四.
文字数 5,488文字
「止まれ! 出るな!」
シオンの不意の声が、エルドレッドの耳に突き刺さった。
「え? あ」
梢の隧道の出口間際に、エルドレッドの足がつんのめるように止まる。
その刹那、何かがひゅんとエルドレッドの鼻先を掠め、ぼごん、と彼の足元にめり込んだ。
「わっ!!」
背筋にひやりと怖気が走り、思わず仰け反ったエルドレッド。足元に目を落としてみると、地面にめり込んでいるのは、掌に載るくらいの灰色の物体だった。
「石……?」
確かに、それは石のようだ。
しかし鈍い紡錘形に磨き上げられたその石は、どう見ても自然石ではない。人工的に加工された、立派な凶器だ。
そんなことを考えた次の瞬間、エルドレッドの首根っこが、背後からぐいっと引っ張られた。
「わわっ!!」
エルドレッドが思わず声を上げた。と同時に、二発目の石が風を突っ切って、エルドレッドに迫る。過たずに彼の額を狙う紡錘形の石弾が、エルドレッドの頭蓋を粉砕したかに見えた。
が、エルドレッドがばったりと地面にひっくり返るのが、わずかに早かった。エルドレッドを一直線に襲った石は、彼の前髪をわずかに揺らし、暗い森の奥へと消えていった。
シオンの苦り切った呻きが聞こえる。
「……“飛石のミゲル”」
「えっ? 何……」
シオンの言葉がよく聞き取れず、エルドレッドは身を起こしかけた。
しかしその彼の上体は、どこからかグッと抑えられる。続けて、エルドレッドの視界の外からシオンが囁く。
「目を閉じて、このまま動くな。俺が『走れ』と言ったら、アグロウまで走れ。村はすぐそこだ」
「シオンは?」
「俺も後で行く。クライフの家を探して、そこで待て」
シオンの言葉がそこで途切れた。
手足を投げだして仰向けるエルドレッドも、言われたとおりに両目を閉じる。同時に、仰向けたエルドレッドの背中から、盾がずるずると引き摺り出された。シオンが取っていったようだ。
それを最後に、シオンの気配が消えた。相棒の息遣いはおろか、足音も衣擦れも聞こえない。ただどろりとした静寂が、暗い梢から垂れてくる。
目を閉じたまま、エルドレッドは考える。
……あの飛んできた石は、投石帯 から放たれたものだ。
シオンが止めてくれなかったら、間違いなくエルドレッドの脳天は最初の石に、かち割られていただろう。
投石帯、地味で軽視されがちな武器だが、その質量によるダメージは侮れない。石を放ったのが盗賊だとしても、恐ろしい投石帯使いだ。
そこでエルドレッドは気が付いた。土を踏む足音が、ゆっくりと近付いてくる。
思考を止めたエルドレッドは、目を開けず、自分の耳に神経を集中する。
用心深い、ずっずっと糸を曳くような足音は、やがてエルドレッドの側で止まった。続けて聞こえてきたのは、低い男の声。
「さて、くたばったかー、くたばってねえかー……」
ぞんざいで、どこか嘲笑めいた、知らない声だ。厭らしく間延びした男の語尾と足音が、エルドレッドの頭の辺りをうろうろしている。
「あー、気絶してるだけか。俺の投石 に気絶だけで済むなんざ、運のいい小僧だ」
この声の主が、森の外から投石を仕掛けてきた男に間違いない。シオンが言っていた、宝石を狙っている盗賊だろうか。
相棒がアグロウへの道にこの森を選んだのは、この天然の隧道なら上からの投石を防ぎ、自分たちの前後だけに注意を払うことができるからだろう。だからこの投石の男も、隧道の出口で待ち構えていたのだ。
……シオンは、何もかも予期していたのだろうか?
男が小さく舌打ちした。
「逃げちまったか。連れを置き去りにして、まあ冷てえもんだ。まあ、ヤツぁ誰ともつるんだ事がねえらしいから、予想どおりだがなー。”旦那”とおんなじだ」
……シオンのことだろうか? それに『旦那』って誰だ?
