六.
文字数 5,321文字
玄関の扉を後ろ手に閉じた人物を見るなり、エルドレッドは思わず声を上げた。
「あっ!? シオン!!」
エルドレッドが椅子から跳び上がった。その彼の目の前で、この家へと入ってきたシオンの膝が、ずるずると床に崩れる。
「だ、大丈夫!?」
エルドレッドは、弾かれたようにシオンへと駆け寄った。
床に両膝を着き、不安に胸を塞がれながら、彼はシオンの全身に視線を巡らせる。
ドアにもたれかかって、座り込んだ相棒。呼吸のたびに、肩が苦しく上下する。その白い全身には、打ち据えられたような痣が浮き、口元から一筋の血が跡を曳く。
シオンの傍らに投げ出された丸盾には、拳ほどの円い凹みが幾つもできている。かなりの力で何か硬い物を叩き込まれた跡だ。
シオンは、あの投石帯の男と激しい戦いを繰り広げ、かなりのダメージを負ったのだろう。
エルドレッドは、シオンの痛々しい横顔に視線を注ぐ。相棒の体にそっと添えようとした指先が、不安と気遣いに小さく震える。
「シオンがここまでやられるなんて……。あの投石帯 のヤツは? もしかして、あの片耳の黒い男も……」
シオンの体が、ぴくんと揺れた。
差し延べられたエルドレッドの手を冷たく払いのけ、シオンが視線をあらぬ方へと向ける。
「俺に構うな」
そして聞こえよがしな吐息をつき、シオンが目を伏せた。
「……もういい。お前とはここまでだ」
「えっ?」
冷え切ったシオンの言葉が理解できず、エルドレッドはシオンをまじまじと見つめる。
「シオン、何言って……」
「……聞こえなかったか?」
エルドレッドを見ないまま、シオンが言い放つ。
「未熟なお前と一緒に来たせいで、俺はこのザマだ。これ以上の同道はごめんだ」
「え、えっ!? シオン!? それって、どういう……」
自分の耳もシオンの言葉も信じられず、エルドレッドは、膝立ちのまま、その場に硬直する。
余りの衝撃に、半ば意識を失うエルドレッドを尻目に、シオンがゆらりと立ち上がった。途端に、シオンの唇から苦しげな呻きが洩れる。まだ全身に痛みが残っているのに違いない。
それでもシオンは、エルドレッドと目を合わさないまま、無感情に言い渡す。
「お前とはここでお別れだ。俺は俺の好きに行く。お前は勝手にどこへでも行け。もう俺にはついて来るな」
「そんな……!?」
突然過ぎる決別の言葉が衝撃過ぎて、エルドレッドはただ呆けたように、シオンへ視線を注ぐ。
……シオンのこの態度は、脅しや冗談ではない。
本気で、エルドレッドと絶縁しようとしている。取り付く島は、もうどこにもない。
背筋を疾駆した悍ましい震えが、じわじわと腰から膝へと伝播してゆく。全身から力が抜け、魂でさもどこかへ消え去ってしまいそうな、恐ろしい脱力感が全身を覆う。
「シオン……!!」
一瞬、シオンの赤い瞳がエルドレッドの目を捉えた。シオンの切れ長の目が、わずかに細められる。彼の瞳の底には、何か押し殺したような感情が覗く。その何とも表現し難い翳りに触れ、エルドレッドの胸に、ぴしっと切ない痛みが走った。
しかしシオンは、すぐにくるりと踝を返した。そしてそれ以上何も言うことなく、玄関の扉を押し開けて、夜の中へと消えていった。
「どうして……」
取り残されたエルドレッドの唇が、ぽつりとそれだけ洩らす。
相棒と信じたシオンから突き付けられた、一方的な別れ。玄関口にへたり込んだエルドレッドの視界で、床がぐにゃぐにゃと歪み始めた。とめどなく溢れる理不尽な涙が、彼の目に熱く覆い被さる。
……確かに、いつかはシオンと分かれる日が来る。
そんな事は、エルドレッドにもちゃんと分かっていた。だがその別れが、どうしてよりにもよって、今この瞬間だったのか?
