8、家族の愛

文字数 3,925文字

 僕は、母上達に失礼なことをしてしまったと反省しつつ、向かうのは、弟……流水(ながみ)の部屋だ。先程の食事の際に、こっそり(かす)めてきた丸パンを、流水(ながみ)にあげる為だ。一口も食べずに部屋に戻るなんて、きっと、夜中にお腹が空いて眠れなくなってしまうだろう……と思ったのだ。
 四階までの階段を登って、立ち止まった僕に、横を歩いていた雫が驚く。長い前髪を左に流し、右側をちょと摘んでピンをクロスさせて留めており、後髪は短めにカットしている。
 頭を左寄りに傾け、前髪を流し、上目遣いがちに黒い瞳を覗かせて、訝しげに僕を見た。そんな雫の青深緑色の前髪が、照明の光に透けて、緑色が強くなる。

「上様? ……どうされましたか? この階に何か用事でも? ……上様の部屋は、もう一つ上の階ですよ……? ご自分の自室をお忘れになられたのですか?」

「え? ……忘れてないけど? あー、えっとね、ちょっと流水(ながみ)に用事があって……」

 中々失礼な勘違いをされたが、用事や仕事諸々の都合は、全て雫へ事前に伝える僕にしては、らしくないことをしたので驚かれて当たり前だ。

流水(ながみ)が、お腹空かしてるかなって思って……やっぱ、要らないかな?」

 未使用のハンカチで包み、雫から見えにくい位置に隠し持っていた丸パンを、羽織っているマントを避けて雫に見せる。すると雫は、黒縁眼鏡の奥の黒い瞳を鋭く細めて、面倒くさそうにと言うよりかは、怒ったような口調で呟いた。

「ご自分で食べる用じゃ無かったのですね……というか! 何故そこまでするんですか? 上様を侮辱した流水(ながみ)に、そんなことしてやる必要無いですって!」

 悪意を込めて流水を呼び捨てにした雫に怒りが沸き、思いっきり睨み、低く重い声を出し、注意する。

「雫は、流水(ながみ)のことを呼び捨てにするな」

「あ……え、す、すみませんでした……」

 恐々と謝った雫は、驚きと怯えが混ざった表情をして、外方を向いた。しまった! と慌てて話題を変える。

「あっと、ごめん……しっかし今日は機嫌が悪いよね雫。書類仕事の計算もミスが多かったし、体調悪いの?」

「……違いますよ」

「もしかして、久し振りの水様(すいさま)同席の食事に緊張してたとか……? あ! 寝不足なの? 今日の仕事、苦手な業務内容だった? ……最近僕の仕事が増えて忙しくて、かまってもらえなくて寂しいのに、弟ばかりかまうから?」

 思いつく原因を当てずっぽうに言ってみたが、全て違うらしい。

「……っていうか、最後の何ですか? そんなこと思っていませんよ? 上様が少しずつ当主の座に近づいている証拠ですから、嬉しく思っていますよ。今日機嫌が悪かったのは、ただ……流水(ながみ)……様が、嫌いだからです。今日、あの人に会わないといけないと思うと、苛々してしょうがなくて……あの人の、家族みんなに愛されているのに、本人が、それに気づいてなくて……色んなことを突っ()ねて反抗しているのが気に食わないんです……今日だって、上様によくもあんなことを! 上様が、どれだけアンタの為にっ──」

「いいんだよ。別に……そこまで怒らなくても……悪いね……付き合わせちゃって……そうだ、気分が悪くなるなら、ここで待っていてくれても構わないよ?」

「いえ、お伴します……」

「ふっ……ありがとう」

 素直じゃないんだから……と、微笑む。さっきまでの感情的な雫は何処へやら、流水(ながみ)の部屋に着いても雫は、嫌そうな顔をしなかった。扉をノックをしても返事が無く、心配になって扉を開けると、床に座り込み、机に寄り掛かって目を閉じている弟の姿が目に入り、駆け寄って確認して眠っているだけか……と安心した。同時に、もう寝ちゃったのか……疲れてたのかな? と、流水(ながみ)の頭を撫でる。

 ふと、薄着で眠っている流水が心配になった。このままでは、風邪を引いてしまうかもしれない。気休めにしかならないけれど……と、羽織っていた自分のマントを脱ぎ、流水の肩から胸元に(かぶ)せた。ここで雫が、「そんなことまでしなくても良いじゃないですか」と顔を(しかめ)めたのがツボに入ったのは、また別の話である。

 ーーーーーーーーーーーーーーーー

 瞼を貫いて差し込む光に気がつき、目が覚めた。固くなっている身体を少しずつずらし、床に寝そべったら、伸ばした右手に何かがぶつかった。起き上がって確認してみると、それは、食器を載せたトレーだった。
 食器の上には、クッキーが載っていた。そのトレー上には、兄上のハンカチを皿にした、丸パンも置いてあった。どういう状況か、よく分からない。一旦立って、辺りを確認しようと立ち上がる。すると、音を立てて身体から布らしきものが、ずりおちた。屈んで良く見ると、それは母上の膝掛けと兄上のマントだった。

