第9話

文字数 1,890文字

 下を向き、爪先を見つめ、祈るような思いで扉が開くのを待った。ガチャという鍵を開ける音と、ギィーとドアが開く音。彼女は顔を上げた。
 目の前には恋人の、驚いたような、あきらめたような表情があった。その下には、きちんとそろえて置いてあるヒールの靴。
 彼女は泣き出した。
 
 女がいるから部屋では話しにくいと言うので、近くの公園に行った。
 そこで彼女は恋人から、好きな人ができたこと、自分と別れて欲しいこと、本当に申し訳ないと思っていることなどを聞いた。彼女は泣いた。
 
 部屋に置いておいた自分のものは処分してほしいと彼女が言うと、恋人は、わかったと言った。その顔を見て、ひょっとしたらもう捨てたのかもしれない、と彼女は思った。だってもう、新しい女が部屋の中にいるんだもの。
 恋人は彼女に、本当にごめんともう一度謝った。見上げると、恋人は彼女と同じように悲しそうな顔をしていた。
 どうしてなの。いつからなの。どうして何も言ってくれなかったの。私よりあの人のほうが好きなの。私は、こんなにあなたが好きなのに。私は、私は、あなたがいたから。
 言いたいことは山ほどあったが、言ったところでどうにもならないことを彼女は知っていた。だから何も言わずにそこから去った。
 もう真夜中になっていたので、電車はなかった。彼女はファミレスを探して入った。
 アイスコーヒーの中で溶けていく氷を見つめながら、かつての恋人が、今ごろ部屋で女と何をしているのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 ファミレスの窓からも桜が見えた。そこから見える桜は、真夏の厳しい暑さにぐったりと疲れてしまったようで、こげ茶色の枝を力なく垂らしていた。根元のほうには、力尽きて落ちてしまった葉が土に混じって溜まっている。
 頬杖をつきながら、彼女はそれをじっと見つめた。
 枝から落ちて汚くなってしまった葉は、まるで私みたい。
 うう、うう、と周りに気づかれないように彼女は泣いた。
 朝になると電車に乗って帰った。早い時間に家に着くと家族が心配してしまうので、またしても時間を潰さねばならなかった。
 昼前に家に帰ると、まっすぐ自分の部屋に向かい、部屋に入って後ろ手に扉を閉めた。そこでようやく、彼女は泣き崩れることができた。
 それで、彼女と恋人の四年に及ぶ恋は終わった。
 翌月曜日、彼女は朝から上の空だった。仕事にも身が入らない。いつものように、向こうに立っている彼と想像の会話をすることも忘れていた。
 隣の先輩の女子は、そんな彼女を横目でちらりと見たが、何も言わなかった。
 彼女はただ呆けたようにして、目の前の世界をぼんやりと眺めていた。
 先週までの彼女は、「こんなつらい職場にいても、遠くに愛し合う恋人がいる女」だった。だがもう、そうじゃない。
 彼女は、こんな、同僚といえば意地悪な先輩の女子一人しかいなくて、仕事といえばたまに訪れるお客だけで、そんなつらくてつまらない職場に勤めているただの女だった。
 休憩時間に楽しみに見るメッセージもない。心浮き立つような夜の電話もない。週末に会えることを想う相手もいない。  
 繋がっているものがない、ただの女だ。
 目頭が熱くなるのを感じた。身体の芯が震えているようだ。いいえ、心が震えているよう。
 彼女は必死に歯を食いしばって、涙が零れるのをこらえた。だけど後から後からこみ上げてくる、心を打ちのめすような嗚咽を止めることはできなかった。
 わあああ、うわああああ、わあああん。ひどいよ、ひどいよ。
 こんなの、いやだあ。
 そうやって子どものように泣き喚きたかった。だけど彼女は勤務中で、そんなことはできなかった。
 今にも涙が零れ落ちそうな瞳で、彼女はぎゅっと前を見つめた。

 彼は今日も彼女の姿を見て、嬉しくなった。それを自覚してもっと嬉しくなった。
 いつものように心の中で彼女に話しかけた。だけど今日に限って、会話を想像するのがうまくいかない。
 なぜだろう、と彼は思った。彼女はいつもどおり、真面目にきちんと座っている。だけどなぜか、彼には彼女の様子がいつもと違って見えた。
 彼は目を細めて、彼女をじっと見つめた。
 彼女は震えていた。青い制服に包まれた細い肩が、わなわなと震えている。
 まさか、と彼は思った。仕事中だし、それにもしそうだとしても、彼の位置から見えるわけない。
 だけどそれならどうして、彼女はいつもと違うように見えるのだろう。

 ちょっとあなた、大丈夫なの、と先輩の女子が言った。彼女ははっとした。どうやら傍目にもわかるほどぼうっとしていたらしい。
 あ、はい、大丈夫です。すみません。 

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