五.
文字数 5,047文字
不可解な爬虫人、”コアトルの民”のチマルポポカが夜闇に融け入ってしまうと、エルドレッドはすぐにアンシャル商店に飛び込んだ。
閉店間際なのだろう。灯りを落とした店内には、食料はもちろん、日用雑貨から冒険者向けの野外道具、果ては子供向けの人形まで、ありとあらゆる商品が雑然と積み上げてある。
「いらっしゃい」
雑多な商品の山の間から、のそりと姿を現わしたのは、一人の老人。真っ白な髪と髭が混然とした顔の真ん中に、丸眼鏡が光っているこのアンシャル商店の主人のようだ。
特に何の感情も見せない老人に、エルドレッドは聞いてみる。
「あ、えーと、この村にクライフ=ヴァルツ=ローランドって人の実家があるって聞いてきたんだけど、どの家なのか、聞いてもいい?」
「『クライフ』?」
途端に、主人が眼鏡の奥で目を丸くした。
何度もうなずきながら、今度は目を細めて虚空を探る。
「あーあ、ローランドさんちの長男坊だな? 懐かしい名前だねえ……」
噛みしめるようにつぶやいた老主人。懐かしそうな吐息に髭を揺らした老主人に、エルドレッドはさらに問う。
「クライフを知ってる?」
「ああ。よく覚えとるよ。何せアグロウは小さいからなあ。村全体が、家族みたいなもんだ」
老主人が何度も深くうなずいた。
「クライフは六人兄弟の長男坊でなあ。昔っから腕っぷしが強くて気風のいい、孝行息子だったが……」
大きなため息を容れて、老主人が続ける。
「もう二十年以上も前か、もの凄い不作の年があってなあ。この国は飢饉に見舞われて、大変なことになった。このアグロウも困窮を極めてなあ。クライフは、その時に手酷くグレて、この村から追ん出された……」
そこで、老主人がふっふ、と苦笑を洩らした。
「なんていうのは、表向き。あの子は口減らしのために、自分から追い出されるように仕向けたんだよ。そんなことは、村のもんにはみんな分かっとったがなあ」
老主人がエルドレッドに穏やかな眼差しを向けてくる。
「出て行ったクライフは、時々はアグロウに戻って、母親たちの様子を見とったようだがなあ……。で、あんたはクライフの知り合いか? えらい若いが、弟子だったりするのかな?」
「クライフは親友で先輩、それに恩人、かな……」
一瞬足元に視線を落とし、エルドレッドは答えた。
粗野だが、どこか純朴で憎めない、先輩戦士の顔がエルドレッドの脳裏に浮かぶ。
しかしすぐに顔を上げ、エルドレッドは微笑む老主人を正視した。
「俺、クライフから実家に届けて欲しい、って預かった物があるんだ。だから実家の場所を知りたいんだけど……」
「ローランドさんの家は、この店から南へ数軒だ。大きな栗の樹がある家だから、すぐに分かるよ。もう子供たちはみな巣立ってなあ。今はお母さんが独りで住んでる」
「ありがとう。助かったよ」
エルドレッドは笑顔で礼を述べ、アンシャル商店を出た。
辺りはすっかり夜の帳に覆い隠され、しんと静まり返っている。遮るもののない満天の星の光が、この夕べの村を柔らかく照らす。漂う土の匂いも相まって、農村出身のエルドレッドの郷愁を酸っぱく煽り立てる。
だが今は自分の感傷に浸っている場合ではない。シオンの安否を気遣いつつ、エルドレッドは歩き出した。
彼は、アンシャル商店の主人に教えられた南の方へ、足早に進む。
狭い道沿いの家々は、ちんまりとした母屋に小さな納屋、それに菜園を兼ねた庭を構えた、この大陸では典型的な農家だ。
そんな農家を数えながら、仄白い星明かりを頼りに小道を行くエルドレッドは、程なく足を止めた。
「あれかな……?」
今、エルドレッドの前にひっそりと佇むのは、一軒の倹しい農家だ。
