第26話 海藻の神様

文字数 2,168文字

 
 火矢が来ることは予想通りである。横嶋の帆はすでにたたまれていたが、相手は横嶋に武器らしい武器が無いのを知っているため、これ見よがしに大きな三角帆をはためかしていた。
 近づいてきた横嶋に向かって、敵船から雨のように火矢が繰り出される。しかし、凪と言えども風上の横嶋にはなかなか届かない。貴星ののらりくらりとかわす操船も冴えて、水面は瞬く間に相手の矢で覆い尽くされていく。かろうじて届いた火矢は横嶋の兵員たちによって燃え広がる前に海水で消火された。
 だが、妙な事が起っていた。
 水面近くで火矢が激しく燃え上がるのである。
 相手を誘うような距離に苛立つのか、海賊船から次々に放たれた矢は灰を散らしながら海面を覆うがごとく広がった。

「志吹少尉、火種が集まりました」

 少尉はうなずいて、天空に輝く太陽の位置を見る。
 水平線から太陽が頭を出してから、結構時間が立つ。波の輝きが強くなってきた。
 そして矢が尽きてきたのか、相手から射られる火矢が少なくなってきた。
 水面には――。

「時は来たようだな」

 彼はおもむろに水兵に借りていた上着を脱いだ。
 うっ。
 傍らの貴星が妙な声を上げる。しかし、横嶋の水兵達も声には出さないだけで、心の中で同じようなうめき声を上げていた。戦闘中にもかかわらず、彼らの視線が陽に照らされて滑らかに輝く上半身に吸い付く。

「なんで戦闘中に魔性全開してるんですかっ」

 貴星がうめく。鼻の下からは薄く鼻血が……。しかし鼻の下を赤くしているのは貴星だけではなかった。

「貴星、馬鹿なことを言ってないで、お前も早く脱ぐんだ」

 投石機にはおもりを付けられた衣服の束が次々に載せられている。

「火を付けろ」

 投擲の直前に火矢から得た火を衣服に移す。
 カラカラに乾いた衣服は炎の塊となり、相手の船に飛んでいった。

「次っ」

 何度にも分けて、火の付いた木片や、帆布が投擲される。
 それは、空中でばらけると、相手の船の横に落ちて、海面で激しく燃えあがった。船縁の索具に燃え移った炎を海賊達は必死で消火に当たる。

「いい具合に泡立ってきてますね」

 貴星が海藻の間からボコリ、ボコリ、と湧き上がる泡を見て目を細めた。
 普通の海藻も昼に小さい泡を出すが、早朝からここまで激しく泡を出すのはこの海域の特別なオオウキモだけである。
 なにせ海藻の少なくなったここでもこれだけ沸くのである。海賊船がうっそうと茂った藻に捕まっているあの場所では海を沸騰させたようにもっと激しく吹き上げているに違いない。

「この泡は、太陽に照らされると藻が吐き出す息だ。そして、これは物を燃やすのを助ける働きがあるようで、普通の火を激しく燃え上がらせる」

 志吹少尉の頭には、古地図を見ながら肩をすくめる乱鳳艦長の姿が浮かぶ。

『いいか、狭い海域だが、ここを昼通るときには船の上で絶対に火を使っちゃいけない。海藻の神様が吐き出す息が船縁から船の中にも這い上がってきて火事になる、って言われているからな。夜は神様が寝てるからいいんだけど、夜にこの藻がはびこる海域を櫂で渡る気にはならないよなあ』

 海賊達は船上に燃え移った火の消火に駆け回っている。

「もう少し炎が大きく立てば、奴らの帆に引火するのに――」

 歯がみする志吹は、ふと吾美が何か指図をして、投石機に袋を載せているのを見た。

「それは?」
「ん、私も一か八かやってみようと思ってね」

 吾美の号令と共に、引き裂かれた大きな紙袋が中身をまき散らしながら相手の船に飛ぶ。

「あれ、何ですか?」

 志吹が眉をひそめる。この船には火薬になりそうな物は無かったはず――。

「小麦粉よ」
「お菓子でも作るおつもりで――」

 言葉が途切れる。
 息をのむ志吹の目の前で、敵船の上に大きな火柱が上がるのが見えた。
 その炎はすぐに小さくなったが、海藻の神が吐く息の影響もあるのか、帆の端に燃え移った火は激しく揺れて瞬く間に帆全体に広がった。

「吾美艦長、これで時間が稼げます」志吹をはじめ水兵達が快哉を上げる。
「あ、あれは、なぜ?」貴星がおずおずとたずねる。

 真剣な表情だが、鼻の下に乾いた鼻血がこびりついているのが間抜けだ。

「粉を一気に火の近くに落とすと、舞い上がった白い粉と共にすっごく火柱が上がるのよ」
「知りませんでした。吾美艦長の知識は凄いです」
「ま、まあね」吾美は微妙な笑顔で答えた。

 海軍兵学校時代。友人達が吾美の家に集まったことがあった。
 たまたま、あの変人もその中に混じっていた。
「乱鳳は、卵と牛乳と小麦粉と砂糖を混ぜて焼いた、叡州の菓子が好きなんだって」
 事前に仕入れた情報で、あの大食いにいいところを見せつけようと思った……のだが。
 やりなれない、菓子作り。そうは言っても数度は練習したのに。
 肝心の当日、かまどの前で、吾美は手を滑らせて小麦粉の袋を落としてしまった。
 視界を覆うほど舞い上がる白い粉、吹き上がるかまどの火。
 消しに来た乱鳳の頭に引火して。

「大騒ぎだったけど、ま、役に立ったと言うことで」

 腕組みしながら吾美は帆が焼け落ちる海賊船を見る。
 しかし、敵も見事な連携で消火をしていく。
 流石に使い切ったのか、相手からの矢は飛んでこない。
 海賊船は藻に絡まって揺れているだけ。

 吾美は水平線の上を見る。
 あの遅刻男はまだ姿を現わしていなかった。
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