九.

文字数 4,660文字

「ああっ!?」

 草の中で、エルドレッドが小さく声を上げた。
 影で創られた手が、まるでイルカを呑み込むクラーケンのように、シオンを鷲掴みにする。暗殺者をしっかと握ったまま、黒い手がぐうっと天へと衝き上げられた。
 と見えた瞬間、黒い掌がシオンを地面に叩き伏せた。それこそ、ひとが蝿か蚊でも叩き潰すように。
 はらわたを震わす不快な重低音が響き、丘陵全体がびりびりと揺れる。口から出かかった悲鳴を必死に手で押さえながら、エルドレッドは下草から跳ね起きた。

 黄色い目を爛々と光らせて、テッドが地面に突き立てられた大剣をわずかに動かす。すると剣の車輪が逆向きに回り始め、地面に伏せられたままの黒い手が、車輪の中に巻き取られてゆく。
 やがてその手が残らずテッドの大剣に仕舞い込まれた時、掌の形に圧し潰された土の上には、横臥するシオンの姿があった。
 ぴくりとも動かず、汚泥にまみれた彼の姿は、打ち棄てられた白貂のように痛々しい。

「あ、あ……」

 夜の中、半端に呻くしかないエルドレッド。目の前の光景が信じられず、茂みの只中に棒立ちになる。

 ……そんなことが、あるハズがない! あのシオンが負けるなんて……!

 茫然となるばかりのエルドレッドを尻目に、眼下に勝ち誇るテッドが、シオンを足蹴にした。
 傷付き果てたシオンの体は、何の抵抗もなく、ころりと仰向ける。半眼の赤い瞳は虚ろに銀河を映し、わずかに開いた口元には鮮血が滴る。
 だがその胸は、弱々しいながらも、上下はしているようだ。

 ……まだ生きている!

 エルドレッドがびくんと我に還った。
 しかし同時に、テッドもエルドレッドと同じ確信を得たようだ。
 テッドが、大剣の左右の鍔を掴み、ずるりと地面から引き抜いた。その右足でシオンの胸板をぐりぐりと踏みにじり、テッドは両手で握った大剣の真っ平らな鋒を、シオンの喉元へと向ける。
 十字架型の断頭斧を思わせる大剣が、おもむろにシオンの上へと持ち上げられてゆく。

「首を狩られる……!」

 ……友達のシオンを助けられるのは、今しかない。
 でも、この離れた距離からどうやって……?

 逡巡したエルドレッドの脳裏に、青い火花が散った。

「一か八か……!」

 エルドレッドは、ベルトに挟んだ投石帯を右手に取った。
 考えるよりも早く、彼はグッと脇を締める。そして勘と昔の経験を頼りに、エルドレッドは石弾を孕んだ投石帯を縦に振り回す。
 紐と革帯が、ぶうんぶうんと重苦しく風を斬る。
 回転速度を上げ、十分に勢いが付いたのを手応えで感じ取ったエルドレッド。狙いは、テッドの頭だ。
 その黄色い長髪がなびくテッドの頭の上に、大剣が翳されたその瞬間、エルドレッドは投石帯を振り回す拳から、片方の紐をするりと放した。
 投石帯から放たれた紡錘形の石弾は、鮮やかな放物線を描き、丘陵の下へと飛んでゆく。

「当たれーっ!!」

 必死の願いを込めたエルドレッドの声が、丘陵を渡り抜けた。
 彼の叫びが聞こえたのだろうか。テッドの頭上で、大剣が不審げにピタリと静止した。
 その瞬間、ガツン、という鈍い音とともに、エルドレッドの放った石弾が大剣の車輪を直撃した。大きな衝撃を受けた大剣がぐらりと揺れ、狙いがシオンの首から逸れる。

 体勢の崩れたテッドが、ギッとエルドレッドに黄色の視線を飛ばしてきた。濃厚な殺意と怒りを孕んだ、これまでエルドレッドが見たこともないような恐ろしい眼差しだ。

「わっ!」

 思わず怯み、立ったままにびくんと仰け反ったエルドレッド。
 そのエルドレッドの方へ、テッドが片手を向けてくる。ハッキリとは見えないが、その黒い掌には、青い宝石が不気味に光るアミュレットのような物が掛かっている。

……魔術を放ってくるつもりだ!