悲しさ、悔しさ、憤り、そんなごちゃごちゃに絡まった感情が、涙に凝結してぽろぽろと頬を伝う。
やり場のない気持ちを抱えたまま、歯を食いしばって嗚咽をこらえるエルドレッドの背中に、そっと手が添えられた。
くしゃくしゃの顔のまま振り向くと、クライフの母親がエルドレッドの側に寄ってきていた。エルドレッドとシオンの別れの一部始終を見守っていた彼女は、複雑な微笑を湛えている。
「あのひとが、エルドレッドさんの言っていた相棒ですね?」
ただ黙ってうなずくしかないエルドレッド。
うなだれるばかりの彼に、クライフの母親がつぶやくように告げる。
「あの物言い、クライフの最後の日を思い出すわ。あの子が、このアグロウを出て行った日を……」
「どういう意味ですか……?」
エルドレッドはぽつりと尋ねたが、クライフの母親は懐かしげで、それでいて懐の深い笑みを見せるばかり。
「今夜はここにお泊りなさい。アグロウには宿屋がないから。クライフのお部屋は、いつあの子が還ってきてもいいように、お掃除してあるから」
「ありがとう、ございます……」
結局、用意された夕食も喉を通らないまま、エルドレッドはクライフが使っていた部屋へと案内された。
クライフの昔の部屋も、ベッドと棚が一つずつあるだけの小さなものだ。
そのベッドは、本当にきちんと干されていて、太陽の乾いた匂いが布団から心地よく漂ってくる。
灯りも点けず、エルドレッドは素直に装備を解いた。
軽くなったザックと剣、それにシオンが残した盾を枕元に固め、彼はベッドに潜り込む。
仰向けたエルドレッドは、ぼんやりと暗い天井を見上げた。
何か月ぶりの、孤独な夜。何の物音も聞こえてこない、濃厚なしじまに包まれた夜だ。昨日までなら、少しくらいは側で休む相棒シオンの気配が漂っていた。だが、その彼が去った今、もう自分の息しか聞こえない。
シーツを口元まで引っ張り上げ、エルドレッドは目を閉じた。
……あのシオンの豹変ぶり、一体何があったんだろう?
やっぱり、自分のせいで、手酷いケガを負ったせいだろうか。
確かにエルドレッドは、やっと第四階に到達したばかり。
早い昇格ではあるが、それでもまだ一人前とは言えない。シオンの本気の戦いには、エルドレッドは何の助けにもならないだろう。
そこまで、悲嘆にまみれて考えたエルドレッドの胸の底に、今度はふつふつと不平が湧いてくる。
……だからといって、あんなにいきなり縁を切るなんて、あんまりだ。
エルドレッドの言い分も聞くことなく、まるで彼を避けるように去っていったシオン。そんなに嫌だったのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。
ごろりと寝返りを打ち、目を閉じたエルドレッド。乾いた涙が、またじわりと目許に湧いてくるのが自分で分かる。
やはりどうしても、“見捨てられてしまった”という自己嫌悪と喪失感は、払拭しきれない。
……ああ、明日からどうしよう。
でも、シオンと出会うまで、独りだったエルドレッドだ。
それを想えば、また元の単騎に戻るだけ。
ただそれだけのことだ。
大事な用事は、これでもう済ませたのだし。
と、それでも心の中で強がったエルドレッドは、そこでふと思い出した。
「あ、そういえば、あの爬虫人 が……」
エルドレッドはベッドの中で身を起こした。
……ああ、そうだ。クライフの頼みは果たしたのだから、もうこの家にいる意味はないし、シオンと別れた場所に、いつまでも居たくない。
もうどうだっていい。
捨て鉢な気分のままそう考えて、エルドレッドはベッドを降りた。
手早く身支度を整えて、彼はクライフの部屋を出て、居間へと向かった。
玄関口に面した夜半の居間では、クライフの母親が蝋燭の灯りを頼りに、ちくちくと刺繍に精を出している。
黙々と刺繍に勤しむクライフの母親に、エルドレッドがそっと呼びかけた。
「お世話になりました」
エルドレッドの声を聞き、クライフの母親が刺繍の手を止めた。旅立つ姿のエルドレッドを見て、気遣わしげに表情を曇らせる。
「あら、もう行かれるの? 寝なくて大丈夫?」
「あ、はい。もう大丈夫です」
それだけ答えたエルドレッド。顔も洗わないまま、唇を引き結ぶ彼を見て、クライフの母親もエルドレッドの気持ちを理解したのだろう。寂しそうな微笑とともに、小さくうなずく。
「分かりました。こちらこそ、クライフのお使い、お世話様でした。道中、お気を付けて。またいつでも立ち寄って下さいね」
クライフの母親が、苦笑めいたため息を洩らした。
「ここだけの話、このアグロウは数十年前に大罪を犯した囚人たちを使って、ひっそりと拓いた村だから。いろいろな意味で来にくいところだけれど、寄って頂けたら今度こそ、お夕食をご馳走しますね」
「あ、はい。ありがとうございます。それじゃあ……」
ぺこりと頭を下げ、玄関扉に手を延ばしたエルドレッドは、クライフの母親の呼ぶ声に、もう一度振り向いた。
クライフの母親が、鋼の瞳に真摯な光を湛え、彼を見つめている。
「エルドレッドさん。あなたの相棒だったひとを恨んではだめ。あのひとのあの顔は、敢えて泥を被りにいくひとの顔だから」
クライフの母親が、あらぬ方へと視線を注いだ。
遥かな過去を探るように、その目がすうっと遠くなる。
「わざと粗暴に振る舞って、アグロウを出て行ったクライフと、そっくり同じ。後腐れを残さないように……」
……クライフの母親は、何を言いたいのだろう?
