第8話 鬼神

文字数 3,271文字

 逆炎海域に戻ってきたのは夕8時20分だった。
 空にはびっしりと星が張り付いている。

「まるで大福の粉を散らしたようだな」

 操舵を持つ志吹の傍らで、天を仰いで艦長がつぶやく。
 一昨日の窒息未遂事件もあるし、初めて聞く比喩に笑って良いのかどうかも解らず志吹は艦長のつぶやきを聞かない振りをしてやりすごした。
 あたりが闇の帳で包まれる中、貴星はかろうじて見える地平線と星を見て四分儀で位置測定をしている。現地点を地図上で正確に把握する必要がある今の彼は操舵をする余裕が無いため、志吹が代わりに操舵を任されていた。旗艦でしごかれてきた志吹は突出して得意なものはないが、どの業務もそつなくこなすことができる。
 甲板員からの報告ではまだ敵艦は追いついていないようだった。
 この間に艦内では交代で握り飯と水をかきこんでいる。

「伝鳥を出せ、逆炎海域で交戦するとな。今度は猿港の鎮守府用の鳩を使え」

 先ほどは近い松鶴湾の鎮守府の方に伝鳥を出したが、今度は場所を変えるらしい。
 伝鳥にもいろいろあり、サボテン鳥や、伝書鳩、鷹などの種類がある。サボテン鳥は鋭敏な嗅覚があり、匂いを利用して場所を覚えさせて行き来させる。小さな場所も正確に行き来できるが、いかんせん速度が遅い。鳩はかなりの精度で伝聞を伝えられるが、帰巣だけの一方向のみの伝達になるため使える場所が限られる上、敵の鷹に捕まって情報を盗まれることもある。鷹は強いが、鷹を伝書用に使いこなすにはかなりの技術を要する上に、相手方にも鷹を扱える人間が必要なので一般的では無かった。

「海賊達、砲弾に驚いてあきらめたのではないでしょうか」
「あきらめて欲しいが、4艦も連れてくる念の入れようだ。今回は本気でこの艦を拿捕(だほ)するつもりだぞ」
「拿捕ですか?」
「ああ。俺たちは奴ら垂涎のお宝を持ってるじゃないか。この情報が漏れていたのかも知れない……」

 艦長は志吹の方を振り向いた。

「この3年、旗艦に乗っていて海賊どもの動向に何か感じることは無かったか」
「はい、ここ1年で海賊の動きが活発になり、同時に装備が充実してきたように思います。私が初めて乗船したときには奴らは小舟に毛の生えたような小さな船しか持っていませんでした。今回のような本格的な櫂式軍艦を4隻も持っているなんて」
「どこからか、金が出ているということだ」
「叡州、煉州、それとも波州の州権の転覆を狙う国内の誰か……」
「さあな、俺は中枢にいないので解らないが、俺たちに生きて帰られては困る連中がいるようだ」
 
 艦長のつぶやきは甲板の上を走ってくる水兵の足音にかき消された。

「艦長、右舷前方に敵艦です。3隻」
「逆炎海域まで追ってくるとは、いい度胸だぜ」

 こちらは灯火をつけていないため、現在相手からは見えていないはずだ。しかし、欠半月(かけはんげつ)が夜9時には光ってくる。これが南中する深夜2時には船体を否応なしに照らし出すだろう。

「消灯の意味は無いな」

 艦長は光り始めた月を恨めしそうに見あげた。

「全力でこの船を追ってきたんだ、櫂式は人力だけにそろそろ疲れが出る頃だな、馬鹿でかい帆はあるが、やはり速度は落ちるだろう、今度は引きずり回してやる」

 幸い、先ほどまでのふてくされたような走りは姿を消し、妙香は追い風にのって滑るように海面を移動している。

「これからが勝負だ。志吹、全艦点灯でこちらの位置を見せつけてやれ」
「はっ」
 志吹は甲板員に号令をかけた。
 船に灯りがともり、周囲を照らし出す。黒一色であった周りの景色にかすかに岩影が浮かび上がった。海中から突き出る細長い岩、そして点在する岩礁。すでに辺りは一触即発の海域であった。
 灯りの下、航海長は海図と時計、方位磁針と首っ引きである。

面舵(おもかじ)10度」
「面舵10度」

 貴星の言葉に、志吹が復唱しながら操舵する。船は柔らかく右方向に切れた。
 目視でも見ながら、貴星は地図上で位置を確認する。士官学校で鍛えられている彼にとって海図など見なくてもすでに情報は頭の中に入っていたが、念には念を入れる。
 しばらくして貴星が叫ぶ。

