第8話

文字数 1,853文字

〈朝も早いし、帰りも遅いから。ほとんど会える時間ないんだよ〉
〈それでもいいから〉
〈ごめん。ほんとに忙しいんだ〉
 そう言われてしまうと、彼女はそれ以上は言えなかった。仕方がないので、夏のお休みは両親とお墓参りをし、友達と買い物に行った。
 夏休みに入った最初のころは解放感を感じていた白い太陽も、休みが終わるころには、肌を傷める存在に変わった。
 路傍の桜は、生い茂る青葉も力なく垂れてぜえぜえと喘いでいた。

〈お仕事がんばってる? お疲れさま〉
〈こんな時間までやってるの? 大変だね〉  
 何度もメッセージを送ったが、恋人からの返事はなかった。
 電話をしたかったが、「帰りも遅くなる」と言われては、睡眠時間を減らしてしまっては申し訳ないのでそれもできなかった。
 久しぶりにずっと一緒にいられると思ったのに。学生時代みたいに、部屋の中で二人だけで、思いきり甘えられると思ったのに。思えば休みに入る前も、忙しいなどの理由で一ヶ月以上会っていなかった。 
 彼女は心細かった。

「ごめんっ」
 伊藤が手を合わせて謝った。いいよ、と彼は言った。
 合コンに来たのは、伊藤と仲の良いという本社の女の子たちと、彼のいる庁舎とは別の出張所の女の子だった。多分、どこかで話が食い違ったのだろう。
「まあ、今日の子たちもかわいいじゃん。とりあえず、今日は今日で楽しもうよ」
 他のメンバーがとりなすように言った。彼は笑って頷いた。
 しかし彼は、初対面の女の子たちと気楽に話せるような性格ではなかった。結局彼は、コンパの間中ほとんど口をきかなかった。
 帰り際に、「今度こそ、ちゃんとその子を連れてきてくれるよう、頼んどくから」と伊藤が言ったが、彼は「本当にいいよ」と言って、二次会には参加せずに一人で帰ってきた。
 帰りの電車はいつもより空いていた。彼は、窓の外を流れていく夜の街を眺めながら思った。
 やっぱり、人に頼るのが間違ってたんだ。こういうことは、自分で何とかしなきゃいけなかったんだ。

 休み明けの彼女は、少し日に焼けていた。どこかに行ったのだろうか、と彼は思った。
 合コンのとき、「今度遊びに行こう」と女の子と約束していた伊藤の姿を思い出した。
 彼女も、誰かと遊びに行ったのだろうか。
 休み明けの彼は、以前と同じきりっとした姿勢でそこに立っていた。唯一彼の休みを感じさせるのは、制服から覗くたくましい腕が、日に焼けて黒くなっていることだった。
 誰かと遊びに行ったのだろうか、と彼女は思った。もしかして恋人と旅行に行ったのかもしれない。自分は行けなかったけど。
 たとえそうだとしても、いつもと同じ姿でそこに立っている彼を見て、彼女はほっとした。恋人からの連絡はほとんどなかったけど、彼との心の会話は、変わらず楽しむことができる。

 誰かと出かけたのだとしても、少し焼けた彼女は健康そうに見えて、きれいだった。いつもと変わらない彼女の姿に、彼はほっとした。

 彼は、二十メートル向こうに座っている彼女に向かって、微笑んだ。
 彼女は、二十メートル向こうに立っている彼に向かって、微笑んだ。
 すると相手も自分の微笑みに応えて笑ってくれたように見えて、お互いに本当にそうしているとは思いもかけず、嬉しかった。

『お休みはどうでしたか』
『私は、家族とのんびりして、友人と買い物に行って、……そんなものです』
『そうですか』
『あなたは、どうでしたか』
『私は、友人と飲んで、それから実家に帰って、……そんなものです』
『そうですか』
 
 肌を焦がすように照りつけていた夏の陽射しも、いつの間にか少しずつ和らいでいた。仕事帰りに見上げていた青空も、気がつけば薄墨を溶かしたような淡い夕闇にかわっている。
 遠くで蜩(ひぐらし)が鳴いている。夏が終わろうとしていた。

 次の週末、思い切って、彼女は恋人を訪ねてみることにした。その週末も、彼女が行っていいかと尋ねると、「忙しいから」という返事だった。
 夏休みを挟んで、会えないままもう二ヶ月が経とうとしている。このままだとずっと会えないような気がして、彼女は、恋人に連絡しないで部屋に行ってみることにしたのだった。

 夜の闇の中、見上げると、窓に煌々(こうこう)と明かりがついているのが見えた。
 ごくんと唾を呑み込んだ。夜遅く連絡もしないまま訪れた自分を見て、恋人はどんな顔をするだろう。
 インターホンを押す指が震えた。それを見つめながら、ピンポーンという音がドアの向こうに響くのを聞いていた。続いて中で人の動く気配。
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