彼女の言葉の意味が理解できず、エルドレッドはちょっぴりの反感を覚えた。
彼は無言のお辞儀を一つだけ返し、宝石を届け終えたクライフの実家を出た。
夜更けのアグロウは、夕刻に輪を掛けた静寂に包まれている。
金銀の粉、それに輝石の煌めく分厚い夜の帳の中、村の家々は深い眠りについているようだ。かすかな虫の声だけを耳に、エルドレッドは夜半の小路を歩き始めた。目指す先は、このアグロウの広場だ。
彼は満天の星灯りを頼りに、村の中心へと向かう。
程なく、エルドレッドはアグロウの真ん中にぽっかりと開けた小さな広場にたどり着いた。差し渡し五十歩もないくらい、さして広くもない広場の片隅に、ちろちろと焚き火が燃えている。その側に座るのは、大柄な人物。白いポンチョに身を包んだ、長身の異人だ。
エルドレッドはためらうことなく、その焚火の方へと歩み寄る。異人の方もエルドレッドに気が付いたのか、火の前で腰を上げた。
「来て頂けたか、カッシアス殿。忘れられていなくて嬉しい」
「忘れてなんかいないよ。待たせてごめん」
そう返し、エルドレッドは異人の前に立った。
ぼさぼさの髪に、金色の大きな眼。白いポンチョに映える緑の幾何学模様は、間違いなくアンシャル商店前で出くわした“コアトルの民”だ。
頭一つ分は優にエルドレッドを超える爬虫人を見上げ、彼はわざとぶっきらぼうに聞く。
「俺に何の用なんだ?」
するとこの爬虫人、チマルポポカは焚火の前に再び腰を下ろした。
「はっきり言おう。私はあなたから二つの物を買いたい。もちろん対価は払う」
「俺から? 俺は商人じゃないけど、何が欲しいんだ?」
敵意のなさそうなチマルポポカの様子を見て、エルドレッドも爬虫人の横に座った。好意的ではないが、とりあえず危険はなさそうな相手だ。
ふと安心するエルドレッドに、チマルポポカが瞬きの少ない大きな眼を注ぐ。
「あなたが神話の怪物“命狩る花”を斃したことは、分かっている。そこで私はあなたから買いたい。一つは、あなたの知っている“命狩る花”の情報を、洗いざらいに」
「もう一つは?」
「今一つは、“命狩る花”の種だ。あなたは持っているか?」
エルドレッドは即座にうなずく。
「一個だけ持ってる。何かに使えるかと思って持ってきてるけど……」
「ありがたい。伝説の魔物の種だから、一個でもあれば十分だ」
満足そうに大きな口を緩め、チマルポポカが何度もうなずく。
「対価は金貨十五枚だ。今の私には、それ以上は持ち合わせがない。それでもいいか? カッシアス殿」
金貨十五枚なら、半年くらいの食費にはなる。もしかしたら、もっと高値で買い取ってくれる相手がいるかも知れない。だが今のエルドレッドには、そういう相談のできる相棒はもういないし、考える気力も、買い手を探しに行く意欲も湧いてこない。
半分やけのエルドレッドは、ため息交じりにうなずいた。
「ああ。別にそれでいいよ」
「ありがたい」
チマルポポカがエルドレッドに深々と頭を下げた。
「安く買い叩いてしまったようで、申し訳ない。代わりと言ってはなんだが、後でいいものを渡そう」
言いながら、チマルポポカがどこからか紙の束とコンテを取り出した。
「それでは早速、話を聞かせて欲しい。まずは、『命狩る花』の外見から……」
「あっ!? シオン!!」
エルドレッドが椅子から跳び上がった。その彼の目の前で、この家へと入ってきたシオンの膝が、ずるずると床に崩れる。
