四.

文字数 5,488文字

「止まれ! 出るな!」

 シオンの不意の声が、エルドレッドの耳に突き刺さった。

「え? あ」

 梢の隧道の出口間際に、エルドレッドの足がつんのめるように止まる。
 その刹那、何かがひゅんとエルドレッドの鼻先を掠め、ぼごん、と彼の足元にめり込んだ。

「わっ!!」

 背筋にひやりと怖気が走り、思わず仰け反ったエルドレッド。足元に目を落としてみると、地面にめり込んでいるのは、掌に載るくらいの灰色の物体だった。

「石……?」

 確かに、それは石のようだ。
 しかし鈍い紡錘形に磨き上げられたその石は、どう見ても自然石ではない。人工的に加工された、立派な凶器だ。
 そんなことを考えた次の瞬間、エルドレッドの首根っこが、背後からぐいっと引っ張られた。

「わわっ!!」

 エルドレッドが思わず声を上げた。と同時に、二発目の石が風を突っ切って、エルドレッドに迫る。過たずに彼の額を狙う紡錘形の石弾が、エルドレッドの頭蓋を粉砕したかに見えた。
 が、エルドレッドがばったりと地面にひっくり返るのが、わずかに早かった。エルドレッドを一直線に襲った石は、彼の前髪をわずかに揺らし、暗い森の奥へと消えていった。
 シオンの苦り切った呻きが聞こえる。

「……“飛石のミゲル”」
「えっ? 何……」

 シオンの言葉がよく聞き取れず、エルドレッドは身を起こしかけた。
 しかしその彼の上体は、どこからかグッと抑えられる。続けて、エルドレッドの視界の外からシオンが囁く。

「目を閉じて、このまま動くな。俺が『走れ』と言ったら、アグロウまで走れ。村はすぐそこだ」
「シオンは?」
「俺も後で行く。クライフの家を探して、そこで待て」

 シオンの言葉がそこで途切れた。
 手足を投げだして仰向けるエルドレッドも、言われたとおりに両目を閉じる。同時に、仰向けたエルドレッドの背中から、盾がずるずると引き摺り出された。シオンが取っていったようだ。
 それを最後に、シオンの気配が消えた。相棒の息遣いはおろか、足音も衣擦れも聞こえない。ただどろりとした静寂が、暗い梢から垂れてくる。  
 
 目を閉じたまま、エルドレッドは考える。

 ……あの飛んできた石は、投石帯(スリング)から放たれたものだ。
 シオンが止めてくれなかったら、間違いなくエルドレッドの脳天は最初の石に、かち割られていただろう。
 投石帯、地味で軽視されがちな武器だが、その質量によるダメージは侮れない。石を放ったのが盗賊だとしても、恐ろしい投石帯使いだ。

 そこでエルドレッドは気が付いた。土を踏む足音が、ゆっくりと近付いてくる。
 思考を止めたエルドレッドは、目を開けず、自分の耳に神経を集中する。
 用心深い、ずっずっと糸を曳くような足音は、やがてエルドレッドの側で止まった。続けて聞こえてきたのは、低い男の声。

「さて、くたばったかー、くたばってねえかー……」

 ぞんざいで、どこか嘲笑めいた、知らない声だ。厭らしく間延びした男の語尾と足音が、エルドレッドの頭の辺りをうろうろしている。

「あー、気絶してるだけか。俺の投石(スリングショット)に気絶だけで済むなんざ、運のいい小僧だ」

 この声の主が、森の外から投石を仕掛けてきた男に間違いない。シオンが言っていた、宝石を狙っている盗賊だろうか。
 相棒がアグロウへの道にこの森を選んだのは、この天然の隧道なら上からの投石を防ぎ、自分たちの前後だけに注意を払うことができるからだろう。だからこの投石の男も、隧道の出口で待ち構えていたのだ。
 
 ……シオンは、何もかも予期していたのだろうか?

 男が小さく舌打ちした。

「逃げちまったか。連れを置き去りにして、まあ冷てえもんだ。まあ、ヤツぁ誰ともつるんだ事がねえらしいから、予想どおりだがなー。”旦那”とおんなじだ」

 ……シオンのことだろうか? それに『旦那』って誰だ?
 
 身動きをこらえて聞き耳を立てるエルドレッド。男の野卑た笑い声が、彼の耳にざらっと引っかかる。

「ま、コイツも行きがけの駄賃だ。今の内にあり金はもらっとくか……」

 男の声と気配が、仰向けで気絶のフリを決め込むエルドレッドに、じわじわと迫ってくる。
 間近な敵を前に、エルドレッドの心拍数がテンポを上げる。

 ……今ならやれる!