「母上と兄上のが、何故ここに──」

 首を傾げそうになり、すぐに気が付いた。お菓子の載った皿、兄上のハンカチに載った丸パン……二人が、様子を見に来てくれた。その事実に気がついた瞬間に、僕は走り出していた。部屋のドアを荒々しく開け放ち、全速力で玄関を目指して走った。

 あんな酷いことを言った僕を、見捨てるようなことをせずに、腹が減っているだろうと、ここで眠ってしまっては冷えるだろうと、色々気遣ってくれるなんて。どれだけの優しさがあれば、そんなことをできるというのか。自分には、絶対に真似できない。

 ありがとうございます母上、ありがとうございます兄上……ごめんなさい。本当に本当に、申し訳ありません。僕は最低なクズ野郎です。二人が気に掛ける必要のないゴミ人間です。なのに、何でこんなに……こんなにも優しくして下さるのですか? 意味が解らないですよ……どこに行っても役立たずで、何をやらせてもダメダメで、いつも手を抜いてばかりで、こんな僕なんか、誰も必要としていないって……誰かの代わりにすら成れないって、思っていたのに。

 こんなことされたら……もう、逃げたりできないじゃないですか……!

 まだ間に合うかもしれない。母上が火陽家へ発つ前に、母上に……兄上に、父上に、謝らなければ!
 最後の階段を八段飛ばしで飛び降り、玄関扉を開けて、家に入ろうとしている父上と兄上達の横を走り抜けた。

「えっ! 流水(ながみ)? ちょっと、何処行くの!」

「追いかけるぞ、凪沙(なぎさ)!」

「えっ? は? ……はい?」

 二人が何かを話したようだが、そんなのは無視だ。庭を突っ切り、家の門をくぐって、道を見渡し、母上の乗っている馬車を探す。しかし、見つけた馬車は百メートル程先を走っており、僕の足では追いつけそうになかった。
 それでも僕は諦めきれず、馬車を追いかけて走る。背後から、僕の名前を叫び、制止をかけてくる人がいるが、またも無視する。

 どんどんと小さくなっていく馬車と、失速していく自分の身体との差は、物理的に今迄の堕落した自分と、真っ当に生きてきた人の差を表しているかの様だった。

 ついに走れなくなった僕は、地面に勢いよく転がり、倒れ込んだ。馬車は、とっくに見えない所まで走って行ってしまったようだ。

 破裂しそうな心臓を押さえ、ひりひりと痛む喉と肺に、ひたすら酸素を送るが、ただただ苦しくなるばかりだった。吹き出る汗を膝掛けで拭おうと、顔の元に持ち上げた。その時、膝掛けに縫い止められているタグのような物に気が付いた。
 折り畳まれたカードのタグを開いて見ると、きっちりとした母上の字で、僕宛のメッセージが書かれていた。

流水(ながみ)へ、(わたくし)も、凪沙も、一水様も、貴方のことを責めたりしないわよ」

 ……ただそれだけのメッセージが、とてつもなく心に沁みた。

 何も考えられなかった。一瞬、全ての苦しみから解放されたような心地がしたのだ。とても苦しかった、ずっと前から……兄上に憧れて自分も真似をして、やってみたけど、兄上のように上手く出来なかった時から、家族の輪に居るのが苦しかった。
 兄上のように上手くできていないのに、優秀じゃないのに、この人達と一緒に居ていいのだろうか? 同じような待遇を受け、同じテーブルで食事なんてしていいのだろうか? 周りは立派な者ばかり。自分だけが出来損ないで、この人達と対等な立場にいて言い訳がないのに。
 彼らは……母上は、兄上は父上は、僕を責めたりしなかった。それが余計に、僕の罪悪感を膨らませた。その癖、責められないことを盾に散々手を抜いて、逃げて……それでも、家族は僕を責めないって言ってくれる……。

 そうか、僕は──

 その事実に気がついた瞬間、僕に追いついたのか、兄上の声がした。

流水(ながみ)っ! ……え? 大丈夫? 怪我でもした?」

「あ、兄上? 何を仰っているのですか……?」

 父上が、僕の顔を優しく拭う。走って熱くなった顔の熱とは違う熱さが、目元に残っていた。その熱は、絶え間なく頰を伝って行く……僕は、泣いていた。

 悲しいことがあった訳ではない、辛いわけでもない、怪我をした訳でもない……けど……胸が熱くて、苦しかった。僕の側には、いつも僕のことを想ってくれていた家族がいたことに、ようやく気がついたのだ。
 なんで、今まで気がつかなかったんだろう……自分は、こんなにも愛されていたのに。僕は愛されていたんだ。とても深く、大きな愛で。

「……ごめんなさい、ごめんなさいっ……僕はっ……なんで、なんて最低なことを……あ、兄上、父上、ごめんなさい……母上っ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……それから、ありがとうございます……」

 謝っても謝っても足りないくらいだが、泣きじゃくりながら、ひたすら謝る。僕が泣き止むまで、父上と兄上は、側にいてくれた。やっと、黒い気持ちの殻を脱いだ僕を、包み込んでくれる二人の温かさは、とても心地良かった。
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