ある冷水機と生涯

文字数 1,611文字

 この夏は前代未聞の酷暑。

 これは、ある公共施設の水飲み場に置かれた、ある冷水機、ウォータークーラーの物語である。水飲み場で冷水を噴出する、あの機械のことだ。その施設の名は便宜上「A市民会館」とでもしておこう。
 A市民会館は税金を投じ、鳴り物入りで開館した。ハコモノだ。この一階のトイレ近くに冷水機は設置された。立派な公共施設なのだから水飲み場くらいあって当然だ。予算だってある。しかし水回りの関係もあるし、施設の機能的にはオマケにすぎないから、トイレ近くの半端なところに押しやられた。迎えられたときから中途半端な扱いだったが、そんなことは冷水機の常だ。

 ところで、通路を隔て一〇メートルくらいか、店舗スペースがある。募集すると、喫茶店が入ることに決まった。コーヒーや紅茶、パンやサンドイッチなどを売る。このスペースはもともと、そんな業態用に計画してあった。近隣は公有地ばかりでコンビニもない。喫茶店にはもってこいの立地のはずだ。公募とはいうが、地元の泥臭い人間関係が絡んで決まった話である。

 市の担当者らは満足。全てはシナリオ通りだ。しかし――
「この水飲み場、営業妨害になるんじゃないですか?」
 部課で問題になった。水がタダで飲めたら、目と鼻の先の喫茶店は客が減る。
「なら、店の周りだけ飲食可にするか」
 役所には、ありがちな話である。
「立て札でもして、見回りの警備員に取り締まらせよう」
「では、この冷水機は撤去しましょうか?」
「いや、それはそれでマズい。予算も通してある。メンテナンス業者もいる。それに撤去費用がかかる」
「ではコレ、何の意味があるんでしょうか……」
「持ち込んだ水筒にでも汲んでくれたらいいだろう。水筒を持ってくる人なんてそんなにいないし。職員が使うのにもいいだろ」
「あ、なるほどですね!」

 冷水機には当初の想定外だったが、固定客はいた。しかし、五年ほど経って異動で人も入れ替わったころ――
「課長、『売上が伸び悩んで、店が続けられない』と言っています」
 日本は景気が悪い。高価な喫茶店を利用する人は限定的だ。行政にありがちな楽観的な予測が招いた計画ミス。
 頼み込んで引き留めて、喫茶店は営業時間を短縮することになった。正午を挟んだ数時間だけ。朝や夕方には営業しない。
「コンビニもないのに……困りましたね」
「そうだな、この閉鎖した喫煙所のところ。自販機を置けばいいんじゃないか?」
「さすが課長! 天才ですね!」
 自販機は売上が手に取るようにわかる。喫茶店には補償する。

 しかし――
「『自販機のPETボトルで水を汲む人が多くて困る』と言ってます」
「そうか。いよいよ水を汲むのも禁止するか……。『水筒などに水を汲むな』と貼り紙しておいてくれ」
 まるで乾いた雑巾を絞るようだ。

「ところでこの冷水機、何の意味があるんでしょうか?」
「そうだな……よくわからんが、どうしようもあるまい。気がつかなかったことにしよう」

 さて、この夏は前代未聞の酷暑。コロナ5類化というのもある。A市民会館も打って変わって、平日の日中だというのに人でごった返している。まるで新型コロナは終わったとでもいわんばかり。喫茶店にも人が密集して入れ食いだ。
 飲食スペースも学生たちが陣取って、学習スペースにして居座っている。学生だからこそ、彼らの多くも飲み物は買う。冷水機は使わない。そのまま長居していても、警備員は彼らを取り締まらない。ここは学習禁止にまではされていないからだ。それに、会社から指示されていない。警備員というのはそういう仕事だ。

 そんななか。冷水機が片隅でひとり、ときおり思い出したかのようにブォーンと音を立てる。熱を放散して水道水を冷やしながら、税金と電力で稼働している。禁止に気づかず運よく取り締まられなかった人と、マイコップ持参者のために。そして、メンテナンス業者の食い扶持のために。

 ――今日も救急車のサイレンが聞こえる。
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