第12話 神様のご褒美
文字数 2,646文字
貴星は混乱していた。
うす闇の中、真横で志吹少尉の荒い息遣いが聞こえる。ぎゅうぎゅう詰めで身体がほぼ密着した状態で、時折細いが筋肉質の腕や足が貴星に押しつけられる。
なんだか、汗の香りさえ甘い。
急速に理性が妄想にむしばまれていく。いったいどうしたらよいのか。
命がけの潜入の最中に、なんという不謹慎。
自分を叱咤するが、この状況では妄想におとなしくしてくれと言っても無理な相談だ。
「貴星……」
不意に志吹の左手が、ぐいっと貴星の首を引き寄せて耳元でささやく。
心臓が止りそうな衝撃に、貴星の息が止る。
一瞬現実がかき消え、理知的な彼の思考回路が鮮やかな桃色の火花が散る妄想の世界に覆い尽くされる。
「そろそろいいか」
「僕、は、初めてなんですが……」
「は? 何言ってんだ。僕だって初めてだよ、産卵に来たウミガメのふりなんて」
二人の上には、駆迅が買わされてきた大きな甲羅が被さっている。
なぜか手が器用な甲板長の豪宴が亀の甲羅に帆布と綿で作った頭と尻尾を付け、二人には片方ずつの亀の手と、足を作ってくれた。乱鳳が指示したのは、甲羅をかぶって、ウミガメに混ざって上陸する作戦だった。
昼食に出てきたオオウミガメは甲羅が大きいだけが取り柄の不味いウミガメである。さらにその甲羅も黒ずんいて鑑賞には向かないため、漁師は好んで捕まえようとしない。そのため我が物顔で大繁殖したオオウミガメたちは産卵期の満月の日に大挙してこの周辺の砂地のある島に訪れるのだ。そして砂浜はオオウミガメで埋め尽くされる。
酒島の砂地は、木々がうっそうと茂る森に続いていた。
「いいか、ウミガメに紛れながらできるだけ木陰に近い位置で、卵を産むふりをして辺りをうかがう。見張りがいなければ森の中に駆け込むぞ」
「はっ」
「大丈夫か、外の空気でも吸え」
甲羅の隙間から新鮮な空気を吸う。
少しひんやりした潮の香りが鼻を満たし、何度か息をするうちに貴星はやっと現実を取り戻した。
昼の妙香での作戦会議。艦長が引っ張り出してきたのは、海軍謹製の地図ではなく、ボロボロの写本であった。
「酒島は南西に砂浜が広がるが、そのほかの場所はほぼ岩場だ。特に南は絶壁になってそこからの侵入は難しい。ということは監視も緩いという事だ。ここで小舟を係留して、あとは砂浜まで泳いで潜入しろ」
ちらりと艦長は貴星を見る。貴星は黙ってうなずいた。
運動音痴の貴星だが、さすがに泳法はたたき込まれている。
「でも、なぜ砂浜から?」志吹は首をかしげる。
「砂浜から続く森がある。そこにまずは潜め。多分、森から出た正面に奴らの住居がある」
まるで見てきたような予想に、皆あっけにとられて艦長を見る。
「この図によると、山の中腹にけっこうな広さの平らな部分があるんだ。俺が奴らならそこに住居を作り、そこで寝起きをするだろう。砂浜と同じ高さだと、高波の時に危ないからな。捕虜の人数は多いから、多分大多数は横嶋に、そして裏切り者と吾美艦長を住居の方に連れて行くだろう」
乱鳳の手にした地図には酒島の詳細な地形図が載っている。これは代々漁師の家系であった艦長の家に伝わる波州沖に点在する小島の地図らしい。
「何百年も前の物だし、これがどこまで正しいかは不明だ。俺の家系は皆めんどうくさがり屋で確かめてはいないが、まあ南の果てからやってきたご先祖様を信じよう」
艦長のご先祖様が艦長よりも正確で几帳面なことを心から祈る。
志吹は願いながら、亀の甲羅を被ったまま砂地に伏せる。
満月の灯りで煌々と照らし出された砂浜。産卵を終えて帰る亀と、砂地に向かう亀がお互いの身体に乗り上げたり、押し合ったりして混雑している。砂浜には、ごそごそと足元を行き交うずうたいの大きな亀をうるさそうに蹴りながら、弓を担いだ海賊どもが数人歩哨に立っていた。時折あくびをしながら、亀が生んだ卵を掘り出して袋の中に入れる者もいる。
くっきりと影のできる、昼間かと思うくらい明るい満月。彼らは油断をしているようだった。チラチラと目をやるのは、北のほうに連なる岩海岸のほうだけである。
何か気になる物があったのか、彼らがふと岩陰に視線を走らせる。
志吹と貴星が擬態した亀は、この時とばかりに林の中に這い込んだ。