「舵を戻せ。取舵(とりかじ)に当て――」

 志吹は舵を戻してから、左側に7度ほど舵を切る。単に舵を戻すだけであれば右方向にそのまま行ってしまうので、逆方向に少し舵を切ってやるのだ。
 風が吹き付ける中、貴星の額からは滝のように汗が流れている。

「後続の敵が二手に分かれました。こちらに付いてくるのが2艦、そして右まわりでこちらの頭を抑えに来ているのが1艦」

 前方の甲板に立つ水兵が大声で伝える。

「このままでは挟み撃ちされます。敵は風上、有利です」志吹が艦長を見る。
「はっ、俺の頭を抑えようなんざ、十年早いぜ」

 自艦の不利を感じていないのか、乱鳳は不気味に笑った。

「まずは分かれた1艦を狙う。今から岩礁の合間を抜けるぞ。貴星、お前の腕を見せてもらう」
「はっ」

 志吹と交代して貴星が操舵輪を握る。
 風を受け速度を上げた妙香は後続の2艦を引き離す。2艦は必死で付いてくるが、さすがに人力での航行が続いており、限界に近いのか速度はそれほど上がっていない。

「挑発してやれ」

 頭を抑えに来た相手の目の前で取り舵一杯、見せつけるようにかなりの急角度で左に曲がると馬鹿にするように妙香はジグザクに走行した。
 海賊船は速度を上げてまっすぐに近づいてくる。ジグザクで走行する妙香は速度が落ちる。妙香の跡について行けば座礁は無い、今を逃すかとばかり敵船は速度を速めた。

「ジグザグ止め、前進」

 妙香は速度を上げて、高い岩の横をすり抜ける。
 敵船が航跡を追う。妙香の甲板に向かって敵船からは雨あられと矢が射られる。

「ひるむな、奴らは大砲がお目当てだ。この船を燃やせないから火矢は使わないし、今の距離なら矢が届いてもたいした威力は無い」

 だが、志吹の足元に徐々に矢が刺さり始めた。
 後甲板から見える敵艦の前部が視界に大きくせり出してきた。距離は60尋(90メートル)をきっている。

「貴星、取り舵一杯だ。全員、打撃に備えろっ」

 追いつかれそうになったその時、乱鳳が叫んだ。

「体勢準備完了」

 前甲板からの返答と同時に、最高速の船体が思い切り左に旋回する。一回転した船と共に大きな波が盛り上がって海賊船の左舷にぶち当たった。
 もともと海賊船は高く掲げられた大きな帆と喫水線の浅さで安定性は余り良くない。体勢を崩した海賊船は波を受けて右側に大きく動かされる。
 次の瞬間、大きな音とともに海賊船は岩礁に乗り上げた。

「あの細い岩を通り過ぎたすぐのところ、右手側に大きな岩礁がある。あれに捕まったらもう使い物にならない」

 乱鳳が満足げにうなずく。

「後続2艦、近づいてきます」

 しかし、仲間の船の座礁を見て気がついたのか、岩礁密集域には入らずに遠巻きに妙香を見張っている。
 貴星がいくら優秀といえども、夜間この海域に長居すれば座礁は免れない。敵もそう読んで、妙香が海域から出てくるのを待ち構えているのだろう。

「志吹、撃華をもう一度呼べ。貴星、逆炎海域を抜けて次は南の天門に向かえ」

 風が強くなってきた。海賊船も帆を張っているため追い風で速度が出ている。
 海賊船の帆は船の縦軸に対して斜めに立っていた。ほぼ縦帆に近いが追い風も受けられるように必要に応じて向きの微調整が出来るようだ。夜が更けると風はますます強くなるだろう。そしてそれは海賊船の中の櫂の漕ぎ手達に休みを与えることを意味していた。
 妙香が簡単に逃げ去るのは難しい。
 月は東の空高く上がり、妙香とそれに続く2隻の海賊船を照らしている。

「艦長、もう砲弾が1発しかありません」

 撃華の報告に、艦長は腕組みをしてうなずいた。

「俺たちに戻ってもらっては困る奴らがいるのかも知れないが、俺はそう思われれば思われるほど、水にかじりついても帰りたくなる性分(たち)でね」

 風になぶられる乱れたワカメ頭。月に照らされて金色に輝く三白眼は、楽しげにさえ見える。
 この人を見ていると、なぜか負ける気がしない。
 まるで鬼神のようだ、と志吹は思った。
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