通りに面した塀のない庭には野菜が植えられ、その奥の質素な玄関の脇には、一本の大樹が緑の葉を茂らせる。よく見れば、細長い葉の間には、小さな愛らしい毬 が覗く。
エルドレッドは、玄関口に視線を戻した。窓を固める鎧戸の隙間から、淡い灯火が夜闇に流れ出していて、家人がいるようだ。
どこか懐かしさの漂う畑を横目に眺めつつ、母屋の玄関へと向かう。
そして戸口に立った彼は、コンコン、と飴色の板戸をノックした。
すぐに年配女性の穏やかな声が聞こえ、それから十秒ばかり。ゆっくりと開かれたドアが、エルドレッドの横の夜闇を灯りで打ち消した。
「どなた?」
穏やかな共通語とともに、半分開かれた戸口に立つのは、齢五十半ばくらいの女性だ。
素朴なワンピースに身を包み、華奢な両肩には茶色のショールを掛けている。余りクライフには似てはいないが、瞳は彼と同じ鋼色。やはり親子なのだろう。
エルドレッドは、不思議そうな表情を浮かべる女性に、ぺこりと頭を下げた。
「あ、えーと、こんばんは。俺は、エルドレッドって言います。こちらは、戦士のクライフさんのお家で、いいですか?」
「あらあら……」
途端に、女性が目尻のしわを深くして、にっこりと笑顔を見せた。
「確かに、クライフはうちの子ですよ。あいにくと、今はどこかへ旅に出ていて、次はいつ帰ってくるのか分からないけれど。クライフに何かご用だったかしら?」
クライフの母親は、大きくドアを開け、突っ立ったままのエルドレッドを手招きする。
「立ち話も不躾だから、よかったらお上がりなさいな。あの子へのご用、お話し下さる?」
即座にうなずくエルドレッド。
「あ、はい。お邪魔します」
詳しい話を始める前に、エルドレッドはクライフの実家に上がり込んだ。
玄関口のすぐ内側は、小さな居間のようだ。素朴な角テーブルに、木の椅子が二脚。テーブルの真ん中に置かれた蝋燭の炎が、ゆらゆらと部屋の中を照らしている。そのテーブルの上にあるのは、木の針箱とやりかけの刺繍枠、それに質素な薄手の聖典『創世記』だ。
「お掛けなさい、エルドレッドさん、だったかしら」
クライフの母親が、テーブルの上の物を脇に押しやりながら、エルドレッドに笑顔で聞く。
「お夕食は済んでいるの?」
「いえ、まだ……」
素直に答えたエルドレッドに、母親が好意的に笑ってうなずいて見せる。
「それなら、うちで食べたらいいですよ。残りもので悪いけれど」
「あ、いや、えーと、そんな……」
返事を濁したエルドレッドだったが、クライフの母親は穏やかに笑うばかり。
「遠慮しないで。頂き物のカブを煮過ぎてしまって。お話は食べながら。あの子のお客さまなら、わたしのお客さまですからね」
「あ……、はい。ありがとうございます」
いきなり訪ねてきた見ず知らずの自分に、温かいもてなしをしてくれる、クライフの母親。こういうさりげない温かさが、何となくあの先輩戦士の表に出ない気遣いを思い出させる。嬉しさにも似た感情と、乾いた寂しさが、つんと鼻に沁みたエルドレッドだった。
背中のザックを背中から降ろし、エルドレッドは椅子に座った。
ずっしりと重いザックを膝の上に載せて、彼は改めてテーブルの上を一瞥する。
円い枠にしっかりと張られた白い布には、色とりどりの花鳥が丁寧に縫い込まれている。その脇に伏せられた『創世記』。その裏表紙に印刷されているのは、生命の女神の聖印と、日々の命に感謝する聖句だ。生命の女神ヴィータの寺院が刊行したものだろう。息子の日々の安息を祈る、母親の気持ちの表われに違いない。
ふと、エルドレッドの脳裏に、自分の母親の顔が浮かんだ。
……もう何年も会っていないが、元気だろうか?