「だ、大丈夫!?」
エルドレッドは、弾かれたようにシオンへと駆け寄った。
床に両膝を着き、不安に胸を塞がれながら、彼はシオンの全身に視線を巡らせる。
ドアにもたれかかって、座り込んだ相棒。呼吸のたびに、肩が苦しく上下する。その白い全身には、打ち据えられたような痣が浮き、口元から一筋の血が跡を曳く。
シオンの傍らに投げ出された丸盾には、拳ほどの円い凹みが幾つもできている。かなりの力で何か硬い物を叩き込まれた跡だ。
シオンは、あの投石帯の男と激しい戦いを繰り広げ、かなりのダメージを負ったのだろう。
エルドレッドは、シオンの痛々しい横顔に視線を注ぐ。相棒の体にそっと添えようとした指先が、不安と気遣いに小さく震える。
「シオンがここまでやられるなんて……。あの
シオンの体が、ぴくんと揺れた。
差し延べられたエルドレッドの手を冷たく払いのけ、シオンが視線をあらぬ方へと向ける。
「俺に構うな」
そして聞こえよがしな吐息をつき、シオンが目を伏せた。
「……もういい。お前とはここまでだ」
「えっ?」
冷え切ったシオンの言葉が理解できず、エルドレッドはシオンをまじまじと見つめる。
「シオン、何言って……」
「……聞こえなかったか?」
エルドレッドを見ないまま、シオンが言い放つ。
「未熟なお前と一緒に来たせいで、俺はこのザマだ。これ以上の同道はごめんだ」
「え、えっ!? シオン!? それって、どういう……」
自分の耳もシオンの言葉も信じられず、エルドレッドは、膝立ちのまま、その場に硬直する。
余りの衝撃に、半ば意識を失うエルドレッドを尻目に、シオンがゆらりと立ち上がった。途端に、シオンの唇から苦しげな呻きが洩れる。まだ全身に痛みが残っているのに違いない。
それでもシオンは、エルドレッドと目を合わさないまま、無感情に言い渡す。
「お前とはここでお別れだ。俺は俺の好きに行く。お前は勝手にどこへでも行け。もう俺にはついて来るな」
「そんな……!?」
突然過ぎる決別の言葉が衝撃過ぎて、エルドレッドはただ呆けたように、シオンへ視線を注ぐ。
……シオンのこの態度は、脅しや冗談ではない。
本気で、エルドレッドと絶縁しようとしている。取り付く島は、もうどこにもない。
背筋を疾駆した悍ましい震えが、じわじわと腰から膝へと伝播してゆく。全身から力が抜け、魂でさもどこかへ消え去ってしまいそうな、恐ろしい脱力感が全身を覆う。
「シオン……!!」
一瞬、シオンの赤い瞳がエルドレッドの目を捉えた。シオンの切れ長の目が、わずかに細められる。彼の瞳の底には、何か押し殺したような感情が覗く。その何とも表現し難い翳りに触れ、エルドレッドの胸に、ぴしっと切ない痛みが走った。
しかしシオンは、すぐにくるりと踝を返した。そしてそれ以上何も言うことなく、玄関の扉を押し開けて、夜の中へと消えていった。
「どうして……」
取り残されたエルドレッドの唇が、ぽつりとそれだけ洩らす。
相棒と信じたシオンから突き付けられた、一方的な別れ。玄関口にへたり込んだエルドレッドの視界で、床がぐにゃぐにゃと歪み始めた。とめどなく溢れる理不尽な涙が、彼の目に熱く覆い被さる。
……確かに、いつかはシオンと分かれる日が来る。
そんな事は、エルドレッドにもちゃんと分かっていた。だがその別れが、どうしてよりにもよって、今この瞬間だったのか?
