ほんとに、何でもないんだよ。同じ高校だから、電車で一緒になったりしたんだけど、それで、あまりにしつこいから、仕方なく、何回かデートしてみたんだけど。その子のことは、嫌いじゃなかったんだけど......、でも〜、やっぱり、ぼくには合わなかったよ。どうしても、ひとみさんのことが忘れられなくて! それで、その子に、はっきり言ったんだ。そうしたら、案外ケロッとしていて、『あなた、ほんとに彼女のことが好きなのね。分かったわ。それだったら、私、しょうがないけど、諦めるわ。そして、あなたと彼女のこと、応援するわよ。うまく行くといいわね』だって。それで、おしまい。だから、こうやって来てるんじゃない」
「まぁ、そう言われれば......。じゃぁ、目をつぶるから」
ひとみはほんとに目をつぶった。

富井は、しばらくひとみの横顔を眺めていたが、今度は自分が不安になってきた。
「ねぇ〜、もしかして〜、ひとみさんは、浮気してないよね?」
ひとみは目をパチっと開けて、「ん〜」と言ったが、真正面を向いたままで、富井の方を見ない。
「えー、もしかして、浮気しちゃったのぉ?!」
ひとみは、富井が泣きそうな顔になったのを見て、少し慌てた。
「そんな情けない顔しないでよ。浮気なんかじゃないんだから。ほんの少しの間、お付き合いしただけなんだから」
「えー! お付き合いしちゃったのー?!」
「ちょっと〜。中学一年生の頃みたいな言い方しないでよ。大丈夫なんだから。実はね、例の英会話教室なんだけど、ある時、珍しく若い男の人が入ってきたの。それで、その人、わたしを、車で食事や買い物に連れて行ってくれたの。わたしとしては、大変ありがたかった訳なんだけど、別に、その〜、それ以上の感情はなかったんだから。それで、ひょっとして、わたし、その人のことを利用しているだけじゃないかなって思い始めたの。それは、悪いことだよね。それで、わたし、はっきりと言ったの。きみのことも話したよ。そうしたら、ずいぶんと悲しそうな顔をして、『実は、結婚したかったんです』とか言われちゃって。ちょっと、気の毒には思ったんだけど、結局、その人、諦めたの。そして、『お幸せに』って言ってくれた。それからは、その人、英会話教室には全く来なかった」

富井は、納得したようだった。
「ふ〜ん。そうだったの。確かに、その人、ちょっとかわいそうな気もする」
「わたし、その人はいい人だとは、思ったんだよ。もし、きみと知り合っていなかったり、きみが他の人のことを好きになってしまっていたら、わたし、その人ともう少し付き合っていたかもしれない」
「そうなの? ひとみさんが、他の人と一緒になるなんて、考えただけで辛いけど」
「そんなこと考えないでいいよ。あり得ないから。それより......、わたし達の、これからのことを考えたいんだから」

それで、二人は、どうやら、お互いさまと思ったようだ。落ち着いたところで、富井が口を開いた。
「なんだか、バス、来るか来ないかわからないね。いっそのこと、歩いていこうか?」
「えっ?! でも、水戸までかなり遠いけど」
「うん。でも、一時間か、二時間か歩けば、着くと思うよ。い〜や、一晩掛かったって、ぼく、ひとみさんと一緒に、歩きたいんだ。ずっと、ずっと、一緒に歩いて行きたいんだから」
「うん! わかった。きみと一緒だったら、わたしも、どこまでも歩いていく!」
「そして、もし、ひとみさんが疲れちゃったらね、ぼくが抱っこしてあげるから」
「えーっ! 大丈夫? わたし、結構重いんだけど」
「どんなに重くても大丈夫。ぼく、前より体格良くなったから」
「そうかもね。でも、ちゃんと確かめないと。きみのアパートに着いたらまず身体検査しないと。もう、長いこと怠っていたことだし」

二人は、ひたすら歩き続けて、やっとアパートにたどり着いた。そして、富井がドアを開けた時、ひとみが富井の耳元で、はぁはぁしながらささやいた。
「きみ......、わたし疲れちゃったんだけど......、抱っこしてくれる〜?」
当然、富井も疲れ切っていたのだが、ない力を振り絞って、ひとみを抱きかかえた。そして、よたよたしながら、なんとか、ひとみを担ぎ込んだ。二人にとっての、新たな『ひとみの部屋』に。
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