彼は静かに目を伏せた。自ら故郷の村を去ったエルドレッドだが、悪い思い出ばかりというワケではない。
……やっぱり、一度くらいは実家を覗いてみようか。
そんな思いが胸の奥底に去来したエルドレッドの鼻先を、温かく素朴な匂いが、優しく悩ましく、そっとくすぐる。目を開けた彼の前には、一膳の夕食が用意されていた。
湯気の立つスープ皿と、薄く切られた二切れの円いライ麦パンだ。皿の中は、ベーコンとハーブで煮立てたカブのスープらしい。何の技巧もない田舎の家庭料理だが、それが却ってエルドレッドの空腹感を煽り立てる。
溢れる唾を呑み込むエルドレッドの向かいの椅子に、クライフの母親がゆっくりと腰掛ける。
「さあ、どうぞ。わたしの残り物で申し訳ないけれど、」
「あ、はい。頂きます! あ、でも、その前に……」
うなずいたエルドレッドだったが、スプーンを取るより先に、彼は膝の上のザックに手を突っ込んだ。中からずっしりと重い麻布の袋を取り出して、テーブルの上に、ごとんと載せる。
「これ、クライフさんから預かった物です。実家に、届けてくれって」
言いながら、エルドレッドは堅く結ばれた麻袋の口紐を解き、中身を取り出した。
彼が麻袋からテーブルの上に並べたのは、鶏卵大の石の塊。深い群青色を帯びた十個の結晶は、蝋燭の淡い光を受けて、ざらざらと煌めく。
母親が、怪訝な眼差しでエルドレッドと結晶を何度も見比べる。
「これは何ですか? あの子が、これを家に……?」
「サファイアの原石。ある鉱山の中で、クライフさんが自分で掘り出して」
「どうしてそんな物を……?」
一瞬、エルドレッドは不審げなクライフの母親から、視線を逸らした。が、すぐに視線を戻し、彼はクライフの母親を真っ直ぐに見つめた。
クライフの母親には、何もかも話しておくべきだ。
そう考えたエルドレッドは、クライフの母親を正視したまま、たどたどしく語り始めた。
「十日ほど前のこと、なんだけど……」
エルドレッドは、途切れ途切れにクライフの母親に話す。
ノイラの村で、初めてクライフたちと遇ったこと。
クライフたちとある依頼を受けて、村はずれの鉱洞に入り、動く屍体と戦ったこと。
その鉱洞で、クライフがサファイアの原石を手に入れ、そして身を挺してエルドレッドたちを庇ったこと――
そこでエルドレッドは言葉を切った。
彼は、改めて目の前に座るクライフの母親を見直してみる。黙したまま、伏し目がちにエルドレッドの話を聞いていた、クライフの母親。諦念したような、達観した笑みが、しわの寄る口元に浮かんだ。
「……本当、あの子らしいわ。柄は良くないけれど、ああ見えて、昔から義理堅くて。つい誰かの矢面に立ってしまって、決まって後ろ指を差されて、ねえ……」
苦笑めいた息を一つ洩らし、クライフの母親が目を開けた。その鋼色の瞳には、何か強い信念のような光が潜む。
「それで、あの子はこの家へ還ってきますか? エルドレッドさん」
クライフの母親の眼差しを真正面から受け止めて、エルドレッドは確信を込めてうなずく。
「クライフさんは、必ず、ここへ還ってきます」
「いつ?」
一瞬のためらいを許したエルドレッド。だが、すぐに彼は顔を上げた。
「俺には分かりません。でも、絶対に還ってくるから。たぶんきっと、近いうちに」
「……分かりました」
深くうなずいたクライフの母親が、ふふっと笑う。
「わたしも、そう思います。これは母親の勘ね。幾つになっても、息子は息子だもの」
柔らかなため息交じりにそう言って、彼女がテーブルのサファイアへ視線を向けた。
「これをどう使うかは、あの子が還ってから相談しましょう。あの子なら、きっとアグロウの村のために役立てよう、と言ってくれると思うわ」
母親の言葉に、エルドレッドの胸中にもじんわりと温かさが広がってくる。つい頬を緩ませたエルドレッドに、クライフの母親が目を向けてきた。
