第7話

文字数 1,888文字

 月曜からはまたつらい現実が始まる。
 そんな時間を耐えるために、彼女は心の中で彼と会話をした。

『このお休みは、どうでしたか』
『ゆっくり休めました。大分疲れが取れました』
『そうですか。私もです』
『また一週間、がんばりましょう』
『はい、がんばりましょう……』
 そうやって心の中で話していると、二人は本当に仲の良い関係で、手を伸ばせば互いに届くような、そんな近くにいるように思えた。
 ふとした折に目が合うような、自分がつい相手の姿を探してしまうように、相手もまた同じように自分を探しているのではないか、そんなふうに。
 そして次の瞬間、彼も彼女も心の中で首を振るのだった。そんなこと、あるわけない。だって向こうは自分のことなんて、景色の一部にしか思ってないんだから。
 
『……いつの間にか、陽射しがこんなに強くなっています。もう夏ですね』
『そうですね。……あなたの制服も、半そでに変わりましたね』
『はい。あなたも。……よく似合っています』
『本当ですか? うれしいです。……あなたも似合っています』
『……もう夏ですね』
『……夏ですね』

 朝からシャツの下が汗ばんでくるような、初夏の陽気にもなんとなく慣れてくる頃、彼の会社では納涼会があった。
 彼は飲み会は得意ではなかったが、彼のような仕事では、会社の仲間に会える機会は多くない。久しぶりに仲間たちと会って酒を飲み、それなりに楽しんでいるときに、彼と同期の伊藤という男が言った。
「なぁおまえ、彼女いないの?」
 伊藤はそう言いながら彼の隣に座った。持っていたジョッキからビールがこぼれる。
 彼の頭に彼女の姿が浮かんだ。だけど口には出せない。
「……いないよ」 
「嘘つけ。ほんとはいるんだろ」
「いないって」
 しつこく絡んでくる伊藤をかわしていると、突然別のところから声が上がった。
「あぁこいつな、俺たちの立ってるところの向かいにある、地銀の出張所の女の子に気があるんだよ」
 彼は思わずビールを噴きそうになった。声のしたほうを見ると、彼の同僚の老人だった。老人は酢だこのように顔を真っ赤にさせながら、上半身をフラフラさせている。
「えー! そうなんですかぁ⁉」
 伊藤が大仰な身振りで驚く。彼は慌てた。
「ち、違いますよ」
 だが老人はにやにやしながら言った。
「違うもんかぁ。向かいに座ってる子のこと、いつもじーっと見てるの、俺は知ってるんだぞ」
「へーっ!」
 いつの間にか他の人たちも集まっていた。
「ち、違いますよ……」
 彼はもう、しどろもどろになってしまった。こんな話を酒の席でされるのも恥ずかしかったが、それ以上にこの老人に気づかれていたことのほうが恥ずかしかった。自分は傍からわかるほど、彼女のことを見ていたのだろうか。彼は顔が赤くなるのを感じた。
「じゃあさ、俺が合コン、セッティングしてやるよ!」
 えっと驚いて見ると、伊藤は得意げな顔で頷いてみせた。
「俺がいるところ、その地銀の本社だろ? 仲良くなった女の子、何人かいるんだよ。その子たちに頼んで、その女の子連れてきてもらうよ」
 周りから歓声が上がった。
「こいつ、自分からは声かけないだろうしな」
「どんな子だろうな」
「俺も俺も、参加希望!」
 彼が口がきけないでいるうちに、話は決まってしまった。呆然としている彼の肩を、伊藤がポンと叩いて言った。
「じゃあ、夏休みは一日あけとけよ!」

 だけど彼らの言ったことは本当だと、火照った身体を冷ますために回り道で帰りながら、彼は思った。
 その道にも桜があり、春には仕事帰りに夜桜を楽しむことができた。今は庁舎の桜と同じように緑の葉が生い茂り、光る星をつかもうと、夏の夜空に向かって懸命に枝を伸ばしている。
 彼も桜の木と一緒に、都会の濁った空でも負けずに瞬いている星たちを眺めながら、考えた。
 仲間の言っていたとおり、自分には自分から声をかける勇気はない。そのくせ、派遣場所の女の子たちと仲良くなっているという伊藤をうらやましく思い、自分も想像ではなく現実の彼女と話したい、と思っている。
 余計なおせっかいのように見える合コンのセッティングも、本当にいやだったら断っているはずだ。だから仲間たちの行為はありがたいものなのだった。みんなに見られるのは少し恥ずかしいけど。
 もうすぐ制服を着ていない彼女に会える。いつも二人の間を隔てている、二十メートルの距離もなく。
 それを思って胸が高鳴った。

〈夏休み、どうしよう? どこか旅行に行かない?〉
〈ごめん。ほとんど休みが取れそうにないんだ〉
〈そうなんだ。じゃあ私、そっちに行くよ。部屋でご飯作って、ユウの帰り待ってる〉
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