第11話「それでも、内藤先輩のことを好きになれて良かった」

文字数 3,103文字

「内藤先輩は人を好きになったこと、ありますか?」

 赤に近い橙色の夕日が徐々に沈んでいく。
 紫色の幕が下がる中、僕は「あるよ」と答えた。

「幼稚園とか小学校とか。だけど最近は……あんまりないかな」
「私、背がでかいから、好きになってもフラれること多いんですよね」

 詩織の口調は軽かったけど、緊張をほぐそうとしているのが分かる。
 無理して僕と向き合おうとしていた。
 申し訳ないと思ってしまうほど、一生懸命に。

「女らしくないし。性格もがさつだし」
「自虐するほどじゃないよ。僕には……」

 素敵な女の子に見えるよと言いかけて、それが虚しいものだと気づく。
 一人きりで山の頂上にいて、やまびこをするような類の自己満足。
 詩織は「下手な慰めはいいですよ」と渇いた笑みを見せた。

「好きになって、告白して、フラれて。落ち込んでから立ち直って。自分の夢に一生懸命になって――また人を好きになる。あはは。学習能力ないですよね?」
「そうは思わないよ。人を無条件に好きになれるって素敵だ」
「その言い方だと、条件付きで人を好きになるのは不純になりますね」

 揚げ足を取られた気分だ。
 僕は「それで商売が成り立つこともある」と肩を竦めた。

「キャバクラとかホストクラブとか。いわゆる疑似恋愛で大金が動くのは世の常だ」
「でも先輩は、それを素敵だとは思わないんですね」
「純粋な愛と比べたらね。だけどそういうのを否定しない。それで経済を回せるから」

 詩織は「お金はそんなに重要ですか?」と無垢な少女らしい質問をする。

「衣食住だってお金がないと成り立たない。高校生なんだから分かるだろ」
「……質問を変えます。内藤先輩はお金が大好きですか?」
「好きじゃないよ。むしろ大嫌いだ」

 吐き捨てるように僕は言い放った。
 あの人たちのことを思い出してしまう。

「お金なんて、人並みの生活ができればそれ以上要らない。あれば腐るだけだ。金も、持ち主も――」
「……大丈夫ですか? 今にも死にそうなくらい、ツラい顔していますけど」
「…………」

 心配というより不安を感じているらしい。
 顔を伏せた僕を覗き込む表情は少しだけ怯えがあった。

「文月さん。僕はね、君のことをどう思えばいいのか、分からないんだ」
「どう思えばいいって……考えるようなことですか? 素直に心のまま――」
「僕なんかを好きになってくれたんだ。真剣に考えるだろう」

 初めは暴力を振るった加害者だった。
 それがだんだん、大事な後輩になっていった。
 そして今、彼女は僕に恋してくれている。

「中途半端なことは言えないし考えられない」
「真面目に考えてくれるのは嬉しいですけど、疲れないですか?」
「本音を言えば疲れる。だけど……」

 言い淀んだのは気恥ずかしさからだった。
 疲れるくらい考えているのは、詩織のことが大切だから。
 はっきり言えるほど僕には度胸がない。

「私のこと、好きですか? 嫌いですか? それとも関心ないですか?」
「……嫌いで関心が無かったらここに来ていない」
「それは――期待していいんですか?」

 無意識に詩織の目を見てしまう。
 大きな瞳。黒い虹彩が輝いていて、眩しいくらいだった。
 僕が映っているのも分かる。少しだけ――嬉しかった。

「私の想いが叶うって、期待しても良いんですよね?」
「勝手にすればいい」
「じゃあ――そうします」

 身体に重さと柔らかさを感じた。
 何が起こったのか――詩織が座ったまま、僕に抱きついたんだ。
 僕の頭の後ろに詩織の顔がある。だからどんな顔をしているのか分からない。
 女の子特有の匂いとか感触とか。それらが僕の鼓動を高鳴らせる。
 呼吸が上手くできているか分からない――だけどそれ以上に、とてつもない多幸感に溢れていた。