身動きをこらえて聞き耳を立てるエルドレッド。男の野卑た笑い声が、彼の耳にざらっと引っかかる。
「ま、コイツも行きがけの駄賃だ。今の内にあり金はもらっとくか……」
男の声と気配が、仰向けで気絶のフリを決め込むエルドレッドに、じわじわと迫ってくる。
間近な敵を前に、エルドレッドの心拍数がテンポを上げる。
……今ならやれる!
ぴくりと右手を動かしかけたエルドレッドだった。が、シオンの出した指示が、彼の逸る気持ちを押し留める。
……シオンの合図を待たなくては。
必ず、シオンは合図をくれる。独りで逃げ出すハズがない。
目を閉じたまま、その時を待つエルドレッド。高揚してくる戦意を抑え切れず、息が浅く乱れた。
と、男の漂わす気配に、ただならない緊張が走る。
「……コイツ!?」
ためらいと驚きの呻き。男がエルドレッドの演技に気が付いたようだ。
同時に、シオンの声が木立の中に響き渡る。
「走れ!!」
待ちに待った、相棒の言葉。
カッと目を見開き、エルドレッドは地面からバッと跳ね起きた。立ち上がった彼の前に立っているのは、驚きに目も口もぽかんと開けた、髭面の中年男。
確かにこの男は、クローケスの街でエルドレッドを見ていた男だ。
マント姿の男の右手には、二本の紐が付いた薄革の帯がぶら下がっている。投石帯 だ。その帯の中には、紡錘形の凶悪な石が覗く。
しかしそれ以上の観察は無用だ。
意表を衝かれて立ち尽くす男を尻目に、エルドレッドは全力で地面を蹴った。
――走れ!――、という信頼する相棒の指示に従って。
刹那、樹上からふわりとこぼれた白い影が、男の背後にゆらりと蟠る。
シオンだ。
不意に現れた気配を察し、正気に還った男が鋭く振り向いた。
「て!? テメェーっ!! 罠か!?」
サッと跳び退き、投石帯を取り直す男。
その男にまとわりつくように、スッと間合いを詰めに掛かるシオン。
だが、エルドレッドに見えたのは、そこまでだった。割れ鐘を乱打するような、耳を劈(つんざ)く音を背中に浴びながら、エルドレッドは原始林の隧道を跳び出した。
金銀の砂子を混ぜ込んだ、藍色の夕空。
雲はない。透明な夜が、辺りを覆い尽くしつつある。
ギザギザにほつれた地平が、血の色に染まっている。その今日の太陽が残したわずかな返り血が、夜闇の侵攻に無駄に抗う。
原始林の外は、まだ開墾の進まない荒地らしい。
ぼこぼこと波打つ、不毛な丘陵地の間を縫うように、一筋の小路が続く。その行き付く先は、倹しい家々がひっそりと寄り合う村のようだ。たぶんきっと、あれが目指す村、アグロウだろう。
宵闇に刻まれた村の稜線からは、幾筋もの煙が立ち昇るのが分かる。竈が吐き出す夕餉の印に間違いない。
エルドレッドは、その小道を振り向くことなく、全力で疾駆する。息を切らせて走る彼の頭は、相棒の安否のことで一杯だ。
……シオンは大丈夫だろうか?
シオンがあの男を引き留めている間に、エルドレッドはアグロウの村へ駆け込まなくてはならない。
敵は凄腕の投石帯使い《スリンガー》だ。
エルドレッドが投石に倒れたと見せかけて、男をおびき寄せたシオン。あのシオンの指示は、男の投擲範囲の内側に入り込み、暗殺者の間合いに持ち込むための“罠”だった。接近戦になれば、たぶん圧倒的にシオンの優位だろう。
だが何故か男もシオンも、お互いを知っていたような印象があった。もしかしたら、二人はお互いの戦い方を熟知しているのかも知れない。
エルドレッドは駆けながら、肩越しに振り向いてみる。
遠ざかる原始林からは、誰も追ってこない。
エルドレッドの脳裏に、昏い稲妻が閃いた。
……あの男、本当に盗賊なのか?
