第10話
文字数 1,643文字
慌てて返事をする。怒られるかと思ったが、先輩は、そうそれならいいけど、と言っただけだった。
いけないしっかりしなきゃ、と思って、背筋を伸ばして居住まいを正した。だけどそうやって必死で心を励ましても、お客は来ない。気を紛らわしてくれる仕事はない。だから虚勢はすぐに崩れてしまう。涙腺が弛む。
心の中に浮かんでくるのは、かつての恋人のことばかりだった。
だけど恋人はもういない。四年にも及ぶ付き合いは、一瞬で終わった。その間に蓄積して大きく育った愛情は、彼女のほうだけだったのだ。
彼女には趣味もなかった。休みの日は恋人と過ごすか、恋人のことを考えて過ごした。だから恋人がいなくなると、何もなくなってしまった。そして職場はといえば、女の先輩一人と、来ないお客、ない仕事、狭くて古い小さな部屋。それだけだった。
こんなところでも、と彼女は思った。
机の下で拳を握った。胸が震える。心が震える。熱いものが体の奥のほうで生まれて、伝って、身体中を駆け上がってくるよう。
こんなところでも我慢できたのは、恋人がいたから。恋人がいれば、いつかここから抜け出せる、と信じていたから。
鼓動が震えた。
顔が瞳が、熱くなって、濡れて。
彼女は声を上げてしまいそうだった。
もしかしたら私は、十年経ってもこのままなのだろうか。
正面を向いた彼女の瞳から、ぽろっと一滴、涙が零れた。
彼はそれを見ていた。彼女が泣くのを、彼は見逃さなかった。
それが魔法を解く鍵だったかのように、彼は一歩踏み出した。
はっとして我に返った。
いやだ私、泣いたりして。早くハンカチを出して、拭かなきゃ。
そう思った。だけど身体が動かない。
そして彼女は見た。彼がまっすぐに、自分のほうに向かって歩いてくるのを。
それが彼女の魔法を解く鍵だった。
彼女はがたんと音を立てて立ち上がった。それからゆっくり、カウンターの横を通って前に回った。何か言われるかもしれない、と心の片隅で思ったが、言われたってかまわない。
彼女が席から立ち上がるのが見えた。どうしたんだろう、と彼は思った。彼女らしくない。
だけど彼もまた同じだった。仕事中なのに、持ち場を離れて歩き出してる。
後ろで同僚の老人が、「あ、あ~あぁ~」と言っているのが聞こえた。
彼は、自分が何か不思議な力に引かれているような気がした。その力は、まっすぐ彼女に向かっている。
この力に抵抗することもできるだろう、と思った。だが彼は間違えなかった。これに従い、導かれるままに。今、自分は彼女に向かって歩き出さなければいけない。その瞬間を間違えると、人は取り返しのつかないことになる。
彼は歩いた。彼女に向かって。
自分がカウンターの前に回ったから、きっと初めて、彼に自分の姿が頭から足の先まで見えているだろう。
そして歩いてくる。まっすぐ、自分に向かって。
彼女も歩き出した。彼に向かって。
自分と彼との間に、見えないまっすぐな線があって、その両端に自分たちがいて。そして不思議な力が導いているみたい。
彼と彼女の間には、二人を隔てていた何もなくなった。多分、今までだってずっと、何もなかったのだ。
二人は、二十メートルの真ん中で出会った。初めて、手を伸ばせば触れられそうなところに相手がいる。
彼は、彼女が思っていたよりずっと華奢なのを知った。
彼女は、彼の胸が思っていたよりずっと広いのを知った。
彼は、何か言おうとして口を開いた。だけど言葉が出てこなかった。
彼女は、彼を見上げて微笑んだ。それで彼も笑った。
二人は一緒に笑った。
彼も彼女も、その笑顔をずっと前から知っていたような気がした。
それから彼は、もう一度口を開いた。彼女もそうした。
遠くで、桜の枝の揺れる音が聞こえた。
「初めまして、こんにちは。私は角谷直嗣(かどやなおし)といいます……」
