第10話「私、内藤先輩のこと誤解していました」
文字数 3,063文字
あれから翌週になるまで、詩織は僕の前に姿を現さなかった。当たり前だろう、好意を持った先輩が隠れて非道なことをしていたんだから。
これまでも散々、人の心を踏みにじってきた僕だけど、詩織が離れていくのは悲しかった。感傷に浸る資格もないというのに、気持ちは嘘をつけなかった。我ながら身勝手なことだ。
詩織はこんな僕のことを好きと言ってくれた。
飾らない言葉。直接的な感情。
それに対して、誠意で返せば良かったんだろうけど……できなかった。
勇気がなかった。意気地もなかった。逃げるだけしかできなかった。
今更だが、僕は詩織にどう向き合えばいいのだろう。今まで他人からは嫌悪か敵意、はたまた無関心しか感じたことはなかった。一人の女の子に純粋な気持ちを向けられたことなんて、生きてきた中で一度もなかった。
他人に恋愛感情を抱いたことはある。無条件に愛しくて大事にしたいと思う相手は小さい頃はいた。でも自分の生まれと環境を知ってからは、その気持ちに蓋をすることにした。
卑下するつもりはない。
でも迷惑だろうなと考えてしまう。
僕は――臆病者だ。恋というものに怯んでしまう。
だから僕のほうから詩織に連絡することはなく、彼女からも反応は皆無だった。
それでいいって思うことにした。いつだって逃げてきたのだ、己の本音から。
◆◇◆◇
「内藤先輩。詩織ちゃんのことで話があります」
文芸部は高校の図書室で活動している。部室はあるけど活動内容から図書室のほうが捗るだろうと、顧問の先生の判断で数年前からそうなっていた。
とは言うものの、基本的に緩い部活なので真面目に文章を書いたり小説を読んだりする生徒は少ない。僕は不真面目な部類なので小説を斜め読みしていた。
そんな折りに詩織の友人である鳥山神楽が訪ねてきた。か弱い雰囲気はあるけど前よりおどおどしていなかった。それどころか、堂々と僕の前に立っている。
「……文月さんのこと? 何かあったのかな?」
「詩織ちゃん、元気ないんです。ため息ばかりついて。それで話を聞いたら内藤先輩のことで悩んでいるって」
鳥山さんには詳しい話をしていないようだ。ま、話せる内容でもないし。
さて。僕はどう答えたものか。嘘や誤魔化しでお茶を濁すこともできるけど……
「そうだね。僕が原因だ」
「本当ですか? 詩織ちゃん……悲しい目をしていたんです。あんなに落ち込んでいるの初めて見ました」
鳥山さんは良い子だ。友達のために、真剣に悩めるんだから。自分のことしか考えない大人より思いやりがある。
「詩織ちゃんと何かありましたか?」
「あったよ。でも詳しくは言えない」
「…………」
「ちょっと場所を変えようか」
図書室で話しているから、他の生徒の注目を浴びてしまった。鳥山さんもようやく気づいて「そうですね……」と同意してくれた。
「適当にその辺歩こう。時間あるかな?」
「私は大丈夫です」
廊下に出てからしばらく無言だった。階段を上がって二階に着くと「内藤先輩は詩織ちゃんのことをどう思いますか?」と鳥山さんは言う。まるで聞きたかったことを真っ先に訊いたようだった。
「親しくしていた後輩だよ」
「関係性を聞いているんじゃありません。好きか嫌いか聞いているんです」
難しい問いだった。僕は詩織のことをどう思えばいいのだろう。
先ほど口にした親しくしていた後輩が適切だと思う。しかしそれは表面的で、鳥山さんは僕の心情を知りたいんだ。
「好きか嫌いかって訊かれたら、好きって答えるよ。そうじゃなきゃ一緒にご飯を食べたりしない」
「踏み込んだことを訊きますけど、それは異性としてですか?」