狙われているのは、エルドレッドでも宝石でもなかった……?
訝る彼は、どこからか漂ってくる異様な気配に気が付いた。氷などとは比較にならないほどの、凍てついた殺気。まるで乾き切った厳冬の木枯らしが、横殴りに吹き寄せてきているようだ。
その途方もない威圧感に、エルドレッドの足が否応もなく地面に留められる。
言いようのない恐怖と不安に駆られつつ、宵闇に立ちすくんだエルドレッドは、その気配の根源を求めて周囲に視線を巡らせた。
と、彼は気が付いた。
小路から百歩ばかり離れた丘に佇む、黒い人影に。
凝らせたエルドレッドの目に映るのは、夜よりも黒い、長身の男だ。
距離と刻限のせいで、詳細は見て取れないが、恐らく何かの異人だろう。 爛々たる黄色い両目と、片耳のない不吉なシルエット。 どちらかというと細身に映るが、訴えてくる存在感は凄まじい。目には見えないどす黒い瘴気が、確たる質量をもって男の全身を取り巻いている。
男とこれだけの距離がありながら、その男がまとう漆黒のオーラがエルドレッドの皮膚を灼き、臓腑をぎりぎりと絞り上げる。
嘔吐さえ覚えるほどの、濃厚な悪意。エルドレッドの腕も脚も、石になったかのように硬直する。
しかし丘の上の男は、すぐにくるりと踝を返し、丘陵の向こう側へと姿を消した。
同時にエルドレッドも呪縛から解き放たれ、固まっていた四肢も自由になる。途端に腰ががくがくと砕け、エルドレッドは地面に両手を着く。その手も小刻みに震え、すぐには立ち上がれそうもない。
……あの片耳の男は何だ? あの絶対的な威圧感は一体……?
胃がひっくり返るような圧迫感に耐えながら、エルドレッドはふらふらと立ち上がる。まだ力の戻り切らない両足を突っ張って、エルドレッドは再び村を目指して走り出した。
そうして、ものの数分も経たないうちに、夜の中に広がる風景が変わった。
小路の左右に広がる、平らな農地。
涼やかな風に、青い麦の穂が穏やかに揺れる。他にも芋や南瓜、何か根菜の蔓や葉も、星明かりを浴びて瑞々しく光っている。アグロウの村人たちが切り拓いた耕地に違いない。
そんな畑の中の道を走り抜け、エルドレッドはようやく目的の村、アグロウへとたどり着いた。
畑の真ん中にひっそりと息づく小村アグロウ。
石と木で造られた慎ましやかな母屋が、菜園を兼ねた広い庭園に囲まれている。素朴な家々が二十戸ばかり集まって作られた、そんな小さな村だ。
まだ宵の口、といった刻限だが、出歩いている村人の姿は見えない。しかし一刻も早くクライフの実家を探して宝石を渡し、シオンを待たなくてはならない。
こういう初めての村では、酒場か店、あるいは寺院や神殿を訪ねるのが、知りたい情報を得る早道になる。旅に生きる冒険者たちの基本的な常識だ。
エルドレッドも、まだはあはあと息を切らせながら、頼れる施設を探して村の中を徘徊する。
静まり返った夜のアグロウをくまなく歩き回り、程なくエルドレッドは、一軒の小さな店を探し当てた。
他の建物と同じような、石と木の小ぢんまりとした建物。まだ隙間から灯りの洩れる玄関扉の上には、『酒と日用のアンシャル商店』と書かれた看板が掲げてある。
ふ、と安堵の息をつき、店に入ろうとしたエルドレッドだった。
が、背後から不意に声を掛けられた。
「ノイ派戦士のカッシアス殿、でよろしいか?」
一応はこの大陸の共通語だが、奇妙な訛りに聞き慣れない声質だ。
ざざっ、と勢いよく踝を返しつつ、エルドレッドは声の主から三歩の距離を置いた。腰を低く落とし、剣の柄ををしっかりと握った彼は、鳶色の目で背後の人影を睨む。
