第17話「……僕はいつだって優しいよ」

文字数 3,146文字

 心拍数がまだ跳ね上がっている状態で、僕は家に帰った――酔っぱらっている女がリビングのソファでぼうっとしていた。
 起きているのは珍しいなと思いつつ「ただいま」と声をかけた。

「うー? あ、賢悟ちゃん。久しぶりだねえ」
「……そうだね。お酒、また飲んできたの?」
「うん……いろいろと忘れたいことがあるから」

 酔っていると言っても、普段よりは回っていないらしい。
 僕は「忘れたいこと?」と何気なく訊ねる。

「えっとねえ。今の生活のこととか。満たされないんだよね」
「…………」
「お金もあるし、欲しいものも買えるのに、毎日遊んで暮らしているのに、つまらないの」

 女は悲しそうに微笑んで、起き上がっていた身体を沈ませる。

「そんなところで寝ると身体、痛くなるよ」
「そうだねえ。でも良いんだあ」
「良くないって。ちゃんと――」

 そう言いかけたとき、リビングのテーブルに買い物袋が置かれているのに気づく。
 中身を見るとりんごが三つ、入っていた。

「なにこれ。誰から貰ったの?」
「違うの。買ったんだよう。美味しそうだなあって」
「ふうん……剥いてあげようか」

 女は「珍しいねえ!」と嬉しそうに歓声を上げた。

「賢悟ちゃんが優しくしてくれるの。とても嬉しい」
「……僕はいつだって優しいよ」
「でもお母さんって言ってくれないじゃない」

 女の言葉に対し、胸がひどく痛んだ。
 とてもじゃないけど、この女を母親とは思えないし呼べない。
 包丁と皿を台所から取ってきて剥こうとすると「あー、賢悟ちゃん」と妙に甘えた声を出した。

「うさぎちゃんにして。そっちのほうが可愛いから」
「……いいよ。そうしてあげる」

 皮むきをせず、そのまま切って、それからうさぎに仕立てる。
 三個できた時点で女に渡すと「わあ。可愛い」と本当に嬉しそうに言う。
 僕が知る限り、不幸な女なのに、このときばかりは幸せそうだった。

「あーむ。うん、美味しい……!」

 りんごを食べている様子を見ても僕は何も思わない。
 女が食事しているだけだ。
 それしか思えない――

「賢悟ちゃんも食べて」
「僕はいいよ」

 女が皿ごと僕に差し出す。
 ちょっとムキになっている様子で。

「だーめ。食べるの!」
「分かったよ。食べる。食べるから」

 一個手に取って、少し躊躇ってから齧る。
 どこで買ったのか分からないけど、とても美味しかった。

「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「本当? なら笑って」
「…………」
「あの人のように、笑って?」

 女は僕をあの人に似ていると言う。
 それを聞くたびに吐き気がしてくる。
 僕は作り物の笑顔になった。

「ふふふ。あの人と同じ笑顔だあ」

 そうだよね。あの人は作り物の笑顔しかしない。
 すっかり騙されているんだね。

「会いたいなあ……」

 悲しげに呟いて、女は寝てしまった。
 放置しておくのも良くないので、僕は女を寝室に運んだ。
 女は小柄で痩せている。毎晩浴びるほどお酒を飲んでいるのに、全然太らない。

 女を布団の上に寝かせて掛け布団をしてあげる。
 そして僕は自分の部屋に行く。
 詩織と違って殺風景な部屋。

「今日はいろいろあったなあ……」

 ありすぎて疲れてしまった。
 だけど詩織に言われたことを思い出してしまった。
 詩織は僕とそういう行為に及んでもいいのだろうか?
 一応、付き合っているのだから……僕のほうにはその覚悟はなかった。