「いろいろありがとう、エルドレッドさん。うちの子が、本当にお世話になって」
「あ、いや、えーと、お世話になったのは、俺の方だから。俺もシオンも、クライフさんに命を助けられて……」
恥ずかしさに耐えかねて、エルドレッドは髪をくしゃくしゃとやった。そしてスプーンを取った彼が、ちょっぴり冷めかけたカブのスープを一口食べたその時、玄関の扉が乱雑に叩かれた。
「どなた?」
答えたクライフの母親が椅子から腰を上げた。
と同時に、きいっとドアが開き、誰かが戸口の内側へと倒れ込んできた。
閉店間際なのだろう。灯りを落とした店内には、食料はもちろん、日用雑貨から冒険者向けの野外道具、果ては子供向けの人形まで、ありとあらゆる商品が雑然と積み上げてある。
「いらっしゃい」
雑多な商品の山の間から、のそりと姿を現わしたのは、一人の老人。真っ白な髪と髭が混然とした顔の真ん中に、丸眼鏡が光っているこのアンシャル商店の主人のようだ。
特に何の感情も見せない老人に、エルドレッドは聞いてみる。
「あ、えーと、この村にクライフ=ヴァルツ=ローランドって人の実家があるって聞いてきたんだけど、どの家なのか、聞いてもいい?」
「『クライフ』?」
途端に、主人が眼鏡の奥で目を丸くした。
何度もうなずきながら、今度は目を細めて虚空を探る。
「あーあ、ローランドさんちの長男坊だな? 懐かしい名前だねえ……」
噛みしめるようにつぶやいた老主人。懐かしそうな吐息に髭を揺らした老主人に、エルドレッドはさらに問う。
「クライフを知ってる?」
「ああ。よく覚えとるよ。何せアグロウは小さいからなあ。村全体が、家族みたいなもんだ」
老主人が何度も深くうなずいた。
「クライフは六人兄弟の長男坊でなあ。昔っから腕っぷしが強くて気風のいい、孝行息子だったが……」
大きなため息を容れて、老主人が続ける。
「もう二十年以上も前か、もの凄い不作の年があってなあ。この国は飢饉に見舞われて、大変なことになった。このアグロウも困窮を極めてなあ。クライフは、その時に手酷くグレて、この村から追ん出された……」
そこで、老主人がふっふ、と苦笑を洩らした。
「なんていうのは、表向き。あの子は口減らしのために、自分から追い出されるように仕向けたんだよ。そんなことは、村のもんにはみんな分かっとったがなあ」
老主人がエルドレッドに穏やかな眼差しを向けてくる。
「出て行ったクライフは、時々はアグロウに戻って、母親たちの様子を見とったようだがなあ……。で、あんたはクライフの知り合いか? えらい若いが、弟子だったりするのかな?」
「クライフは親友で先輩、それに恩人、かな……」
一瞬足元に視線を落とし、エルドレッドは答えた。
粗野だが、どこか純朴で憎めない、先輩戦士の顔がエルドレッドの脳裏に浮かぶ。
しかしすぐに顔を上げ、エルドレッドは微笑む老主人を正視した。
「俺、クライフから実家に届けて欲しい、って預かった物があるんだ。だから実家の場所を知りたいんだけど……」
「ローランドさんの家は、この店から南へ数軒だ。大きな栗の樹がある家だから、すぐに分かるよ。もう子供たちはみな巣立ってなあ。今はお母さんが独りで住んでる」
「ありがとう。助かったよ」
エルドレッドは笑顔で礼を述べ、アンシャル商店を出た。
辺りはすっかり夜の帳に覆い隠され、しんと静まり返っている。遮るもののない満天の星の光が、この夕べの村を柔らかく照らす。漂う土の匂いも相まって、農村出身のエルドレッドの郷愁を酸っぱく煽り立てる。
だが今は自分の感傷に浸っている場合ではない。シオンの安否を気遣いつつ、エルドレッドは歩き出した。
彼は、アンシャル商店の主人に教えられた南の方へ、足早に進む。
狭い道沿いの家々は、ちんまりとした母屋に小さな納屋、それに菜園を兼ねた庭を構えた、この大陸では典型的な農家だ。
