第5話
文字数 1,819文字
『まあ、そうですか。良かった。そうなるんじゃないかなと思って、私、傘を持ってきたんです』
『そうですか。あっ、もうぽつんときました』
『えっ、もう。……庁舎に来た人が濡れているかもしれません。マットを敷いておいたほうがいいかも……』
彼女の言葉に彼は慌てる。
『あっ、そうですね』
そして彼は、奥の物置から急いでマットを出して、入り口に敷く。彼女はそれを手伝いたいのだろうが、勝手に動いたら何か言われる。それで彼女は、彼が準備するのを心配そうに見守って、それからこう言う。
『お疲れさまです。……あなたも、濡れちゃってますよ』
彼女は、自分のハンカチを出して彼の背中を拭いてくれようとする。彼は慌ててそれを押しとどめる。
『い、いえ、大丈夫です』
彼女はくすりと笑う。すると彼には、二十メートル向こうにいる現実の彼女も、くすりと笑ったように思える。
あるときはこんな風に、彼女は彼に話しかける。
『そこからですと、外が見えますよね。……雨は、まだ降っていますか』
『いいえ、もうやんでいます。晴れ間が見えますよ。……外の桜の葉についている雫が、きらきら光っています』
彼は少しだけ首を傾げながらそう言う。彼女はそれを聞いて、洩れそうになるため息を呑み込む。
『そうですか。きれいでしょうね。……私も見たいな』
ほうというかすかなため息を聞いて、彼は慌てる。見れば、彼女は彼と同じように入り口のほうに首を傾げながら、淋しそうな顔をしている。しまった、と彼は思う。彼女の位置からは外を見ることができないのに。余計なことを言ってしまった。
『あ、で、でも、まだちょっと降ってるかも……』
あるときには、彼は思い切ってこんなことを言ってみる。
『あの、……ここから少し行ったところに、公園があるんです』
『はい』
『そこにも桜があって……そこからだと、遠くに海も見えるんです。この季節だと、雨が上がった後の夕焼けなんか、空が、紫と橙の混ざったような色になって、それはもう……』
そこまで言うと彼は言葉に詰まってしまう。にっこり笑って、彼女はその先を引き取る。
『それは、きれいでしょうね』
はい、そうなんです。今度、一緒に見に行きませんか。
だけど言えない。現実に、向こうに彼女の姿を見ていると、まるで彼女が本当に自分の言葉を聞いているような気がして、想像の中なのに彼には言えなかった。
『はい、とても……とても、きれいなんです』
彼は小さなアパートで一人暮らしをしていた。
時おり実家の母親から電話がかかってくることがある。あるとき、ひとしきり近況を伝え合った後、母親が言った。
「ねえ、……誰かいい人いないの?」
いつの頃からか年に数回、それはまるで年中行事のように母親から聞かれる言葉だった。
不思議なものでその言葉を聞くときは、あ、あれを言われるんだな、とわかってしまう。
それに対する自分の答えも、いつも同じだった。
「いないよ、お母さん」
「そう。早くいい人見つけて、安心させてね」
うん、と彼は頷く。言葉のトーンも間も同じ。まるで二人で、台本を読み合わせているようかのように、いつも同じやり取りを繰り返しているのだった。
だけど今回は少し違った。母の、「誰か、いい人いないの」という言葉を聞いたとき、彼の頭に彼女の姿が浮かんだ。
だが彼は首を振って、すぐそのイメージを打ち消した。何を馬鹿なことを。自分と彼女はなんでもないんだ、知り合いでさえないんだぞ。
彼は母に言った。
「そんな人いないよ、お母さん」
けれども言葉のトーンが、いつもと少し違ってしまった。そのわずかな差に気づいたのか、母の声も、いつもより一瞬遅れた。
彼はどきりとした。だが聞こえてきた言葉は、いつもどおりの「そうなの。早くいい人見つけてね」だった。
内心ほっとしながら、うん、と言った。
電話を切ったあと、彼の口からはため息が洩れた。
明かりを消して布団に入ってからも、彼はなかなか寝つけなかった。暗い天井にぼんやりと浮かぶ、電灯の白いカサを見ながら、自分について考えた。
彼には昔付き合っていた人はいたが、独り身になってからもう何年も経っている。仕事には満足しているし、休日はフットサルのサークルに参加していて、友人もいる。
生活にもの足りないと思うことはなかった。だけどたまに電話をかけてくる母親に、「誰かいい人いないの」と言われて、いつも「そんな人いないよ」としか言えないのは寂しいものだ、と思う。
