第4話

文字数 1,842文字

 庁舎を訪れるものがいない限り、彼の視線を遮るものはない。
 彼は、自分の正面、約二十メートル向かいにいる、出張所の彼女のことを考えた。
彼女はきっと、次のお客にどう対応するかなど、仕事のことで頭がいっぱいだろう。隣には監視のような先輩の女子もいる。ただ前を向いてぼうっと座っているように見えても、頭の中は緊張しているのだろう。だから彼女からもきっと自分の姿は見えているだろうが、それは視界を構成する一要素としてであって、「自分」を特に見ている、なんてことはないだろう。
 彼はそう思った。だが彼のほうは、どうしても彼女を意識してしまった。「前方」ではなく、「その中にいる彼女」を見てしまい、そんな自分の気持ちに戸惑った。

 お客が来ない限り、彼女の視線を遮るものはない。
 彼女は、自分の正面、約二十メートル向かいにいる、警備員の彼のことを想像した。最初はもう一人のほうが老人なので、彼もまたそのくらいの年齢なのかと思った。だがそのうち、目深に被った帽子の下の顔が、案外若いことに気がついた。そういえば制服をぴっと着こなしているその身体も、どことなく引き締まって見える。いくつなのだろうか。
 もう一人の老人のほうは奥の休憩室に篭ったきりなので、ほとんど彼が出ずっぱりでいる。彼はきっと、常に緊張し、辺りを警戒しているだろう。だから、彼のほうからも自分の姿は見えているだろうが、それは彼の守る「庁舎の入り口」を構成する一要素としてであって、その中で特に「自分」を見ている、なんてことはないだろう。  
 彼女はそう思った。だが彼女のほうは、どうしてか彼の姿が意識されてしまった。「前全体」ではなく、「その中にいる彼」を見てしまう自分に気がついて、恥ずかしくなった。
 
 彼は、徐々に元気をなくしていく彼女のことが心配だった。あるときとうとう、彼女に話しかけてみた。ただし、心の中で。
『初めまして、こんにちは』
 誰にも聞けない聞かれない、秘密の言葉だった。
ところが同じ日同じとき、彼女のほうもまた、彼に向かって話しかけていたのだった。ただし、心の中で。
『初めまして、こんにちは』
 彼は想像した。自分がそう言ったら、彼女はなんて言うだろう。
『いつもお仕事、お疲れさまです』
 彼女も想像した。自分がそう言ったら、彼はなんて言うだろう。
『ありがとうございます。あなたも、いつもずっとそうしていて、大変でしょう……』
 そこまで想像して、彼は次に何を話していいかわからなくなった。それも当然で、彼は実際には彼女と言葉を交わしたことはないし、彼女のことを何も知らないのだから。
 そこまで想像すると、彼女は何だかおかしくなって、くすりと笑った。隣の先輩の女子の視線を感じて、慌ててやめた。

 翌日。入れっぱなしの曲をまたかけるような、そんな毎日の中で、彼はまた彼女に話しかけた。心の中で。
『おはようございます』
 彼女もまた彼に話しかけた。心の中で。
『おはようございます』
 二人はお互いに同じときに心の中で話しかけ、同じように相手の言葉を想像しているのだった。
『今日は、陽射しが眩しいですね』
『そうですね。もう半そででもいいみたいですね』
『……もうすぐ夏ですね』
『……夏ですね』
 二人は心の中の会話を楽しんだ。まさか相手が、そのとき自分と同じように、自分との会話を想像しているなんて、思いもかけなかったから。
 二人を隔てているのは、庁舎の入り口を通る人と、たまに訪れる彼女のお客。それに二十メートルの冷たい床。それだけだった。

 彼女はいつしか、一日中座りながら、彼と心の中で会話をするのが楽しみになっていた。
『今日は、お昼は何を食べたのですか』
『コンビニで弁当を買って食べました。いつも、大体そうです』 
 彼の言葉に、彼女は心持ち首を傾げる。
『そうですか。……身体には、あまり良くなさそうですね』
『はい、ついそうなってしまって……』
 彼女がそう想像したら、二十メートル向こうの彼が少し頬を赤らめ、俯いたように見える。気のせいなのに、タイミングの良さに思わず微笑む。
『……お弁当だったら、一本向こうの通りにある、お弁当屋さんが美味しいですよ。ハンバーグや、唐揚げや、焼き魚なんかもあるんですよ』
『そうですか。今度行ってみます……』

 庁舎を守る緊張感が弛んでいるわけではないけれど、彼にとって、いつしかそうやって、心の中で彼女と会話をするのが楽しみになっていた。
『午後から雨が降るみたいです。雲行きが怪しくなってきました』
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