僕は真田のことを思い出しながら「君からその質問が出るとは思わなかったな」と軽く笑った。鳥山さんは怯むことなく「私はみさおちゃんが好きです」とはっきり答えた。
「みさおちゃんが男だろうと女だろうと関係なく好きです」
「あの後、どんな話をしたのか分からないけど、覚悟は済んでいるようだね」
「ええまあ。内藤先輩のおかげだと思っています」
僕たちは本校舎と教科棟をつなぐ渡り廊下の中央で足を止めた。
今はそうでもないけど、だんだんと暑くなっていくんだろうなと考える。
「詩織ちゃんも大切ですけど、内藤先輩には大きな恩があります。だから二人とも幸せになってくれればいいと――」
「都合の良いことを言うなよ。僕は文月さんと少し関わっただけだ。そして関係なくなった。出会わなかった頃に戻ったんだよ」
心に去来する寂しさはまやかしだ。
ほんのりと浮かぶ悲しみもそうだ。
「戻れないですよ。人との出会いは無かったことになんかならないです」
「知ったような口を利くね。この前まで中学生だったのに」
「一歳年上なのに、知らないんですか? どんなに否定しても、楔のように残るんです――絆は」
青臭い幼稚な言葉だった。
けれど真剣な表情で僕を見つめる鳥山さんを前にして、笑い飛ばすことはできなかった。
「結局、君は何を言いたいのかな?」
「もし詩織ちゃんと喧嘩しているなら、仲直りしてほしいです。疎遠になっているのなら、また一緒にご飯食べられるようにしてください」
「……僕はともかく、文月さんはどうだろう」
年下の女の子に隠した気持ちを吐露するのは初めてだ。
情けない話だが――身体が震える。
「僕は酷いことをしてしまった。それを知った文月さんは離れてしまった。もしも僕のことを怖がったり、嫌っていたりしたら、仲直りなんてできるんだろうか」
「内藤先輩。前に言ったじゃないですか」
鳥山さんは安心したように微笑んだ。
今まで気を張っていたのが緩んだみたいだ。
「自分の考えで他人の想いを決めつける奴が大嫌いだって」
「…………」
「詩織ちゃんと話してください。真正面から、逃げずに」
◆◇◆◇
待ち合わせ場所は高校の近くの公園だった。
ベンチに座って詩織が来るのを待つ。
生きた心地がしなかった。来なかったらどうしようと心配だった。
鳥山さんはここにはいない。
二人きりで話せるようにしてくれた。隠れて見ているとかしないと約束していた。
じっとりと汗が滲む。夕暮れとはいえ少しばかり暑かった。
「……なんで、内藤先輩がいるんですか?」
俯いていた顔を上げると、驚いた顔をしている詩織がいた。
制服のままだから学校帰りに寄ったのだろう。
「鳥山さんから聞いてここに来たんじゃないのか?」
「いえ……神楽が会いたいって。だから……」
「とりあえず、隣座りなよ」
僕は空いている右のスペースをこんこんと叩く。
詩織は逡巡して、少し間を開けて座った。
「単純な私でも分かりますよ。神楽が騙したんですね」
「騙した……そうだね。そう捉えられても仕方が無い」
「いかにも他に訳がありそうな言い方ですね」
ちょっと不機嫌な詩織。
僕は「話したいことがあったんだ」と切り出す。
「この前のことだけど――」
「私、内藤先輩のこと誤解していました」
詩織は僕の顔を見ずに淡々と言う。
「暖かくて優しい人だと思っていたけど、本当は冷たくて残酷な人でした」
「否定しないよ。むしろ気づくの遅かったねと言っておこう」
「悔しいですよ。だってそんな先輩に――」
詩織は目の前で大事なものが壊れた子供みたいな表情になった。
理想が現実に負けて、真実が幻想に敗れたようだった。
「――私は、恋をしてしまったんですから」
どこで僕は間違ったのだろう。
なんで詩織は誤ったんだろう。