 勘付いたエルドレッド。だが膝が震えて立ちすくむエルドレッドは、その場から動けない。
 なす術もなく立ち尽くす彼の目に、テッドのアミュレットが煌々と光ったかに見えたその時だった。
 地面に仰向けていたシオンの右手が、テッド左の足首をむんずと掴んだ。間髪を容れず、バッと身を起こしたシオンが、ぐるりと身を反しながら、左肘の内側をテッドの膝裏に叩き込む。
 シオンの渾身の体術を食らい、下半身を捻られたテッドの体が、ぐるんともんどりを打って地面に倒れ伏した。
 白い蜂が、すっくと立ち上がる。
 形勢を逆転させた暗殺者が、自らの頭上に右の手刀を翳した。その手は蒼く光り、彼の手自体が鋭利な刺突剣になったかのようだ。
 シオンの暗殺術が、テッドの体を貫こうと打ち下ろされようとした、その時だった。
 地面に腹這うテッドが、獣のような咆哮を張りあげた。猛烈な憤怒と悔しさ、それに相手を選ばない無垢の害意。これまで緘黙を貫いてきたテッドの絶叫に、文字どおり全身の血が凍りついたエルドレッドだった。
 彼の眼下で、テッドがアミュレットを握った手を地面に突き入れ、初めて人の言葉を発した。

「“ディエス・イッレ”……!!」

 その言葉が夜の中へ消えたその刹那、テッドとシオンの足元から地鳴りが響いてきた。同時に無数の亀裂が地面に走り、そこから幾筋もの白い光条がほとばしる。
 真下からの光を受けて、テッドとシオンの姿が、夜闇の中にカメオとなって浮かび上がった。
 テッドの最後の人語は、アミュレットに封じられた魔術を解き放つ結句だったのだ。護符が秘めた強大な魔力が、二人の地下に放出されてしまった。
 丘陵の頂上に立ち尽くすエルドレッドが、声を限りに叫ぶ。

「逃げろ! シオン!!」

 その声が届いたのだろうか。
 凛と立つシオンが、エルドレッドの方へと顔を向けてきた。
 傷と血に塗れた、白い顔。だがそこには、安堵と感謝に満ちた微笑みがあった。エルドレッドが初めて目にした、シオンの心からの笑み。
 シオンの右手が、スッと動いた。彼の二本の指が、真紅の目許で敬礼を飛ばす。

「シオン……」

 エルドレッドのつぶやきが、震える唇から力なく洩れた。
 同時に、彼の言葉を轟く地鳴りが呑み込んだ。光を放つ地面の亀裂は大きな地割れとなり、丘陵全体までが大きく揺らぐ。
 目のくらむ閃光がシオンも、テッドも、全てを呑み込んだ次の瞬間、大地をひっくり返すばかりの轟音がエルドレッドの耳から聴覚を奪う。
 アミュレットが創り出した光のドームを突き破り、噴き上がった巨大な水柱が、重厚な大音響を伴って天を衝いた。
 巻き起こった爆風が、下草を薙ぎ、泥の飛沫を撒き散らして、丘陵を遡ってくる。
 ただただ我を忘れて棒立ちのエルドレッドが、猛然と吹き寄せる爆風に呑まれるかに見えたそのとき、彼の体がひんやりとした巨躯にしっかりと抱き留められた。

「……え?」

 と呻く間もなく、エルドレッドは何者かに抱えられたまま、丘の後方へと転がった
 爆風が坂に伏せたエルドレッドの背中を掠め、地下の爆発が吹き飛ばした土と水が、辺り一面に降り注ぐ。
 うつ伏せたまま、汚泥の雨を頭から浴びるエルドレッドの耳に、聞き覚えのある声が聞こえた。