アンシャル商店のから洩れる灯りを浴びて佇むのは、エルドレッドの知らない大男だ。
緑の模様のある白いポンチョを着込んだ、手足の細長い異人。ぼさぼさの髪に金色の大きな眼、そして大きく裂けたワニめいた口。いわゆる“爬虫人 ”だ。
村の外でみた恐ろしげな男とは、完全に別人らしい。内心、わずかばかりの安堵を覚えたエルドレッドだった。
それでも彼は、この爬虫人を睨み付けて用心深く聞く。
「……あんたも俺の宝石が目的か?」
「宝石?」
聞き返した爬虫人が、鼻先をわずかに持ち上げた。金色の両眼でエルドレッドを見下ろしながら、爬虫人が小さく笑う。
「そんな物には興味がない。はっきり言うが、私は、しぶとくて往生際の悪いノイ派が嫌いだ。あなたと事を構える気はない」
本当にキッパリと言い切られ、ムッと口元を曲げたエルドレッド。だがこの爬虫人の物腰や態度には、害意や殺意はなさそうだ。とは言え、この爬虫人の目的も魂胆も、まだ何も分からない。
警戒を解かないエルドレッドを正視して、爬虫人がゆっくりと名乗る。
「私はチマルポポカ。チマルポポカ=テスコ=チョルーラ。“コアトルの民”だ。見分を広め、知識を深めるために、諸国を巡っている。私は、確かにあなたを探していた。だが……」
身構えたエルドレッドが口を開くより早く、チマルポポカがくるりと広い背中を見せた。
「今のあなたには、とても大切な用事があると見た。先にその用事を済ませて来るといい。私はこの村の広場で夜を明かすつもりだ。そこであなたを待つ」
一方的にそこまで語ったチマルポポカが、夜の中へと歩んでゆく。
「私の用件は、その時に改めて話そう、カッシアス殿」
シオンの不意の声が、エルドレッドの耳に突き刺さった。
「え? あ」
梢の隧道の出口間際に、エルドレッドの足がつんのめるように止まる。
その刹那、何かがひゅんとエルドレッドの鼻先を掠め、ぼごん、と彼の足元にめり込んだ。
「わっ!!」
背筋にひやりと怖気が走り、思わず仰け反ったエルドレッド。足元に目を落としてみると、地面にめり込んでいるのは、掌に載るくらいの灰色の物体だった。
「石……?」
確かに、それは石のようだ。
しかし鈍い紡錘形に磨き上げられたその石は、どう見ても自然石ではない。人工的に加工された、立派な凶器だ。
そんなことを考えた次の瞬間、エルドレッドの首根っこが、背後からぐいっと引っ張られた。
「わわっ!!」
エルドレッドが思わず声を上げた。と同時に、二発目の石が風を突っ切って、エルドレッドに迫る。過たずに彼の額を狙う紡錘形の石弾が、エルドレッドの頭蓋を粉砕したかに見えた。
が、エルドレッドがばったりと地面にひっくり返るのが、わずかに早かった。エルドレッドを一直線に襲った石は、彼の前髪をわずかに揺らし、暗い森の奥へと消えていった。
シオンの苦り切った呻きが聞こえる。
「……“飛石のミゲル”」
「えっ? 何……」
シオンの言葉がよく聞き取れず、エルドレッドは身を起こしかけた。
しかしその彼の上体は、どこからかグッと抑えられる。続けて、エルドレッドの視界の外からシオンが囁く。
「目を閉じて、このまま動くな。俺が『走れ』と言ったら、アグロウまで走れ。村はすぐそこだ」
「シオンは?」
「俺も後で行く。クライフの家を探して、そこで待て」
シオンの言葉がそこで途切れた。
