第1話 左遷

文字数 2,707文字

 海を見渡す小高い丘の上に立てられた、波州(はしゅう)海軍鎮守府(ちんじゅふ)
 眼下には軍港としては最適な深い湾が広がり、木造の大きな船が何隻も帆を閉じて係留されている。ごつごつとした岩場には夏の日差しに透ける紺碧(こんぺき)の波が勢いよく打ち寄せて、ガラスの様に砕け散っていく。
 平べったい書類鞄を手に提げて、志吹(しぶき)は丘の上からうっとりとその光景を見ていた。
 だが辞令の事を思うと彼の気持ちはどんよりと重くなる。先ほど時の鐘がなった、そろそろ行かねば出頭の時間に遅れてしまう。志吹はチラリと丘の上の白亜の建物を見ると、ため息とともに一歩を踏み出した。
 見かねた風が背中を押すように、波の音を連れて吹き付けた。


 鎮守府の入口には直立不動で2名の歩哨がたたずんでいる。志吹は通行許可証を鞄から取り出して提示した。下士官であろう、歩哨は彼に丁寧な敬礼して戸を開けた。
 ここには以前一度来たことがある。志吹は迷うこと無く、磨き抜かれた白い廊下をいくつか曲がって、階段を上がった突き当たりにある提督の部屋に向かった。辞令交付の時期である、廊下には特別に呼び出しを受けた士官達が三々五々に立ち話をしていた。
 彼らは入ってきた志吹に気がつくと、目を丸くしてじろじろと無遠慮に眺め回した。

――せっかく旗艦(きかん)波涛(はとう)』に配属されていたのに、わずか3年で転属とはおいたわしい事で。
――あの旗艦で勤め上げれば、そのうち小さいながらもどこかの艦長になれたかもしれないのに。まあ、成績より容姿で有名な奴だったから、無理もないか。

 ひそひそ声で話しているのだろうが、耳の良い志吹には残念ながらすべて聞こえている。耳の中に滑り込む声には、実力以上と噂される配属先から左遷された青年に対する、負の快哉がいやというほど込められていた。聴力が良いのは船乗りとしては望むべくもない才能だが、今日に限っては不快を呼び起こす無駄な能力でしか無い。
 唇を引き締めてまっすぐに歩いて行く志吹を避けるように、前方にたたずむ士官達は左右に道を空ける。そして彼とすれ違った後には、洗いざらした白い軍装に身を包んだ志吹の細い背中に向けて、また好奇のささやきが浴びせられるのだった。

 提督の居室の前で野次馬は姿を消し、やっと彼は一息ついた。
 その勢いのまま、戸を叩き自分の名前を叫ぶ。すぐに潮焼けしただみ声が入室を許可した。

「やあ、待っていたぞ」

 部屋に入ると窓辺に立っていた提督の路確(ろかく)が振り向き、入ってきた志吹に微笑んだ。禿頭に白い口ひげを蓄えた路確は、赤銅色の肌と恰幅の良い肉体を持ついかにもたたき上げの海の男である。しかし、その丸い鼻と若干眠そうな垂れ目のおかげで彼は部下達から極秘裏に『海だぬき』と呼ばれていた。
 長く戦役のなかった波州では、海賊退治が唯一と言っても良い軍の主要任務であった。そして当然ながらその任に当たったのが海軍である。実戦を経験している軍は強い。波州で軍と言えば海軍をさすほどその活躍はめざましく、近隣の二大国、叡州(えいしゅう)煉州(れんしゅう)に比べても海軍だけはその装備も、そして技術においても先んじていた。
 海岸線の長い波州には島嶼(とうしょ)部が多いが、ここには昔から海賊が出没する。これまでは局地的な抗争であったが、船の発達にしたがって海賊は小島周辺の海域だけでは飽き足らず、本土に住む人々の生活を脅かすようになっていた。
 この事態に乗り出したのが海軍で、路確(ろかく)は小島を襲う海賊を追い払うだけでは無く、海上遙か遠くの大きな島にある海賊の本拠地を徹底的に殲滅して、制海権を確保したことで現在の提督の地位を得ていた。
 しかしそれも20年余り前の話。第一線を退いて好々爺(こうこうや)になりつつある彼は、今では主に人事を担当している。人事を彼が動かすようになってから、主要な人事はもちろん、気になる人事の場合にも地位の上下にかかわらず呼び出して直接令状を渡す事が多くなっていた。

「志吹少尉候補生、参上しました」

 背筋を伸ばしかかとをつける。同時に掌をやや内側にして手刀の形にした手を額に当てる。船上の作業で汚れることの多い掌を相手に向けない、それが波州海軍流の敬礼だった。
 路確もその丸っこい指で軽く答礼して、目の前の青年を見る。
 漁業を主な生業とする海に面した国である波州は、けっして裕福な国ではない。軍にも潤沢な資金がまわされているわけでは無く、おそろいの真新しい軍着が用意されているのは、上級士官のみ。海軍兵学校を卒業して数年の士官(こざかな)達には、先輩のお古である擦り切れた半袖の白い上着と継ぎの当たった青いズボンが支給されているだけである。
 志吹も例外では無く、紐で腰に固定するお下がりのズボンは、痩せ型の志吹には大きすぎて余った紐が2周して背中で結ばれていた。

「転属は不満かね」
「いえ、不満は全くありませんっ」
「嘘をつけ。君の顔に書いてあるよ、泥船に乗せるのかって」

 路確はニヤリと笑って、硬直している志吹の細い肩に手を載せた。

「この配属は君を評価しての事なんだ」

 志吹の目がチラリと疑わしそうに光る。
 彼には心当たりがあった。腰に手を回してきた前任地の艦長の肩を背負い投げで外してしまい、3週間営倉(えいそう)に入れられたのは記憶に新しい。元々彼が旗艦に配属されたのはその艦長の肝入りだったと言うから、こういう結果は当然予想していた。
 しかし、まさか配属先があの船だとは――。

「評価も低いし、ぱっとした戦績もないが、儂はあの泥船の艦長を千年に一人の逸材だと思っているのだ」
「は」

 かろうじて返事をしたものの、語尾は疑うように高くなった。意外な提督の評価に、切れ長に近い志吹の目がまん丸くなっている。
 志吹を崇拝する者からは流星眉と呼ばれるくっきりした細い眉は、いつもより大きな弧を描き、明らかに額に突き出している。ともすれば開きそうになる紅色の薄い唇を、気がつけば閉めるため、まるで鯉が水面で口をパクパク開いているかのようだ。

 正直者め、すべて顔に出ているわ。路確はかすかに口角を上げる。

「しかし、あの逸材は天恵を台無しにする欠点がありすぎでな。さすがの儂もさじを投げておるんじゃ」

 提督はやおら机の上に置いてある、墨で書かれた似顔絵をぐしゃりと掴む。
 
「まず、粗野。そして、だらしない。食い意地が張っている上に、どこでも迷う方向音痴。だが、極めつけは……」

 志吹の前に掲げられたのは、ワカメのようなボサボサの茶髪を頬のこけた長い顔にのせた男であった。人相を一気に悪くするつり目の三白眼、顎にはそり残した無精髭が散らばっている。

「希代のおっちょこちょいだと言うことだ」

 目の前の似顔絵がにんまりと笑った気がして、志吹は軽い目眩を感じた。

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