第21話 鬼教官

文字数 3,229文字

 志吹と貴星が乗船して、すぐに横嶋は錨を上げた。吾美は船室を確認したが、武器は一つも残されていない。かろうじて船倉に残っていたのは隠してあった砂糖と水、そして小麦粉。吾美はとりあえず砂糖を水に溶かして皆に飲ませた。

「吾美艦長、艦長からの伝言です」

 志吹が吾美に地図を手渡す。

「ここで待っていると」
「ここ……、って」

 小さな地図には手繋群島が描いてある。
 群島の北東、酒島に一番近い三角形の形の島の横に×印が付けてある。

「ここで合流するの? 大丈夫かしら」

 吾美は首をひねって眉をしかめた。
 その時。

「追っ手だ、海賊船だ」

 後方から横嶋と同じくらいの大きな櫂式戦艦が追ってきた。海賊船は櫂を漕ぐ場所が上下3つになっている三段櫂船だ。横嶋は二段である。海賊船の後ろには櫓で漕ぐ中型の船30隻あまりが付いてきていた。
 横嶋も敵の船も帆は張っているが風は弱い。ここは人力勝負となるだろう。貴星は船尾舵に行き、裏切った目冴(こごめ)の代わりに指示をしている。
 吾美は、乗員達の様子を見まわす。横嶋の乗組員は皆優秀だ。しかし、乗員の頬はこけ、痛めつけられたのか、顔を腫らせたり、明らかに身体を動かすのが痛そうな者もいる。
 彼らはここ2日、満足に飲み食いもしていないのだ。
 対して、敵は栄養も休息も充分である。

「あの地点まで、この分だとどう頑張っても2時間かかるわね。あのワカメ頭は何か言ってなかった?」

 吾美艦長は傍らの志吹にたずねる。

「白兵戦には持ち込むな……と」
「ふん、お見通しね」腕を組んで後方を睨みながら吾美がつぶやいた。「本当なら乗り込んで、暴れ回りたいところだけど。こんな細かいのが沢山追ってきちゃ、白兵戦は無謀ね」

 乗員達の状態を見れば、漕いで先に進むのが精一杯。人数を割いて戦闘に向かえそうな余裕はない。
 中型船は引き離しているが、後ろの櫂式軍艦だけは、徐々に間合いを詰めて来ている。追いつかれるのは時間の問題だ。悪い事に今夜は満月。今宵の月は朝まで沈まない
 艦の中には、弓矢などの武器はない。かろうじて今取り上げた海賊達の武器があるだけだ。投石機で投げるものも無い。近接戦になっても、こちらに分が悪いのは明らかだった。唯一有利な点と言えば風上という事だけだ。
 満身創痍の横嶋だが、予想以上に力強く速度の速い寒流を越えていっている。さすが、選び抜かれた逸材が配されている横嶋だ。疲労を押さえ込み、皆気力だけを燃料にして漕いでいるのだろう。

「みんな、すまない。猿港に帰ったら飲み放題、食べ放題の盛大な宴を開くから、頑張れ」

 吾美の叫びに、船内から大きな歓声が上がった。

「目的地までギリギリ逃げ切れるかしら。たどり着いた時には多分もう全員ボロボロよ。そこから先はそのワカメ頭でなんとかしてくれるんでしょうね、乱鳳君」

 月明かりの下、群島の方向を睨んで吾美艦長はつぶやいた。



「前後交代」

 吾美の声が響き渡る。
 休みなしで漕ぐと体力の消耗が激しいため、漕ぎ手は船首側と船尾側に分かれて交代で休息を取っている。これで何度目の交代であろうか。近づかれては離し、離しては近づかれ、相手との距離も一進一退である。
 しかし。

「変ね、ランプで合図くらいしてきても良さそうな物なのに。あのぐうたら者は何をしているのかしら」

 だいぶん近づいてきた三角島の辺りを眺めるも、島を占める暗い山影が見えるのみ。もっと高い場所から確認したい。

「誰か、帆柱の先端まで登って見てきて。こちらからランプで合図……」

 語尾を飲み込み、吾美は周囲を見回す。
 漕げる者は皆櫂を漕いでいる。手を休めている者も皆ぐったりとうつむいて、死んだように眠っているものも多い。
 身軽な志吹は骨折をしている。
 これは、自分が行くしか……。