手足を投げだして仰向けるエルドレッドも、言われたとおりに両目を閉じる。同時に、仰向けたエルドレッドの背中から、盾がずるずると引き摺り出された。シオンが取っていったようだ。
それを最後に、シオンの気配が消えた。相棒の息遣いはおろか、足音も衣擦れも聞こえない。ただどろりとした静寂が、暗い梢から垂れてくる。
目を閉じたまま、エルドレッドは考える。
……あの飛んできた石は、
シオンが止めてくれなかったら、間違いなくエルドレッドの脳天は最初の石に、かち割られていただろう。
投石帯、地味で軽視されがちな武器だが、その質量によるダメージは侮れない。石を放ったのが盗賊だとしても、恐ろしい投石帯使いだ。
そこでエルドレッドは気が付いた。土を踏む足音が、ゆっくりと近付いてくる。
思考を止めたエルドレッドは、目を開けず、自分の耳に神経を集中する。
用心深い、ずっずっと糸を曳くような足音は、やがてエルドレッドの側で止まった。続けて聞こえてきたのは、低い男の声。
「さて、くたばったかー、くたばってねえかー……」
ぞんざいで、どこか嘲笑めいた、知らない声だ。厭らしく間延びした男の語尾と足音が、エルドレッドの頭の辺りをうろうろしている。
「あー、気絶してるだけか。俺の
この声の主が、森の外から投石を仕掛けてきた男に間違いない。シオンが言っていた、宝石を狙っている盗賊だろうか。
相棒がアグロウへの道にこの森を選んだのは、この天然の隧道なら上からの投石を防ぎ、自分たちの前後だけに注意を払うことができるからだろう。だからこの投石の男も、隧道の出口で待ち構えていたのだ。
……シオンは、何もかも予期していたのだろうか?
男が小さく舌打ちした。
「逃げちまったか。連れを置き去りにして、まあ冷てえもんだ。まあ、ヤツぁ誰ともつるんだ事がねえらしいから、予想どおりだがなー。”旦那”とおんなじだ」
……シオンのことだろうか? それに『旦那』って誰だ?
身動きをこらえて聞き耳を立てるエルドレッド。男の野卑た笑い声が、彼の耳にざらっと引っかかる。
「ま、コイツも行きがけの駄賃だ。今の内にあり金はもらっとくか……」
男の声と気配が、仰向けで気絶のフリを決め込むエルドレッドに、じわじわと迫ってくる。
間近な敵を前に、エルドレッドの心拍数がテンポを上げる。
……今ならやれる!
ぴくりと右手を動かしかけたエルドレッドだった。が、シオンの出した指示が、彼の逸る気持ちを押し留める。
……シオンの合図を待たなくては。
必ず、シオンは合図をくれる。独りで逃げ出すハズがない。
目を閉じたまま、その時を待つエルドレッド。高揚してくる戦意を抑え切れず、息が浅く乱れた。
と、男の漂わす気配に、ただならない緊張が走る。
「……コイツ!?」
ためらいと驚きの呻き。男がエルドレッドの演技に気が付いたようだ。
同時に、シオンの声が木立の中に響き渡る。
「走れ!!」
待ちに待った、相棒の言葉。
カッと目を見開き、エルドレッドは地面からバッと跳ね起きた。立ち上がった彼の前に立っているのは、驚きに目も口もぽかんと開けた、髭面の中年男。
確かにこの男は、クローケスの街でエルドレッドを見ていた男だ。
マント姿の男の右手には、二本の紐が付いた薄革の帯がぶら下がっている。
しかしそれ以上の観察は無用だ。
意表を衝かれて立ち尽くす男を尻目に、エルドレッドは全力で地面を蹴った。
――走れ!――、という信頼する相棒の指示に従って。
刹那、樹上からふわりとこぼれた白い影が、男の背後にゆらりと蟠る。
シオンだ。
不意に現れた気配を察し、正気に還った男が鋭く振り向いた。