同じ道を歩いているわけでもないのに、ぴったりと合ってしまった。
もう知り合う前には戻れない――
これまでも散々、人の心を踏みにじってきた僕だけど、詩織が離れていくのは悲しかった。感傷に浸る資格もないというのに、気持ちは嘘をつけなかった。我ながら身勝手なことだ。
詩織はこんな僕のことを好きと言ってくれた。
飾らない言葉。直接的な感情。
それに対して、誠意で返せば良かったんだろうけど……できなかった。
勇気がなかった。意気地もなかった。逃げるだけしかできなかった。
今更だが、僕は詩織にどう向き合えばいいのだろう。今まで他人からは嫌悪か敵意、はたまた無関心しか感じたことはなかった。一人の女の子に純粋な気持ちを向けられたことなんて、生きてきた中で一度もなかった。
他人に恋愛感情を抱いたことはある。無条件に愛しくて大事にしたいと思う相手は小さい頃はいた。でも自分の生まれと環境を知ってからは、その気持ちに蓋をすることにした。
卑下するつもりはない。
でも迷惑だろうなと考えてしまう。
僕は――臆病者だ。恋というものに怯んでしまう。
だから僕のほうから詩織に連絡することはなく、彼女からも反応は皆無だった。
それでいいって思うことにした。いつだって逃げてきたのだ、己の本音から。
◆◇◆◇
「内藤先輩。詩織ちゃんのことで話があります」
文芸部は高校の図書室で活動している。部室はあるけど活動内容から図書室のほうが捗るだろうと、顧問の先生の判断で数年前からそうなっていた。
とは言うものの、基本的に緩い部活なので真面目に文章を書いたり小説を読んだりする生徒は少ない。僕は不真面目な部類なので小説を斜め読みしていた。
そんな折りに詩織の友人である鳥山神楽が訪ねてきた。か弱い雰囲気はあるけど前よりおどおどしていなかった。それどころか、堂々と僕の前に立っている。
「……文月さんのこと? 何かあったのかな?」
「詩織ちゃん、元気ないんです。ため息ばかりついて。それで話を聞いたら内藤先輩のことで悩んでいるって」
鳥山さんには詳しい話をしていないようだ。ま、話せる内容でもないし。
さて。僕はどう答えたものか。嘘や誤魔化しでお茶を濁すこともできるけど……
「そうだね。僕が原因だ」
「本当ですか? 詩織ちゃん……悲しい目をしていたんです。あんなに落ち込んでいるの初めて見ました」
鳥山さんは良い子だ。友達のために、真剣に悩めるんだから。自分のことしか考えない大人より思いやりがある。
「詩織ちゃんと何かありましたか?」
「あったよ。でも詳しくは言えない」
「…………」
「ちょっと場所を変えようか」
図書室で話しているから、他の生徒の注目を浴びてしまった。鳥山さんもようやく気づいて「そうですね……」と同意してくれた。
「適当にその辺歩こう。時間あるかな?」
「私は大丈夫です」
廊下に出てからしばらく無言だった。階段を上がって二階に着くと「内藤先輩は詩織ちゃんのことをどう思いますか?」と鳥山さんは言う。まるで聞きたかったことを真っ先に訊いたようだった。
「親しくしていた後輩だよ」
「関係性を聞いているんじゃありません。好きか嫌いか聞いているんです」
難しい問いだった。僕は詩織のことをどう思えばいいのだろう。
先ほど口にした親しくしていた後輩が適切だと思う。しかしそれは表面的で、鳥山さんは僕の心情を知りたいんだ。
「好きか嫌いかって訊かれたら、好きって答えるよ。そうじゃなきゃ一緒にご飯を食べたりしない」
「踏み込んだことを訊きますけど、それは異性としてですか?」
僕は真田のことを思い出しながら「君からその質問が出るとは思わなかったな」と軽く笑った。鳥山さんは怯むことなく「私はみさおちゃんが好きです」とはっきり答えた。