悲しさ、悔しさ、憤り、そんなごちゃごちゃに絡まった感情が、涙に凝結してぽろぽろと頬を伝う。
やり場のない気持ちを抱えたまま、歯を食いしばって嗚咽をこらえるエルドレッドの背中に、そっと手が添えられた。
くしゃくしゃの顔のまま振り向くと、クライフの母親がエルドレッドの側に寄ってきていた。エルドレッドとシオンの別れの一部始終を見守っていた彼女は、複雑な微笑を湛えている。
「あのひとが、エルドレッドさんの言っていた相棒ですね?」
ただ黙ってうなずくしかないエルドレッド。
うなだれるばかりの彼に、クライフの母親がつぶやくように告げる。
「あの物言い、クライフの最後の日を思い出すわ。あの子が、このアグロウを出て行った日を……」
「どういう意味ですか……?」
エルドレッドはぽつりと尋ねたが、クライフの母親は懐かしげで、それでいて懐の深い笑みを見せるばかり。
「今夜はここにお泊りなさい。アグロウには宿屋がないから。クライフのお部屋は、いつあの子が還ってきてもいいように、お掃除してあるから」
「ありがとう、ございます……」
結局、用意された夕食も喉を通らないまま、エルドレッドはクライフが使っていた部屋へと案内された。
クライフの昔の部屋も、ベッドと棚が一つずつあるだけの小さなものだ。
そのベッドは、本当にきちんと干されていて、太陽の乾いた匂いが布団から心地よく漂ってくる。
灯りも点けず、エルドレッドは素直に装備を解いた。
軽くなったザックと剣、それにシオンが残した盾を枕元に固め、彼はベッドに潜り込む。
仰向けたエルドレッドは、ぼんやりと暗い天井を見上げた。
何か月ぶりの、孤独な夜。何の物音も聞こえてこない、濃厚なしじまに包まれた夜だ。昨日までなら、少しくらいは側で休む相棒シオンの気配が漂っていた。だが、その彼が去った今、もう自分の息しか聞こえない。
シーツを口元まで引っ張り上げ、エルドレッドは目を閉じた。
……あのシオンの豹変ぶり、一体何があったんだろう?
やっぱり、自分のせいで、手酷いケガを負ったせいだろうか。
確かにエルドレッドは、やっと第四階に到達したばかり。
早い昇格ではあるが、それでもまだ一人前とは言えない。シオンの本気の戦いには、エルドレッドは何の助けにもならないだろう。
そこまで、悲嘆にまみれて考えたエルドレッドの胸の底に、今度はふつふつと不平が湧いてくる。
……だからといって、あんなにいきなり縁を切るなんて、あんまりだ。
エルドレッドの言い分も聞くことなく、まるで彼を避けるように去っていったシオン。そんなに嫌だったのなら、もっと早く言ってくれればよかったのに。
ごろりと寝返りを打ち、目を閉じたエルドレッド。乾いた涙が、またじわりと目許に湧いてくるのが自分で分かる。
やはりどうしても、“見捨てられてしまった”という自己嫌悪と喪失感は、払拭しきれない。
……ああ、明日からどうしよう。
でも、シオンと出会うまで、独りだったエルドレッドだ。
それを想えば、また元の単騎に戻るだけ。
ただそれだけのことだ。
大事な用事は、これでもう済ませたのだし。
と、それでも心の中で強がったエルドレッドは、そこでふと思い出した。
「あ、そういえば、あの
エルドレッドはベッドの中で身を起こした。
……ああ、そうだ。クライフの頼みは果たしたのだから、もうこの家にいる意味はないし、シオンと別れた場所に、いつまでも居たくない。
もうどうだっていい。
捨て鉢な気分のままそう考えて、エルドレッドはベッドを降りた。
手早く身支度を整えて、彼はクライフの部屋を出て、居間へと向かった。
玄関口に面した夜半の居間では、クライフの母親が蝋燭の灯りを頼りに、ちくちくと刺繍に精を出している。
黙々と刺繍に勤しむクライフの母親に、エルドレッドがそっと呼びかけた。
「お世話になりました」
エルドレッドの声を聞き、クライフの母親が刺繍の手を止めた。旅立つ姿のエルドレッドを見て、気遣わしげに表情を曇らせる。
「あら、もう行かれるの? 寝なくて大丈夫?」
「あ、はい。もう大丈夫です」
それだけ答えたエルドレッド。顔も洗わないまま、唇を引き結ぶ彼を見て、クライフの母親もエルドレッドの気持ちを理解したのだろう。寂しそうな微笑とともに、小さくうなずく。
「分かりました。こちらこそ、クライフのお使い、お世話様でした。道中、お気を付けて。またいつでも立ち寄って下さいね」
クライフの母親が、苦笑めいたため息を洩らした。
「ここだけの話、このアグロウは数十年前に大罪を犯した囚人たちを使って、ひっそりと拓いた村だから。いろいろな意味で来にくいところだけれど、寄って頂けたら今度こそ、お夕食をご馳走しますね」
「あ、はい。ありがとうございます。それじゃあ……」
ぺこりと頭を下げ、玄関扉に手を延ばしたエルドレッドは、クライフの母親の呼ぶ声に、もう一度振り向いた。
クライフの母親が、鋼の瞳に真摯な光を湛え、彼を見つめている。
「エルドレッドさん。あなたの相棒だったひとを恨んではだめ。あのひとのあの顔は、敢えて泥を被りにいくひとの顔だから」
クライフの母親が、あらぬ方へと視線を注いだ。
遥かな過去を探るように、その目がすうっと遠くなる。
「わざと粗暴に振る舞って、アグロウを出て行ったクライフと、そっくり同じ。後腐れを残さないように……」
……クライフの母親は、何を言いたいのだろう?