「間に合ったか。あなたも私も、運が良い」

 そんな言葉を聞きながら、エルドレッドはゆっくりと身を起こし、泥だらけの草の上に座り込む
 エルドレッドを助けた声の主は、彼のすぐ側に立っていた。じっとりと汚泥が滲み付いた白いポンチョをまとった、大柄な爬虫人。あのコアトルの民、チマルポポカだ。
 金色の大きな眼を夜闇に映えさせて、爬虫人が諧謔的に笑った。しかしそれ以上は何も言うことなく、巨漢の異人は数歩先の丘陵の頂上へと歩いてゆく。
 エルドレッドも、ゆるゆると腰を上げた。放心状態のまま、ふらふらと爬虫人の後を追う。

 何となく、チマルポポカと並んで立ったエルドレッドは、改めて丘陵の麓を見渡した。
 完全な静寂を取り戻し、涼やかな風が吹き抜ける荒野。もうそこには、首狩りテッドの影も、シオンの姿もない。あるのは、天上の銀河を地上に曳き映す、星々に彩られた大きな沼だけだ。

 その新たにできた真円の沼地を力なく見つめ、エルドレッドは深いため息を吐く。

「シオン……」

 消えた友人の名前をぽつりと洩らしたエルドレッド。
 彼の脳裏に、シオンと果たした冒険と、彼と共にあった日々がありありと蘇る。半年もないくらいだろうが、本当にいろいろな事があった。
 塞がった胸、それに熱くなった瞼が、却ってエルドレッドに落ち着きを呼び戻す。
 深く濁った二つ目の吐息を洩らしてから、彼は隣に佇むチマルポポカを見上げた。

「……助けてくれて、ありがとう。でも、あんたはどうしてここに?」

 するとチマルポポカは、長い腕を組みつつ、沼を注視して答える。

「私がここへ来た理由は二つだ。一つは、ザイ殿と“白い蜂”の戦いをこの眼で見るため。どちらも計り知れない手腕の持ち主だ。そんな手練れ同士の戦いなど、滅多に見られるものではない。だから思い直して、あなた方を追ってきた」

 チマルポポカが、感慨深げに眼を伏せた。心なしか、そのいかつい体は微妙に震えているようだ。

「私の予想を遥かに超えた、凄まじい戦いだった。二人はもう生死も不明だが、この戦いの事は、生涯忘れ得ないだろう」
「もう一つの理由は?」

 エルドレッドが聞くと、チマルポポカがおもむろに向き直ってきた。

「一つ忘れていた事があった。“白い蜂”からあなたへの言伝だ」
「えっ? シオンから俺に?」

 思わず聞き返したエルドレッド。
 目を丸くするばかりの彼に、チマルポポカが淡々と告げる。

「彼からの言葉は、こうだ。『本気で騎士を目指すなら、隣国の王都“ザグマルティア”へ行け。そこで騎士団と繋がる依頼を探して、時を待て』、と」
「『ザグマルティア』……」

 エルドレッドは、聞き覚えのある街の名前を繰り返した。
 隣国のザグマルト大公国。この国、ランデルスフィアとは友邦に当たる。
 確か、この国とは違って騎士団が仕組みとして整備されていて、その叙任は外部にも向かって開かれていたはずだ。
 自分の知識を思い返し、エルドレッドは小さくうなずく。

「分かった。ありがとう。シオンの言葉どおり、ザグマルティアを目指してみるよ」
「それがいいだろう」

 チマルポポカも深くうなずく。

「友の言葉なら、それに耳を傾けるのは間違いではない。それに“白い蜂”は言っていた。あなたに詫びるまでは、死ぬに死ねない、と」
「シオン、そんなことを……」

 エルドレッドの内側から、図らずも苦笑が込み上げる。
 シオンへの恨みつらみも、とうにエルドレッドの中から洗い晒されている。今の気持ちは、空虚さ以外は何もない、白紙の状態だ。
 エルドレッドは、胸甲の内側から別れの手紙を取り出した。だが広げてみても、星明かりは書かれた文字を読ませてはくれない。
 シオンを失った心の空隙は、簡単には埋まらないだろう。
 それでもエルドレッドは思う。

 ……もしも、もしシオンと生きて遇えることがあったなら、その時は、騎士エルドレッドとして再会したい。

 そしてシオンが詫びるより先に、彼への感謝の言葉を綴るのだ。

 ――俺を騎士にしてくれて、ありがとう――、と。


 ――了――
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