 僕は詩織のことが好きだ。
 けれども、愛情を示す方法が取れるかどうかは微妙だった。
 臆病者だからかもしれない。
 あるいは卑怯者と言い換えてもいい。

 女性と付き合ったことのないから――ではないだろう。
 僕はまだ、詩織と付き合う資格がない。
 誰かを好きになる資格がないんだ。

「はは。泣けてくるね。結局は、あの人の息子ってことか」

 そのままベッドに倒れ込む僕。
 何も考えたくなかった。


◆◇◆◇


「賢悟。どうやら女の子と交際しているようだね」

 次の日、僕は料亭にいた。
 日本料理が楽しめる一流の店だけど、目の前にいる男とは何を食べても無味無臭に感じる。
 僕は慎重に「よく知っていますね」と答えた。

「私は君のことなら何でも知っている」

 自分で注いだ日本酒を口に運んで飲む男。
 僕は男の次の言葉を待った。

「家にお呼ばれしたのも知っている。流石に中で何があったのかは分からない」
「それは嬉しいですね。かなりの醜態を晒しましたから」
「外に出さなければ問題はない。その辺は弁えているね」

 僕は刺身を食べた――高級であることしか分からない――飲み込んでから「それで、何が言いたいのですか?」と本題を促した。

「うん。別に自由に付き合ってもらっても構わない。だけど――」

 男は至極当たり前に、僕に命令した。

「時期が来たら別れなさい」

 一瞬、何を言われているのか分からず、次に理解したときは、顔が強張っていた。
 徐々に怒りから諦念に変わる――最後は悲しみになった。

「……はい、分かりました」

 僕はこの人には逆らえない。
 詩織が好きな気持ちは嘘じゃないし、好きでい続けたい。
 それでも、この人が決めたことに逆らうのはできなかった。

「随分と弁えているようだね。少しくらいは反抗されると思っていた」
「僕が、あなたに反抗なんてしたことないでしょう」
「ああ、そうだった。とても安心したよ」

 男は突きつけるように、あるいは刺すように、言葉を投げかける。

「君は私の言うことを聞けばいい。逆らわず従えばいい。ずっとお金に不自由せず、ずっと安心して幸せに暮らせる。いつか、君に似合う女性も見つけてあげよう。それまでの『遊び』は許可するよ」

 僕は何も言えない。

「君はただ生きればいい。私の事業を引き継いで、それを次に世代につなげるのが役目だ。そのために大学に進んで、五体満足に生きて、私の助けになれるように自己を研鑽しなさい」

 僕は何も言えない。

「君にはやりたいことやしたいこと、そして叶えたい夢なんてないんだ。だから私の言うことだけを聞いていれば幸せなんだよ」

 僕は――何も言えない。
 情けないことだけど、何も言えなかった。

「そうそう。君がこの前描いてくれた計画のおかげで、事業が一つ、上手くいったよ」

 ついでのように言う男に「そうですか」としか僕は答えられなかった。
 人を陥れる計画なんて、聞きたくもなかった。

「君には才能がある。悪辣な計画を描く才能が。それを大事に大切にしなさい」
「……はい」
「よろしい。それでは、たくさん食べなさい」


◆◇◆◇


 翌日、月曜日。
 暗い気持ちで登校した僕。校門をくぐったところで「内藤先輩!」と話しかけられた。
 振り返ると満面の笑みを浮かべた詩織がいた。

「おはようございます、先輩!」

 眩いくらい、明るい笑顔。
 将来、自衛官になりたいと願う、希望溢れた女子高生。
 本当に僕にはもったいないくらい、素敵な人で――

「ああ、おはよう。詩織」

 精一杯の笑顔で応じた僕。
 詩織は僕の横に並んで「貸した本、どうでしたか?」と楽しそうに言う。

「面白かったよ。まだ途中だけどさ。映画版と少しずつ違っていて、飽きないね」
「そうですよね。原作の文章、私には分かりにくいんですけど、先輩なら楽しめると思いました!」

 詩織は知らない。
 僕がいつか、あの人のタイミングで別れるつもりなのを。
 ずっとそばにいてくれる詩織に申し訳ない気持ちで一杯だ。

「ねえ、詩織」

 だからこそ、今だけはいい思い出を作ってあげよう。

「どうしたんですか、先輩?」

 不思議そうな顔で僕の顔を覗き込む詩織。
 虹彩が輝いていて、希望に満ちている目。
 そこに僕が映っていると思うと幸せを感じる。

「――好きだよ」

 改めて自分の気持ちを告げると、詩織は驚いた顔をして。
 それから嬉しそうに笑った。

「ええ。私も大好きですよ、内藤先輩」
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