 ぴくりと右手を動かしかけたエルドレッドだった。が、シオンの出した指示が、彼の逸る気持ちを押し留める。
 
 ……シオンの合図を待たなくては。
 必ず、シオンは合図をくれる。独りで逃げ出すハズがない。
 
 目を閉じたまま、その時を待つエルドレッド。高揚してくる戦意を抑え切れず、息が浅く乱れた。
 と、男の漂わす気配に、ただならない緊張が走る。

「……コイツ!?」

 ためらいと驚きの呻き。男がエルドレッドの演技に気が付いたようだ。
 同時に、シオンの声が木立の中に響き渡る。

「走れ!!」

 待ちに待った、相棒の言葉。
 カッと目を見開き、エルドレッドは地面からバッと跳ね起きた。立ち上がった彼の前に立っているのは、驚きに目も口もぽかんと開けた、髭面の中年男。
 確かにこの男は、クローケスの街でエルドレッドを見ていた男だ。
 マント姿の男の右手には、二本の紐が付いた薄革の帯がぶら下がっている。投石帯(スリング)だ。その帯の中には、紡錘形の凶悪な石が覗く。
 しかしそれ以上の観察は無用だ。
 意表を衝かれて立ち尽くす男を尻目に、エルドレッドは全力で地面を蹴った。
 ――走れ!――、という信頼する相棒の指示に従って。

 刹那、樹上からふわりとこぼれた白い影が、男の背後にゆらりと蟠る。
 シオンだ。
 不意に現れた気配を察し、正気に還った男が鋭く振り向いた。

「て!? テメェーっ!! 罠か!?」

 サッと跳び退き、投石帯を取り直す男。
 その男にまとわりつくように、スッと間合いを詰めに掛かるシオン。
 だが、エルドレッドに見えたのは、そこまでだった。割れ鐘を乱打するような、耳を劈(つんざ)く音を背中に浴びながら、エルドレッドは原始林の隧道を跳び出した。


 金銀の砂子を混ぜ込んだ、藍色の夕空。
 雲はない。透明な夜が、辺りを覆い尽くしつつある。
 ギザギザにほつれた地平が、血の色に染まっている。その今日の太陽が残したわずかな返り血が、夜闇の侵攻に無駄に抗う。

 原始林の外は、まだ開墾の進まない荒地らしい。
 ぼこぼこと波打つ、不毛な丘陵地の間を縫うように、一筋の小路が続く。その行き付く先は、倹しい家々がひっそりと寄り合う村のようだ。たぶんきっと、あれが目指す村、アグロウだろう。

 宵闇に刻まれた村の稜線からは、幾筋もの煙が立ち昇るのが分かる。竈が吐き出す夕餉の印に間違いない。
 エルドレッドは、その小道を振り向くことなく、全力で疾駆する。息を切らせて走る彼の頭は、相棒の安否のことで一杯だ。

 ……シオンは大丈夫だろうか?

 シオンがあの男を引き留めている間に、エルドレッドはアグロウの村へ駆け込まなくてはならない。
 敵は凄腕の投石帯使い《スリンガー》だ。
 エルドレッドが投石に倒れたと見せかけて、男をおびき寄せたシオン。あのシオンの指示は、男の投擲範囲の内側に入り込み、暗殺者の間合いに持ち込むための“罠”だった。接近戦になれば、たぶん圧倒的にシオンの優位だろう。
 だが何故か男もシオンも、お互いを知っていたような印象があった。もしかしたら、二人はお互いの戦い方を熟知しているのかも知れない。

 エルドレッドは駆けながら、肩越しに振り向いてみる。
 遠ざかる原始林からは、誰も追ってこない。

 エルドレッドの脳裏に、昏い稲妻が閃いた。

 ……あの男、本当に盗賊なのか?
 狙われているのは、エルドレッドでも宝石でもなかった……?

 訝る彼は、どこからか漂ってくる異様な気配に気が付いた。氷などとは比較にならないほどの、凍てついた殺気。まるで乾き切った厳冬の木枯らしが、横殴りに吹き寄せてきているようだ。
 
 その途方もない威圧感に、エルドレッドの足が否応もなく地面に留められる。
 言いようのない恐怖と不安に駆られつつ、宵闇に立ちすくんだエルドレッドは、その気配の根源を求めて周囲に視線を巡らせた。

 と、彼は気が付いた。
 小路から百歩ばかり離れた丘に佇む、黒い人影に。

 凝らせたエルドレッドの目に映るのは、夜よりも黒い、長身の男だ。
 距離と刻限のせいで、詳細は見て取れないが、恐らく何かの異人だろう。 爛々たる黄色い両目と、片耳のない不吉なシルエット。 どちらかというと細身に映るが、訴えてくる存在感は凄まじい。目には見えないどす黒い瘴気が、確たる質量をもって男の全身を取り巻いている。
 男とこれだけの距離がありながら、その男がまとう漆黒のオーラがエルドレッドの皮膚を灼き、臓腑をぎりぎりと絞り上げる。
 嘔吐さえ覚えるほどの、濃厚な悪意。エルドレッドの腕も脚も、石になったかのように硬直する。
 しかし丘の上の男は、すぐにくるりと踝を返し、丘陵の向こう側へと姿を消した。

 同時にエルドレッドも呪縛から解き放たれ、固まっていた四肢も自由になる。途端に腰ががくがくと砕け、エルドレッドは地面に両手を着く。その手も小刻みに震え、すぐには立ち上がれそうもない。

 ……あの片耳の男は何だ? あの絶対的な威圧感は一体……?