うっそうと植物が茂った林の中には、ほとんど月光が届かない。
時折、葉陰の間から細い光が漏れる。二人はかすかな光の帯を頼りに木立の中を進んで行った。満月に心が騒ぐのか、辺りには猿や鳥の声がうるさいくらいに響いている。
木と木の間に空間を見つけると二人は亀の甲羅をそっと木に立てかけた。
志吹が貴星に視線を送った、貴星もうなずく。
志吹は音がしないようにそっと砂まみれの上着を脱ぐと、小さくまとめて袋に入れて隠す。
貴星は同室だけあって志吹の上半身など見慣れている。しかし改めて間近で見るその素肌は、宝玉のごとく艶やかだ。冴え冴えとした月の光が作る伸びやかな背筋の陰影まで美しい。
慌てて目をそらした貴星は思わず生唾を飲み込む。
志吹はおもむろに首に巻いていた包みから、油紙に包まれた身丈が膝下までの裾が広い女物の薄手の服を取り出す。首からスポリと被る半袖の服で、裾は身体の動きにあわせて柔らかく揺れる仕様だ。余った腰回りは細い帯ひもで引き締めた。そして、わずかな躊躇の後で、彼は長い髪のカツラを被ると、どこから取り出したのか唇に紅をさした。
靴をぬぎ、白い素足を砂地に付けると、彼はおかしくないか、とばかりに首をかしげ、ちらりと貴星の方を向いた。
木立が風に揺れ、葉の間から漏れた月光が辺りにキラキラとまき散らされる。
闇の中に浮き上がったその姿は、この世のものとは思えないくらいの神秘的な美しさだった。
若干、照れたような笑い。
月光の中、あのえくぼが浮き上がる。
「貴星、震えてるのか? 大丈夫だよ、うまくいく」
いきなり志吹の両手が貴星を抱き寄せて、背中をぽんぽんと叩く。
「落ち着け」
無理ですっ。
貴星は真っ白な頭の中で、何かが弾けるような音を聞いた。
それは理性の鎖が切れた音だったのかも知れない。
水兵達に嫉妬で呪い殺されたって、本望だ。
生きるか死ぬかの任務の前に、神様ご褒美をありがとう!
そして亀様もありがとう!
ついでに駆迅もありがとう!
「こんな時になんですが、僕幸せです」貴星は心の中で絶叫した。
「いくぞ、貴星」
天女の微笑みを浮かべた少尉の声は、貴星の妄想を止める鋭い緊張感に満ちていた。
うす闇の中、真横で志吹少尉の荒い息遣いが聞こえる。ぎゅうぎゅう詰めで身体がほぼ密着した状態で、時折細いが筋肉質の腕や足が貴星に押しつけられる。
なんだか、汗の香りさえ甘い。
急速に理性が妄想にむしばまれていく。いったいどうしたらよいのか。
命がけの潜入の最中に、なんという不謹慎。
自分を叱咤するが、この状況では妄想におとなしくしてくれと言っても無理な相談だ。
「貴星……」
不意に志吹の左手が、ぐいっと貴星の首を引き寄せて耳元でささやく。
心臓が止りそうな衝撃に、貴星の息が止る。
一瞬現実がかき消え、理知的な彼の思考回路が鮮やかな桃色の火花が散る妄想の世界に覆い尽くされる。
「そろそろいいか」
「僕、は、初めてなんですが……」
「は? 何言ってんだ。僕だって初めてだよ、産卵に来たウミガメのふりなんて」
二人の上には、駆迅が買わされてきた大きな甲羅が被さっている。
なぜか手が器用な甲板長の豪宴が亀の甲羅に帆布と綿で作った頭と尻尾を付け、二人には片方ずつの亀の手と、足を作ってくれた。乱鳳が指示したのは、甲羅をかぶって、ウミガメに混ざって上陸する作戦だった。
昼食に出てきたオオウミガメは甲羅が大きいだけが取り柄の不味いウミガメである。さらにその甲羅も黒ずんいて鑑賞には向かないため、漁師は好んで捕まえようとしない。そのため我が物顔で大繁殖したオオウミガメたちは産卵期の満月の日に大挙してこの周辺の砂地のある島に訪れるのだ。そして砂浜はオオウミガメで埋め尽くされる。
酒島の砂地は、木々がうっそうと茂る森に続いていた。
「いいか、ウミガメに紛れながらできるだけ木陰に近い位置で、卵を産むふりをして辺りをうかがう。見張りがいなければ森の中に駆け込むぞ」
「はっ」
「大丈夫か、外の空気でも吸え」
甲羅の隙間から新鮮な空気を吸う。
少しひんやりした潮の香りが鼻を満たし、何度か息をするうちに貴星はやっと現実を取り戻した。
昼の妙香での作戦会議。艦長が引っ張り出してきたのは、海軍謹製の地図ではなく、ボロボロの写本であった。