そんな農家を数えながら、仄白い星明かりを頼りに小道を行くエルドレッドは、程なく足を止めた。
「あれかな……?」
今、エルドレッドの前にひっそりと佇むのは、一軒の倹しい農家だ。
通りに面した塀のない庭には野菜が植えられ、その奥の質素な玄関の脇には、一本の大樹が緑の葉を茂らせる。よく見れば、細長い葉の間には、小さな愛らしい
エルドレッドは、玄関口に視線を戻した。窓を固める鎧戸の隙間から、淡い灯火が夜闇に流れ出していて、家人がいるようだ。
どこか懐かしさの漂う畑を横目に眺めつつ、母屋の玄関へと向かう。
そして戸口に立った彼は、コンコン、と飴色の板戸をノックした。
すぐに年配女性の穏やかな声が聞こえ、それから十秒ばかり。ゆっくりと開かれたドアが、エルドレッドの横の夜闇を灯りで打ち消した。
「どなた?」
穏やかな共通語とともに、半分開かれた戸口に立つのは、齢五十半ばくらいの女性だ。
素朴なワンピースに身を包み、華奢な両肩には茶色のショールを掛けている。余りクライフには似てはいないが、瞳は彼と同じ鋼色。やはり親子なのだろう。
エルドレッドは、不思議そうな表情を浮かべる女性に、ぺこりと頭を下げた。
「あ、えーと、こんばんは。俺は、エルドレッドって言います。こちらは、戦士のクライフさんのお家で、いいですか?」
「あらあら……」
途端に、女性が目尻のしわを深くして、にっこりと笑顔を見せた。
「確かに、クライフはうちの子ですよ。あいにくと、今はどこかへ旅に出ていて、次はいつ帰ってくるのか分からないけれど。クライフに何かご用だったかしら?」
クライフの母親は、大きくドアを開け、突っ立ったままのエルドレッドを手招きする。
「立ち話も不躾だから、よかったらお上がりなさいな。あの子へのご用、お話し下さる?」
即座にうなずくエルドレッド。
「あ、はい。お邪魔します」
詳しい話を始める前に、エルドレッドはクライフの実家に上がり込んだ。
玄関口のすぐ内側は、小さな居間のようだ。素朴な角テーブルに、木の椅子が二脚。テーブルの真ん中に置かれた蝋燭の炎が、ゆらゆらと部屋の中を照らしている。そのテーブルの上にあるのは、木の針箱とやりかけの刺繍枠、それに質素な薄手の聖典『創世記』だ。
「お掛けなさい、エルドレッドさん、だったかしら」
クライフの母親が、テーブルの上の物を脇に押しやりながら、エルドレッドに笑顔で聞く。
「お夕食は済んでいるの?」
「いえ、まだ……」
素直に答えたエルドレッドに、母親が好意的に笑ってうなずいて見せる。
「それなら、うちで食べたらいいですよ。残りもので悪いけれど」
「あ、いや、えーと、そんな……」
返事を濁したエルドレッドだったが、クライフの母親は穏やかに笑うばかり。
「遠慮しないで。頂き物のカブを煮過ぎてしまって。お話は食べながら。あの子のお客さまなら、わたしのお客さまですからね」
「あ……、はい。ありがとうございます」
いきなり訪ねてきた見ず知らずの自分に、温かいもてなしをしてくれる、クライフの母親。こういうさりげない温かさが、何となくあの先輩戦士の表に出ない気遣いを思い出させる。嬉しさにも似た感情と、乾いた寂しさが、つんと鼻に沁みたエルドレッドだった。
背中のザックを背中から降ろし、エルドレッドは椅子に座った。
ずっしりと重いザックを膝の上に載せて、彼は改めてテーブルの上を一瞥する。
円い枠にしっかりと張られた白い布には、色とりどりの花鳥が丁寧に縫い込まれている。その脇に伏せられた『創世記』。その裏表紙に印刷されているのは、生命の女神の聖印と、日々の命に感謝する聖句だ。生命の女神ヴィータの寺院が刊行したものだろう。息子の日々の安息を祈る、母親の気持ちの表われに違いない。
ふと、エルドレッドの脳裏に、自分の母親の顔が浮かんだ。
……もう何年も会っていないが、元気だろうか?