「はいっ」

 少し遅れてだが、後方から声がした。
 ランプを腰に付けたそばかすの少尉が口を真一文字にして敬礼している。

「貴星、大丈夫なの? 斜め帆柱の妙香とは違って横嶋の帆柱は垂直で高いわよ」

 彼の高所恐怖症は有名だ。登りたくない、登れない、士官学校の帆柱登攀訓練では教官も本人もどれだけ苦労したことだろう。真面目な貴星だが、心の根幹からくる恐怖に立ち向かうのは容易ではなかった。想像力が人一倍強い彼の頭には、登る前から落下する自分の姿が詳細に浮かんでいるのだろう。
 できませんと繰り返しながら横静索に手をかけてうずくまる貴星の姿が、つい先日のことのように吾美の頭に蘇る。

「貴星、登れないなら軍艦に乗るのなんかやめなさい」

 鼻水を垂らして泣きじゃくる貴星を前に、吾美は自分が言い放った一言を思い出す。

「自然現象の前には、士官も水兵もありません。できるものが帆の調節をしなければならないの。嵐の中、帆の調節が遅くて船が沈むことだってある。皆が他の職務に就いていて、できるのが君一人であれば、皆の命のために君がやらなければならないの。ここは海軍。お遊びの船じゃない。高いところにある帆柱や帆桁(ヤード)に登るのは生きるために必要な事なの」

 うなだれて何も言えない貴星。

「逃げるのも選択の一つ。頭のいいあなたなら船に乗らなくても、海軍経理学校に行くという選択もあると思うわ」
「ぼ、僕は軍艦に乗りたいです。操舵がしたいんです、吾美教官」
「ならば、覚悟を決めることね。ここで生きていくつもりなら立ち向かいなさい」

 震える手で横静索を掴んだ貴星の腰に、吾美は綱を結んだ。その反対側は自分の腰につながっている。早生まれでまだ少年体型の貴星なら、万一足を滑らせても吾美の腕力でなんとか持ちこたえられるだろう。
 彼女は先に横静索に登り、硬直した貴星を半ばひきずるようにして少しずつ登らせた。恐怖と、そしてそれに抗う信念と。あの時のこの子の悲壮な顔は忘れない。
 初日は、檣楼まで半分のところで切りあげた。放心状態で去って行く貴星を見て、さすがの吾美にもこのまま続けて良いのか正直迷いが生じていた。
 だがしばらくして、彼女は貴星が家の事情で海軍を辞められないことを知った。母親の手術のため、海軍入隊の時に彼に払われた志度金はすでに使われてしまったらしい。姉たちは親の世話の傍ら仕事もしているが、収入は微々たるもの。彼が海軍を辞めて借金を返すのは到底無理な話だった。

――僕は、乗りたいんです。軍艦に乗って、波州のために戦うんです。

 真っ赤な目をして、唇を震わせながらつぶやいた貴星の言葉が脳裏によぎる。
 ならば、登らせなくては。
 この子を一人前に育てなければ。鬼と言われようと、嫌われようと。
 季節が変る頃、なんとか貴星は一人で檣楼(しょうろう)にたどり着けるようになった。

「お任せください。先日来(せんじつらい)また檣楼登りの鍛錬をしています。吾美艦長はここで指揮をお続けください」

 そう言うと、貴星は横静策に飛びついた。注意深く縦の綱を握り、相変わらずもっさりした登り方だが、以前よりはずいぶんと上達している。
 檣楼にたどり着くと、彼はそこから帆柱に抱きつくようにしててっぺんまで到達した。
 しっかり帆柱に両足と片手でしがみつき、ランプを点滅して信号を送る。
 それを数回繰り返した後で、貴星は吾美の方を向き大きく首を振った。
 吾美はちょっと目頭を熱くしながら、手を振り返す。

「貴星、ご苦労様。暗いから気をつけて降りてきなさい」

 それにしても。

「約束地点に来てない……」

 吾美は鼻を鳴らす。

「これは多分……」
「迷いましたね」

 吾美艦長と志吹は頭に片手をやって、深いため息をついた。
 あの迷路のような群島から迎えに来ると艦長が言った時に、志吹も嫌な予感はしたのだがその時には吾美艦長救出で頭がいっぱいで突っ込む余裕もなかった。

「俺はこれから群島に戻って、一仕事してくるぞ」

 そう言って群島に引き返して行った艦長。

「それで迷ったのね。あいつ、どうしようもないおっちょこちょいだわ」

 無表情の顔とは裏腹に、手の中の銀色の指揮棒がぐにゃりと曲がった。
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