「酒島は南西に砂浜が広がるが、そのほかの場所はほぼ岩場だ。特に南は絶壁になってそこからの侵入は難しい。ということは監視も緩いという事だ。ここで小舟を係留して、あとは砂浜まで泳いで潜入しろ」
ちらりと艦長は貴星を見る。貴星は黙ってうなずいた。
運動音痴の貴星だが、さすがに泳法はたたき込まれている。
「でも、なぜ砂浜から?」志吹は首をかしげる。
「砂浜から続く森がある。そこにまずは潜め。多分、森から出た正面に奴らの住居がある」
まるで見てきたような予想に、皆あっけにとられて艦長を見る。
「この図によると、山の中腹にけっこうな広さの平らな部分があるんだ。俺が奴らならそこに住居を作り、そこで寝起きをするだろう。砂浜と同じ高さだと、高波の時に危ないからな。捕虜の人数は多いから、多分大多数は横嶋に、そして裏切り者と吾美艦長を住居の方に連れて行くだろう」
乱鳳の手にした地図には酒島の詳細な地形図が載っている。これは代々漁師の家系であった艦長の家に伝わる波州沖に点在する小島の地図らしい。
「何百年も前の物だし、これがどこまで正しいかは不明だ。俺の家系は皆めんどうくさがり屋で確かめてはいないが、まあ南の果てからやってきたご先祖様を信じよう」
艦長のご先祖様が艦長よりも正確で几帳面なことを心から祈る。
志吹は願いながら、亀の甲羅を被ったまま砂地に伏せる。
満月の灯りで煌々と照らし出された砂浜。産卵を終えて帰る亀と、砂地に向かう亀がお互いの身体に乗り上げたり、押し合ったりして混雑している。砂浜には、ごそごそと足元を行き交うずうたいの大きな亀をうるさそうに蹴りながら、弓を担いだ海賊どもが数人歩哨に立っていた。時折あくびをしながら、亀が生んだ卵を掘り出して袋の中に入れる者もいる。
くっきりと影のできる、昼間かと思うくらい明るい満月。彼らは油断をしているようだった。チラチラと目をやるのは、北のほうに連なる岩海岸のほうだけである。
何か気になる物があったのか、彼らがふと岩陰に視線を走らせる。
志吹と貴星が擬態した亀は、この時とばかりに林の中に這い込んだ。
うっそうと植物が茂った林の中には、ほとんど月光が届かない。
時折、葉陰の間から細い光が漏れる。二人はかすかな光の帯を頼りに木立の中を進んで行った。満月に心が騒ぐのか、辺りには猿や鳥の声がうるさいくらいに響いている。
木と木の間に空間を見つけると二人は亀の甲羅をそっと木に立てかけた。
志吹が貴星に視線を送った、貴星もうなずく。
志吹は音がしないようにそっと砂まみれの上着を脱ぐと、小さくまとめて袋に入れて隠す。
貴星は同室だけあって志吹の上半身など見慣れている。しかし改めて間近で見るその素肌は、宝玉のごとく艶やかだ。冴え冴えとした月の光が作る伸びやかな背筋の陰影まで美しい。
慌てて目をそらした貴星は思わず生唾を飲み込む。
志吹はおもむろに首に巻いていた包みから、油紙に包まれた身丈が膝下までの裾が広い女物の薄手の服を取り出す。首からスポリと被る半袖の服で、裾は身体の動きにあわせて柔らかく揺れる仕様だ。余った腰回りは細い帯ひもで引き締めた。そして、わずかな躊躇の後で、彼は長い髪のカツラを被ると、どこから取り出したのか唇に紅をさした。
靴をぬぎ、白い素足を砂地に付けると、彼はおかしくないか、とばかりに首をかしげ、ちらりと貴星の方を向いた。
木立が風に揺れ、葉の間から漏れた月光が辺りにキラキラとまき散らされる。
闇の中に浮き上がったその姿は、この世のものとは思えないくらいの神秘的な美しさだった。
若干、照れたような笑い。
月光の中、あのえくぼが浮き上がる。
「貴星、震えてるのか? 大丈夫だよ、うまくいく」
いきなり志吹の両手が貴星を抱き寄せて、背中をぽんぽんと叩く。
「落ち着け」
無理ですっ。
貴星は真っ白な頭の中で、何かが弾けるような音を聞いた。
それは理性の鎖が切れた音だったのかも知れない。
水兵達に嫉妬で呪い殺されたって、本望だ。
生きるか死ぬかの任務の前に、神様ご褒美をありがとう!
そして亀様もありがとう!
ついでに駆迅もありがとう!
「こんな時になんですが、僕幸せです」貴星は心の中で絶叫した。
「いくぞ、貴星」
天女の微笑みを浮かべた少尉の声は、貴星の妄想を止める鋭い緊張感に満ちていた。