彼は静かに目を伏せた。自ら故郷の村を去ったエルドレッドだが、悪い思い出ばかりというワケではない。
……やっぱり、一度くらいは実家を覗いてみようか。
そんな思いが胸の奥底に去来したエルドレッドの鼻先を、温かく素朴な匂いが、優しく悩ましく、そっとくすぐる。目を開けた彼の前には、一膳の夕食が用意されていた。
湯気の立つスープ皿と、薄く切られた二切れの円いライ麦パンだ。皿の中は、ベーコンとハーブで煮立てたカブのスープらしい。何の技巧もない田舎の家庭料理だが、それが却ってエルドレッドの空腹感を煽り立てる。
溢れる唾を呑み込むエルドレッドの向かいの椅子に、クライフの母親がゆっくりと腰掛ける。
「さあ、どうぞ。わたしの残り物で申し訳ないけれど、」
「あ、はい。頂きます! あ、でも、その前に……」
うなずいたエルドレッドだったが、スプーンを取るより先に、彼は膝の上のザックに手を突っ込んだ。中からずっしりと重い麻布の袋を取り出して、テーブルの上に、ごとんと載せる。
「これ、クライフさんから預かった物です。実家に、届けてくれって」
言いながら、エルドレッドは堅く結ばれた麻袋の口紐を解き、中身を取り出した。
彼が麻袋からテーブルの上に並べたのは、鶏卵大の石の塊。深い群青色を帯びた十個の結晶は、蝋燭の淡い光を受けて、ざらざらと煌めく。
母親が、怪訝な眼差しでエルドレッドと結晶を何度も見比べる。
「これは何ですか? あの子が、これを家に……?」
「サファイアの原石。ある鉱山の中で、クライフさんが自分で掘り出して」
「どうしてそんな物を……?」
一瞬、エルドレッドは不審げなクライフの母親から、視線を逸らした。が、すぐに視線を戻し、彼はクライフの母親を真っ直ぐに見つめた。
クライフの母親には、何もかも話しておくべきだ。
そう考えたエルドレッドは、クライフの母親を正視したまま、たどたどしく語り始めた。
「十日ほど前のこと、なんだけど……」
エルドレッドは、途切れ途切れにクライフの母親に話す。
ノイラの村で、初めてクライフたちと遇ったこと。
クライフたちとある依頼を受けて、村はずれの鉱洞に入り、動く屍体と戦ったこと。
その鉱洞で、クライフがサファイアの原石を手に入れ、そして身を挺してエルドレッドたちを庇ったこと――
そこでエルドレッドは言葉を切った。
彼は、改めて目の前に座るクライフの母親を見直してみる。黙したまま、伏し目がちにエルドレッドの話を聞いていた、クライフの母親。諦念したような、達観した笑みが、しわの寄る口元に浮かんだ。
「……本当、あの子らしいわ。柄は良くないけれど、ああ見えて、昔から義理堅くて。つい誰かの矢面に立ってしまって、決まって後ろ指を差されて、ねえ……」
苦笑めいた息を一つ洩らし、クライフの母親が目を開けた。その鋼色の瞳には、何か強い信念のような光が潜む。
「それで、あの子はこの家へ還ってきますか? エルドレッドさん」
クライフの母親の眼差しを真正面から受け止めて、エルドレッドは確信を込めてうなずく。
「クライフさんは、必ず、ここへ還ってきます」
「いつ?」
一瞬のためらいを許したエルドレッド。だが、すぐに彼は顔を上げた。
「俺には分かりません。でも、絶対に還ってくるから。たぶんきっと、近いうちに」
「……分かりました」
深くうなずいたクライフの母親が、ふふっと笑う。
「わたしも、そう思います。これは母親の勘ね。幾つになっても、息子は息子だもの」
柔らかなため息交じりにそう言って、彼女がテーブルのサファイアへ視線を向けた。
「これをどう使うかは、あの子が還ってから相談しましょう。あの子なら、きっとアグロウの村のために役立てよう、と言ってくれると思うわ」
母親の言葉に、エルドレッドの胸中にもじんわりと温かさが広がってくる。つい頬を緩ませたエルドレッドに、クライフの母親が目を向けてきた。
「いろいろありがとう、エルドレッドさん。うちの子が、本当にお世話になって」
「あ、いや、えーと、お世話になったのは、俺の方だから。俺もシオンも、クライフさんに命を助けられて……」
恥ずかしさに耐えかねて、エルドレッドは髪をくしゃくしゃとやった。そしてスプーンを取った彼が、ちょっぴり冷めかけたカブのスープを一口食べたその時、玄関の扉が乱雑に叩かれた。
「どなた?」
答えたクライフの母親が椅子から腰を上げた。
と同時に、きいっとドアが開き、誰かが戸口の内側へと倒れ込んできた。