「みさおちゃんが男だろうと女だろうと関係なく好きです」
「あの後、どんな話をしたのか分からないけど、覚悟は済んでいるようだね」
「ええまあ。内藤先輩のおかげだと思っています」
僕たちは本校舎と教科棟をつなぐ渡り廊下の中央で足を止めた。
今はそうでもないけど、だんだんと暑くなっていくんだろうなと考える。
「詩織ちゃんも大切ですけど、内藤先輩には大きな恩があります。だから二人とも幸せになってくれればいいと――」
「都合の良いことを言うなよ。僕は文月さんと少し関わっただけだ。そして関係なくなった。出会わなかった頃に戻ったんだよ」
心に去来する寂しさはまやかしだ。
ほんのりと浮かぶ悲しみもそうだ。
「戻れないですよ。人との出会いは無かったことになんかならないです」
「知ったような口を利くね。この前まで中学生だったのに」
「一歳年上なのに、知らないんですか? どんなに否定しても、楔のように残るんです――絆は」
青臭い幼稚な言葉だった。
けれど真剣な表情で僕を見つめる鳥山さんを前にして、笑い飛ばすことはできなかった。
「結局、君は何を言いたいのかな?」
「もし詩織ちゃんと喧嘩しているなら、仲直りしてほしいです。疎遠になっているのなら、また一緒にご飯食べられるようにしてください」
「……僕はともかく、文月さんはどうだろう」
年下の女の子に隠した気持ちを吐露するのは初めてだ。
情けない話だが――身体が震える。
「僕は酷いことをしてしまった。それを知った文月さんは離れてしまった。もしも僕のことを怖がったり、嫌っていたりしたら、仲直りなんてできるんだろうか」
「内藤先輩。前に言ったじゃないですか」
鳥山さんは安心したように微笑んだ。
今まで気を張っていたのが緩んだみたいだ。
「自分の考えで他人の想いを決めつける奴が大嫌いだって」
「…………」
「詩織ちゃんと話してください。真正面から、逃げずに」
◆◇◆◇
待ち合わせ場所は高校の近くの公園だった。
ベンチに座って詩織が来るのを待つ。
生きた心地がしなかった。来なかったらどうしようと心配だった。
鳥山さんはここにはいない。
二人きりで話せるようにしてくれた。隠れて見ているとかしないと約束していた。
じっとりと汗が滲む。夕暮れとはいえ少しばかり暑かった。
「……なんで、内藤先輩がいるんですか?」
俯いていた顔を上げると、驚いた顔をしている詩織がいた。
制服のままだから学校帰りに寄ったのだろう。
「鳥山さんから聞いてここに来たんじゃないのか?」
「いえ……神楽が会いたいって。だから……」
「とりあえず、隣座りなよ」
僕は空いている右のスペースをこんこんと叩く。
詩織は逡巡して、少し間を開けて座った。
「単純な私でも分かりますよ。神楽が騙したんですね」
「騙した……そうだね。そう捉えられても仕方が無い」
「いかにも他に訳がありそうな言い方ですね」
ちょっと不機嫌な詩織。
僕は「話したいことがあったんだ」と切り出す。
「この前のことだけど――」
「私、内藤先輩のこと誤解していました」
詩織は僕の顔を見ずに淡々と言う。
「暖かくて優しい人だと思っていたけど、本当は冷たくて残酷な人でした」
「否定しないよ。むしろ気づくの遅かったねと言っておこう」
「悔しいですよ。だってそんな先輩に――」
詩織は目の前で大事なものが壊れた子供みたいな表情になった。
理想が現実に負けて、真実が幻想に敗れたようだった。
「――私は、恋をしてしまったんですから」
どこで僕は間違ったのだろう。
なんで詩織は誤ったんだろう。
同じ道を歩いているわけでもないのに、ぴったりと合ってしまった。
もう知り合う前には戻れない――