「初めまして、こんにちは。私は舞川由紀(まいかわゆき)です……」
了
いけないしっかりしなきゃ、と思って、背筋を伸ばして居住まいを正した。だけどそうやって必死で心を励ましても、お客は来ない。気を紛らわしてくれる仕事はない。だから虚勢はすぐに崩れてしまう。涙腺が弛む。
心の中に浮かんでくるのは、かつての恋人のことばかりだった。
だけど恋人はもういない。四年にも及ぶ付き合いは、一瞬で終わった。その間に蓄積して大きく育った愛情は、彼女のほうだけだったのだ。
彼女には趣味もなかった。休みの日は恋人と過ごすか、恋人のことを考えて過ごした。だから恋人がいなくなると、何もなくなってしまった。そして職場はといえば、女の先輩一人と、来ないお客、ない仕事、狭くて古い小さな部屋。それだけだった。
こんなところでも、と彼女は思った。
机の下で拳を握った。胸が震える。心が震える。熱いものが体の奥のほうで生まれて、伝って、身体中を駆け上がってくるよう。
こんなところでも我慢できたのは、恋人がいたから。恋人がいれば、いつかここから抜け出せる、と信じていたから。
鼓動が震えた。
顔が瞳が、熱くなって、濡れて。
彼女は声を上げてしまいそうだった。
もしかしたら私は、十年経ってもこのままなのだろうか。
正面を向いた彼女の瞳から、ぽろっと一滴、涙が零れた。
彼はそれを見ていた。彼女が泣くのを、彼は見逃さなかった。
それが魔法を解く鍵だったかのように、彼は一歩踏み出した。
はっとして我に返った。
いやだ私、泣いたりして。早くハンカチを出して、拭かなきゃ。
そう思った。だけど身体が動かない。
そして彼女は見た。彼がまっすぐに、自分のほうに向かって歩いてくるのを。
それが彼女の魔法を解く鍵だった。
彼女はがたんと音を立てて立ち上がった。それからゆっくり、カウンターの横を通って前に回った。何か言われるかもしれない、と心の片隅で思ったが、言われたってかまわない。
彼女が席から立ち上がるのが見えた。どうしたんだろう、と彼は思った。彼女らしくない。
だけど彼もまた同じだった。仕事中なのに、持ち場を離れて歩き出してる。
後ろで同僚の老人が、「あ、あ~あぁ~」と言っているのが聞こえた。
彼は、自分が何か不思議な力に引かれているような気がした。その力は、まっすぐ彼女に向かっている。
この力に抵抗することもできるだろう、と思った。だが彼は間違えなかった。これに従い、導かれるままに。今、自分は彼女に向かって歩き出さなければいけない。その瞬間を間違えると、人は取り返しのつかないことになる。
彼は歩いた。彼女に向かって。
自分がカウンターの前に回ったから、きっと初めて、彼に自分の姿が頭から足の先まで見えているだろう。
そして歩いてくる。まっすぐ、自分に向かって。
彼女も歩き出した。彼に向かって。
自分と彼との間に、見えないまっすぐな線があって、その両端に自分たちがいて。そして不思議な力が導いているみたい。
彼と彼女の間には、二人を隔てていた何もなくなった。多分、今までだってずっと、何もなかったのだ。
二人は、二十メートルの真ん中で出会った。初めて、手を伸ばせば触れられそうなところに相手がいる。
彼は、彼女が思っていたよりずっと華奢なのを知った。
彼女は、彼の胸が思っていたよりずっと広いのを知った。
彼は、何か言おうとして口を開いた。だけど言葉が出てこなかった。
彼女は、彼を見上げて微笑んだ。それで彼も笑った。
二人は一緒に笑った。
彼も彼女も、その笑顔をずっと前から知っていたような気がした。
それから彼は、もう一度口を開いた。彼女もそうした。
遠くで、桜の枝の揺れる音が聞こえた。
「初めまして、こんにちは。私は角谷直嗣(かどやなおし)といいます……」
「初めまして、こんにちは。私は舞川由紀(まいかわゆき)です……」
了