「て!? テメェーっ!! 罠か!?」
サッと跳び退き、投石帯を取り直す男。
その男にまとわりつくように、スッと間合いを詰めに掛かるシオン。
だが、エルドレッドに見えたのは、そこまでだった。割れ鐘を乱打するような、耳を劈(つんざ)く音を背中に浴びながら、エルドレッドは原始林の隧道を跳び出した。
金銀の砂子を混ぜ込んだ、藍色の夕空。
雲はない。透明な夜が、辺りを覆い尽くしつつある。
ギザギザにほつれた地平が、血の色に染まっている。その今日の太陽が残したわずかな返り血が、夜闇の侵攻に無駄に抗う。
原始林の外は、まだ開墾の進まない荒地らしい。
ぼこぼこと波打つ、不毛な丘陵地の間を縫うように、一筋の小路が続く。その行き付く先は、倹しい家々がひっそりと寄り合う村のようだ。たぶんきっと、あれが目指す村、アグロウだろう。
宵闇に刻まれた村の稜線からは、幾筋もの煙が立ち昇るのが分かる。竈が吐き出す夕餉の印に間違いない。
エルドレッドは、その小道を振り向くことなく、全力で疾駆する。息を切らせて走る彼の頭は、相棒の安否のことで一杯だ。
……シオンは大丈夫だろうか?
シオンがあの男を引き留めている間に、エルドレッドはアグロウの村へ駆け込まなくてはならない。
敵は凄腕の投石帯使い《スリンガー》だ。
エルドレッドが投石に倒れたと見せかけて、男をおびき寄せたシオン。あのシオンの指示は、男の投擲範囲の内側に入り込み、暗殺者の間合いに持ち込むための“罠”だった。接近戦になれば、たぶん圧倒的にシオンの優位だろう。
だが何故か男もシオンも、お互いを知っていたような印象があった。もしかしたら、二人はお互いの戦い方を熟知しているのかも知れない。
エルドレッドは駆けながら、肩越しに振り向いてみる。
遠ざかる原始林からは、誰も追ってこない。
エルドレッドの脳裏に、昏い稲妻が閃いた。
……あの男、本当に盗賊なのか?
狙われているのは、エルドレッドでも宝石でもなかった……?
訝る彼は、どこからか漂ってくる異様な気配に気が付いた。氷などとは比較にならないほどの、凍てついた殺気。まるで乾き切った厳冬の木枯らしが、横殴りに吹き寄せてきているようだ。
その途方もない威圧感に、エルドレッドの足が否応もなく地面に留められる。
言いようのない恐怖と不安に駆られつつ、宵闇に立ちすくんだエルドレッドは、その気配の根源を求めて周囲に視線を巡らせた。
と、彼は気が付いた。
小路から百歩ばかり離れた丘に佇む、黒い人影に。
凝らせたエルドレッドの目に映るのは、夜よりも黒い、長身の男だ。
距離と刻限のせいで、詳細は見て取れないが、恐らく何かの異人だろう。 爛々たる黄色い両目と、片耳のない不吉なシルエット。 どちらかというと細身に映るが、訴えてくる存在感は凄まじい。目には見えないどす黒い瘴気が、確たる質量をもって男の全身を取り巻いている。
男とこれだけの距離がありながら、その男がまとう漆黒のオーラがエルドレッドの皮膚を灼き、臓腑をぎりぎりと絞り上げる。
嘔吐さえ覚えるほどの、濃厚な悪意。エルドレッドの腕も脚も、石になったかのように硬直する。
しかし丘の上の男は、すぐにくるりと踝を返し、丘陵の向こう側へと姿を消した。
同時にエルドレッドも呪縛から解き放たれ、固まっていた四肢も自由になる。途端に腰ががくがくと砕け、エルドレッドは地面に両手を着く。その手も小刻みに震え、すぐには立ち上がれそうもない。
……あの片耳の男は何だ? あの絶対的な威圧感は一体……?