彼女の言葉の意味が理解できず、エルドレッドはちょっぴりの反感を覚えた。
彼は無言のお辞儀を一つだけ返し、宝石を届け終えたクライフの実家を出た。
夜更けのアグロウは、夕刻に輪を掛けた静寂に包まれている。
金銀の粉、それに輝石の煌めく分厚い夜の帳の中、村の家々は深い眠りについているようだ。かすかな虫の声だけを耳に、エルドレッドは夜半の小路を歩き始めた。目指す先は、このアグロウの広場だ。
彼は満天の星灯りを頼りに、村の中心へと向かう。
程なく、エルドレッドはアグロウの真ん中にぽっかりと開けた小さな広場にたどり着いた。差し渡し五十歩もないくらい、さして広くもない広場の片隅に、ちろちろと焚き火が燃えている。その側に座るのは、大柄な人物。白いポンチョに身を包んだ、長身の異人だ。
エルドレッドはためらうことなく、その焚火の方へと歩み寄る。異人の方もエルドレッドに気が付いたのか、火の前で腰を上げた。
「来て頂けたか、カッシアス殿。忘れられていなくて嬉しい」
「忘れてなんかいないよ。待たせてごめん」
そう返し、エルドレッドは異人の前に立った。
ぼさぼさの髪に、金色の大きな眼。白いポンチョに映える緑の幾何学模様は、間違いなくアンシャル商店前で出くわした“コアトルの民”だ。
頭一つ分は優にエルドレッドを超える爬虫人を見上げ、彼はわざとぶっきらぼうに聞く。
「俺に何の用なんだ?」
するとこの爬虫人、チマルポポカは焚火の前に再び腰を下ろした。
「はっきり言おう。私はあなたから二つの物を買いたい。もちろん対価は払う」
「俺から? 俺は商人じゃないけど、何が欲しいんだ?」
敵意のなさそうなチマルポポカの様子を見て、エルドレッドも爬虫人の横に座った。好意的ではないが、とりあえず危険はなさそうな相手だ。
ふと安心するエルドレッドに、チマルポポカが瞬きの少ない大きな眼を注ぐ。
「あなたが神話の怪物“命狩る花”を斃したことは、分かっている。そこで私はあなたから買いたい。一つは、あなたの知っている“命狩る花”の情報を、洗いざらいに」
「もう一つは?」
「今一つは、“命狩る花”の種だ。あなたは持っているか?」
エルドレッドは即座にうなずく。
「一個だけ持ってる。何かに使えるかと思って持ってきてるけど……」
「ありがたい。伝説の魔物の種だから、一個でもあれば十分だ」
満足そうに大きな口を緩め、チマルポポカが何度もうなずく。
「対価は金貨十五枚だ。今の私には、それ以上は持ち合わせがない。それでもいいか? カッシアス殿」
金貨十五枚なら、半年くらいの食費にはなる。もしかしたら、もっと高値で買い取ってくれる相手がいるかも知れない。だが今のエルドレッドには、そういう相談のできる相棒はもういないし、考える気力も、買い手を探しに行く意欲も湧いてこない。
半分やけのエルドレッドは、ため息交じりにうなずいた。
「ああ。別にそれでいいよ」
「ありがたい」
チマルポポカがエルドレッドに深々と頭を下げた。
「安く買い叩いてしまったようで、申し訳ない。代わりと言ってはなんだが、後でいいものを渡そう」
言いながら、チマルポポカがどこからか紙の束とコンテを取り出した。
「それでは早速、話を聞かせて欲しい。まずは、『命狩る花』の外見から……」