第6話

文字数 1,375文字

 彼の頭の中に、また彼女の姿が浮かんだ。彼はもう一度首を振った。自分と彼女は関係ない、赤の他人じゃないか。第一自分は、彼女の名前さえ知らないんだ。
 だが一度頭の中に思い浮かんだイメージは、なかなか消えてくれなかった。彼は思った。心の中で想像したように、本当に彼女と一緒に公園を歩けたら。仕事帰りに待ち合わせをして、夕焼けを一緒に見られたら。彼女は海に沈む夕陽を見て、「わあ、きれい」と言うだろう。自分は、景色より彼女を見ているだろう。それはきっと、心の中だけで会話をしているより、ずっと楽しいだろう。
 彼は布団の上に起き直ると、三度目に首を振った。馬鹿馬鹿しい。彼女は自分のことなんて、隣の柱程度にしか思っていないのに。
 彼はどさりと布団の上に身体を投げ出すと、ぎゅっと目をつぶった。

心の中で彼と会話をするのがひそかな楽しみになったとはいえ、彼女にとってここがつらいことに変わりはなかった。それは梅雨が明けて、新緑がみずみずしい青葉へと成長しても変わらなかった。
 家族には心配をかけたくなかったので、彼女は、家では無理をして明るく振舞った。
「この春から場所が変わったんでしょ。新しいところはどうなの」と母に聞かれても、「うん、まあまあいいところだよ」と言い繕(つくろ)った。
 職場でも家でも気の休まらない、そんな毎日でも彼女が耐えられたのは、恋人がいたからだった。
 彼女には、大学時代からずっと付き合っている恋人がいた。恋人は、彼女とは違う銀行に勤めていた。いや、そもそも彼女が金融系を志望したのも、恋人の影響だった。
 恋人は入社すると遠くに配属になった。彼女は毎日、何度もSNSでメッセージを送った。
 朝起きると、まずスマホを開く。
〈おはよう。今日もがんばろう!〉
 日中も、お昼や休憩時間になるとメッセージを送った。ここへ来てからは、特にその数が増えた。
〈新しい職場、つらい。一日中先輩と二人っきりで、話す相手もいないの。おかしくなっちゃいそう〉
〈早くユウに逢いたい。週末が楽しみ! 近くに新しい水族館ができたんでしょ? そこに行きたいな〉
 夜寝る前には恋人の写真を見ながら、おやすみのメッセージを送った。朝起きたら返事が来てますように、と祈りながら。
〈おやすみ。ユウの夢が見れますように〉
 だが恋人からの返事は、彼女が送るほどに多くはなかった。それでも少ないそれらは、彼女を慰めてくれた。
〈新しいところは、慣れるまで大変だよね。がんばれ〉
(水族館、行こう。行き方調べておくから)
 恋人からのメッセージを見ると、彼女は、乾いた毎日が水で潤うような気がした。
 交通費の都合もあり、毎週というわけにはいかなかったが、彼女は休みになると恋人に会いに行った。
〈今週の土曜、そっちに行っていい? 会いたい〉
〈ごめん、今週はちょっと忙しいんだ。だけど来週だったら、多分大丈夫〉
〈わかった。じゃあそれまでがんばる〉
 恋人に会える週末の金曜日は、いつものように座って仕事をしながらも、気持ちが浮き立った。もうすぐ会える、恋人に会える。そのときばかりは、先輩の女子に何か言われても気にならなかった。彼との会話を想像することもなかった。
 そうして恋人とゆっくり夢のような週末を過ごすと、彼女の傷んだ心は癒され、明日からまたがんばれるような、そういう気持ちになれた。

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