胃がひっくり返るような圧迫感に耐えながら、エルドレッドはふらふらと立ち上がる。まだ力の戻り切らない両足を突っ張って、エルドレッドは再び村を目指して走り出した。
そうして、ものの数分も経たないうちに、夜の中に広がる風景が変わった。
小路の左右に広がる、平らな農地。
涼やかな風に、青い麦の穂が穏やかに揺れる。他にも芋や南瓜、何か根菜の蔓や葉も、星明かりを浴びて瑞々しく光っている。アグロウの村人たちが切り拓いた耕地に違いない。
そんな畑の中の道を走り抜け、エルドレッドはようやく目的の村、アグロウへとたどり着いた。
畑の真ん中にひっそりと息づく小村アグロウ。
石と木で造られた慎ましやかな母屋が、菜園を兼ねた広い庭園に囲まれている。素朴な家々が二十戸ばかり集まって作られた、そんな小さな村だ。
まだ宵の口、といった刻限だが、出歩いている村人の姿は見えない。しかし一刻も早くクライフの実家を探して宝石を渡し、シオンを待たなくてはならない。
こういう初めての村では、酒場か店、あるいは寺院や神殿を訪ねるのが、知りたい情報を得る早道になる。旅に生きる冒険者たちの基本的な常識だ。
エルドレッドも、まだはあはあと息を切らせながら、頼れる施設を探して村の中を徘徊する。
静まり返った夜のアグロウをくまなく歩き回り、程なくエルドレッドは、一軒の小さな店を探し当てた。
他の建物と同じような、石と木の小ぢんまりとした建物。まだ隙間から灯りの洩れる玄関扉の上には、『酒と日用のアンシャル商店』と書かれた看板が掲げてある。
ふ、と安堵の息をつき、店に入ろうとしたエルドレッドだった。
が、背後から不意に声を掛けられた。
「ノイ派戦士のカッシアス殿、でよろしいか?」
一応はこの大陸の共通語だが、奇妙な訛りに聞き慣れない声質だ。
ざざっ、と勢いよく踝を返しつつ、エルドレッドは声の主から三歩の距離を置いた。腰を低く落とし、剣の柄ををしっかりと握った彼は、鳶色の目で背後の人影を睨む。
アンシャル商店のから洩れる灯りを浴びて佇むのは、エルドレッドの知らない大男だ。
緑の模様のある白いポンチョを着込んだ、手足の細長い異人。ぼさぼさの髪に金色の大きな眼、そして大きく裂けたワニめいた口。いわゆる“
村の外でみた恐ろしげな男とは、完全に別人らしい。内心、わずかばかりの安堵を覚えたエルドレッドだった。
それでも彼は、この爬虫人を睨み付けて用心深く聞く。
「……あんたも俺の宝石が目的か?」
「宝石?」
聞き返した爬虫人が、鼻先をわずかに持ち上げた。金色の両眼でエルドレッドを見下ろしながら、爬虫人が小さく笑う。
「そんな物には興味がない。はっきり言うが、私は、しぶとくて往生際の悪いノイ派が嫌いだ。あなたと事を構える気はない」
本当にキッパリと言い切られ、ムッと口元を曲げたエルドレッド。だがこの爬虫人の物腰や態度には、害意や殺意はなさそうだ。とは言え、この爬虫人の目的も魂胆も、まだ何も分からない。
警戒を解かないエルドレッドを正視して、爬虫人がゆっくりと名乗る。
「私はチマルポポカ。チマルポポカ=テスコ=チョルーラ。“コアトルの民”だ。見分を広め、知識を深めるために、諸国を巡っている。私は、確かにあなたを探していた。だが……」
身構えたエルドレッドが口を開くより早く、チマルポポカがくるりと広い背中を見せた。
「今のあなたには、とても大切な用事があると見た。先にその用事を済ませて来るといい。私はこの村の広場で夜を明かすつもりだ。そこであなたを待つ」
一方的にそこまで語ったチマルポポカが、夜の中へと歩んでゆく。
「私の用件は、その時に改めて話そう、カッシアス殿」