「ふ、文月さん――」
「黙ってください。私だって、余裕ないんですから」

 それから五分――体感だと一時間ぐらいだ――詩織は僕に抱きついていた。
 ゆっくりと離れる彼女。残念だと思ったのは気のせいなんかじゃない。

「これで、もういいです。最後に良い思い出ができました」
「文月さん……」
「内藤先輩が何を抱えているのか分かりません。きっと私には支えられないでしょう」

 詩織は泣きそうだったけど、涙をこらえていた。
 自分の無力さを悔やんでいるのがありありと分かった。

「それでも、内藤先輩のことを好きになれて良かった」
「僕は、好かれるような……」
「聞きたくないです。だって、馬鹿みたいじゃないですか――好きになったことが」

 詩織は未練を見せずに、潔く立ち上がった。
 何かを言おうとして――言えない自分に気づく。

「さようなら、先輩」

 詩織は小走りで公園から去っていく。
 僕は追いかけることができなかった。
 人に好意を向けられるのが怖い――臆病者だから。

 世界はすっかり暗闇に閉ざされていた。
 空には星が瞬きつつある。
 だけど、手は届かない。
 どう足掻いても。


◆◇◆◇


 家に帰ると酒とタバコで塗り潰された『女』がソファーで寝ていた。
 今日は悲しい夢を見ているのか、マスカラが涙で滲んでいる。

「……起きな。夏でも風邪引くよ」

 僕が身体を揺すると、女は寝言混じりに文句を言ってからゆっくりと起き上がった。

「……賢悟ちゃん、泣いているの?」

 女は寝ぼけているのか、僕の頬を何度もこする。
 鬱陶しいと思ったけど、なすがままにされておく。

「泣いてないよ。ほら、ここで寝ないで部屋に行って」
「やだ。めんどい。おぶって」
「わがまま言わないの。肩を貸すから」

 文句を言いながら女は二階の部屋に行く。きちんとベッドで寝たのを確認してからリビングに戻る。冷蔵庫を開けると今朝とまったく同じものが入っていた。

 女が料理をしてくれたのは随分前だ。
 僕の料理を食べてくれたのも。
 女はいつ、ご飯を食べているのだろう?

 昔のことを思い出す。
 『あの人』が女と遊ぶとき、僕はいつも買い物袋から一人分減らす。その軽さが寂しかった。惨めでもあった。総計すると怒りよりも悲しみが勝った。

「……何のために、僕は――」

 言葉は続けられなかった。
 口にしたら、もっとツラい現実に直面しないといけないから。

 こんな寂しい夜だからか。
 さっき会ったばかりなのに、詩織と会いたくなってしまった。
 でも、どんな顔をして会えばいいのか、分からない。

 自分の部屋に戻る。
 布団とゴミ箱しか置いていない、殺風景な空間。
 隅に体育座りして、ゆっくりと考える。
 頭の中にあるのは、詩織のこと。それだけで占められている。

 どうやら僕は詩織のことを……言える資格はないけど、好きみたいだ。
 一緒にご飯を食べるときは楽しかった。
 いろんな話を聞いたり喋ったりして愉快だった。
 昼休みが待ち遠しくなったのも事実だ。

「だけどなあ。僕なんかが人を好きになっていいわけねえよ」

 ぽろぽろ、ぽろぽろと。自分では止められない。
 どうして僕は弱いんだろう。

 もしもまともな『環境』で、汚いことに手を染めなくてもいいのなら。
 きっと詩織に恋していた。

 自分が卑怯者なのは分かる。
 詩織の純粋な想いに応えられない。
 人を好きになるのに、資格は要らないって、分かったような奴は言うけど、絶対に間違っているんだ。

 だってそうだろう? 他人を蹴落としたり踏みつけたりできる僕が、今更まともになろうだなんて、虫が良すぎる。
 何人、何十人、何百人。僕が生きる上でたくさん犠牲になった。
 だから僕は人を好きになっちゃ駄目なんだ。

 分かっている。
 分かっている?
 分かっているはずだ。

 だけど、ごめんな――詩織。
 自分でもどうしていいのか、分からないんだ。
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