 胃がひっくり返るような圧迫感に耐えながら、エルドレッドはふらふらと立ち上がる。まだ力の戻り切らない両足を突っ張って、エルドレッドは再び村を目指して走り出した。
 そうして、ものの数分も経たないうちに、夜の中に広がる風景が変わった。
 
 小路の左右に広がる、平らな農地。
 涼やかな風に、青い麦の穂が穏やかに揺れる。他にも芋や南瓜、何か根菜の蔓や葉も、星明かりを浴びて瑞々しく光っている。アグロウの村人たちが切り拓いた耕地に違いない。
 そんな畑の中の道を走り抜け、エルドレッドはようやく目的の村、アグロウへとたどり着いた。

 畑の真ん中にひっそりと息づく小村アグロウ。
 石と木で造られた慎ましやかな母屋が、菜園を兼ねた広い庭園に囲まれている。素朴な家々が二十戸ばかり集まって作られた、そんな小さな村だ。
 まだ宵の口、といった刻限だが、出歩いている村人の姿は見えない。しかし一刻も早くクライフの実家を探して宝石を渡し、シオンを待たなくてはならない。

 こういう初めての村では、酒場か店、あるいは寺院や神殿を訪ねるのが、知りたい情報を得る早道になる。旅に生きる冒険者たちの基本的な常識だ。
 エルドレッドも、まだはあはあと息を切らせながら、頼れる施設を探して村の中を徘徊する。
 静まり返った夜のアグロウをくまなく歩き回り、程なくエルドレッドは、一軒の小さな店を探し当てた。

 他の建物と同じような、石と木の小ぢんまりとした建物。まだ隙間から灯りの洩れる玄関扉の上には、『酒と日用のアンシャル商店』と書かれた看板が掲げてある。
 ふ、と安堵の息をつき、店に入ろうとしたエルドレッドだった。
 が、背後から不意に声を掛けられた。

「ノイ派戦士のカッシアス殿、でよろしいか?」

 一応はこの大陸の共通語だが、奇妙な訛りに聞き慣れない声質だ。
 ざざっ、と勢いよく踝を返しつつ、エルドレッドは声の主から三歩の距離を置いた。腰を低く落とし、剣の柄ををしっかりと握った彼は、鳶色の目で背後の人影を睨む。
 アンシャル商店のから洩れる灯りを浴びて佇むのは、エルドレッドの知らない大男だ。
 緑の模様のある白いポンチョを着込んだ、手足の細長い異人。ぼさぼさの髪に金色の大きな眼、そして大きく裂けたワニめいた口。いわゆる“爬虫人(デイノサウリアン)”だ。
 村の外でみた恐ろしげな男とは、完全に別人らしい。内心、わずかばかりの安堵を覚えたエルドレッドだった。

 それでも彼は、この爬虫人を睨み付けて用心深く聞く。

「……あんたも俺の宝石が目的か?」
「宝石?」

 聞き返した爬虫人が、鼻先をわずかに持ち上げた。金色の両眼でエルドレッドを見下ろしながら、爬虫人が小さく笑う。

「そんな物には興味がない。はっきり言うが、私は、しぶとくて往生際の悪いノイ派が嫌いだ。あなたと事を構える気はない」

 本当にキッパリと言い切られ、ムッと口元を曲げたエルドレッド。だがこの爬虫人の物腰や態度には、害意や殺意はなさそうだ。とは言え、この爬虫人の目的も魂胆も、まだ何も分からない。
 警戒を解かないエルドレッドを正視して、爬虫人がゆっくりと名乗る。

「私はチマルポポカ。チマルポポカ=テスコ=チョルーラ。“コアトルの民”だ。見分を広め、知識を深めるために、諸国を巡っている。私は、確かにあなたを探していた。だが……」

 身構えたエルドレッドが口を開くより早く、チマルポポカがくるりと広い背中を見せた。

「今のあなたには、とても大切な用事があると見た。先にその用事を済ませて来るといい。私はこの村の広場で夜を明かすつもりだ。そこであなたを待つ」

 一方的にそこまで語ったチマルポポカが、夜の中へと歩んでゆく。

「私の用件は、その時に改めて話そう、カッシアス殿」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み