『そうですか。あっ、もうぽつんときました』
『えっ、もう。……庁舎に来た人が濡れているかもしれません。マットを敷いておいたほうがいいかも……』
彼女の言葉に彼は慌てる。
『あっ、そうですね』
そして彼は、奥の物置から急いでマットを出して、入り口に敷く。彼女はそれを手伝いたいのだろうが、勝手に動いたら何か言われる。それで彼女は、彼が準備するのを心配そうに見守って、それからこう言う。
『お疲れさまです。……あなたも、濡れちゃってますよ』
彼女は、自分のハンカチを出して彼の背中を拭いてくれようとする。彼は慌ててそれを押しとどめる。
『い、いえ、大丈夫です』
彼女はくすりと笑う。すると彼には、二十メートル向こうにいる現実の彼女も、くすりと笑ったように思える。
あるときはこんな風に、彼女は彼に話しかける。
『そこからですと、外が見えますよね。……雨は、まだ降っていますか』
『いいえ、もうやんでいます。晴れ間が見えますよ。……外の桜の葉についている雫が、きらきら光っています』
彼は少しだけ首を傾げながらそう言う。彼女はそれを聞いて、洩れそうになるため息を呑み込む。
『そうですか。きれいでしょうね。……私も見たいな』
ほうというかすかなため息を聞いて、彼は慌てる。見れば、彼女は彼と同じように入り口のほうに首を傾げながら、淋しそうな顔をしている。しまった、と彼は思う。彼女の位置からは外を見ることができないのに。余計なことを言ってしまった。
『あ、で、でも、まだちょっと降ってるかも……』
あるときには、彼は思い切ってこんなことを言ってみる。
『あの、……ここから少し行ったところに、公園があるんです』
『はい』
『そこにも桜があって……そこからだと、遠くに海も見えるんです。この季節だと、雨が上がった後の夕焼けなんか、空が、紫と橙の混ざったような色になって、それはもう……』
そこまで言うと彼は言葉に詰まってしまう。にっこり笑って、彼女はその先を引き取る。
『それは、きれいでしょうね』
はい、そうなんです。今度、一緒に見に行きませんか。
だけど言えない。現実に、向こうに彼女の姿を見ていると、まるで彼女が本当に自分の言葉を聞いているような気がして、想像の中なのに彼には言えなかった。
『はい、とても……とても、きれいなんです』
彼は小さなアパートで一人暮らしをしていた。
時おり実家の母親から電話がかかってくることがある。あるとき、ひとしきり近況を伝え合った後、母親が言った。
「ねえ、……誰かいい人いないの?」
いつの頃からか年に数回、それはまるで年中行事のように母親から聞かれる言葉だった。
不思議なものでその言葉を聞くときは、あ、あれを言われるんだな、とわかってしまう。
それに対する自分の答えも、いつも同じだった。
「いないよ、お母さん」
「そう。早くいい人見つけて、安心させてね」
うん、と彼は頷く。言葉のトーンも間も同じ。まるで二人で、台本を読み合わせているようかのように、いつも同じやり取りを繰り返しているのだった。
だけど今回は少し違った。母の、「誰か、いい人いないの」という言葉を聞いたとき、彼の頭に彼女の姿が浮かんだ。
だが彼は首を振って、すぐそのイメージを打ち消した。何を馬鹿なことを。自分と彼女はなんでもないんだ、知り合いでさえないんだぞ。
彼は母に言った。
「そんな人いないよ、お母さん」
けれども言葉のトーンが、いつもと少し違ってしまった。そのわずかな差に気づいたのか、母の声も、いつもより一瞬遅れた。
彼はどきりとした。だが聞こえてきた言葉は、いつもどおりの「そうなの。早くいい人見つけてね」だった。
内心ほっとしながら、うん、と言った。
電話を切ったあと、彼の口からはため息が洩れた。
明かりを消して布団に入ってからも、彼はなかなか寝つけなかった。暗い天井にぼんやりと浮かぶ、電灯の白いカサを見ながら、自分について考えた。
彼には昔付き合っていた人はいたが、独り身になってからもう何年も経っている。仕事には満足しているし、休日はフットサルのサークルに参加していて、友人もいる。
生活にもの足りないと思うことはなかった。だけどたまに電話をかけてくる母親に、「誰かいい人いないの」と言われて、いつも「そんな人いないよ」としか言えないのは寂しいものだ、と思う。