自殺
文字数 3,122文字
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケの信徒への手紙一 5章16ー18節
ポテトチップスを頬張るように大量の錠剤を口へと運び、手首の三センチから五センチ下にナイフを深く差し入れる。
寄せ集めの鎮痛薬、睡眠薬や抗不安薬が、自分の意思に関係なく起こる体の痺れに合わせてカラっと短く音を立てる。
噛み砕く力を促進し、身体のふわっと浮くような一刻は、コカインがこの全身へと行き渡ったそれから到達する精神的覚醒状態の頂に近しい。
非日常かつ目覚ましい刺激による過剰な唾液が糸を引きながら肩を伝い、辺りのタイルカーペット上に広がりゆく血溜まりへ合流する光景をなまめかしい目で見つめながら、まさにその時、これまでの人生で幾度となく揉まれてきた、苦しみと焦燥感から解放される記念すべき瞬間に立ち会うというのは、半ば夢見心地なものである。
噛み締める幸福感に紛れた興奮と一抹の怖気が、ざわざわと胸中を騒ぎ立てるのもそう。
清々しいというか、気恥ずかしいというか。
しかし、どこか懐かしい感覚。
壊れっぱなしのキャンパスライフで、どれだけ足掻いても手にすることのできなかった平穏無事な日常は、このような安らぎで満ち溢れていたのかもしれない。
普段であればここで、減らず口を叩くにあわせて、独り虚しく自傷行為へ走るのが定式であるが、終わりよければすべてよしとはよく言ったもので、恵まれた人間に対する羨望の眼差しをひた隠すことで精一杯な自身の心が嘘のように、心温かく塗り変わり、最後の最後に、悩める常人と同じ立場に立つことができたような錯覚を起こす。
都合のいい解釈で現実から目を背ける癖は死の間際でも相変わらずだが、どうせものの数分もしないうちに全てが終わり、それもまた無いに同じとなりゆくのだから、最期くらいは、素直な心で自己欺瞞を受け入れてみるのも悪くないかもしれない。
ついぞ作り得たことのない、儚げで、今にも溶けてしまいそうな目が、息絶えてもなおこの身の本音を映し出してくれることだろう。
死を待つのみで先の見えないこの余暇に、手持ち無沙汰をふと思う。
身と共に横たえられた五感からは、点灯と消灯とを等間隔で反復する豆電球が文字通り散りばめられている認識、それぞれを補強し合う辺りの環境音に、止め時を知らぬが如く脳を騒ぎ立てられる障りの知覚、どことない場所へ捨てられ、異臭を放ち、孤立した上履きと自身との投影ができるくらいで、血に濡れる感触はまるで覚えず、感情に合致する音楽やのめり込める読み物もない。
浸る未練や後悔はなくもないけれど、それらは余りに多すぎて、どこの何から顧みるべきかも分からない。
まして、この期に及んで自らそのようなものに追い討ちをかけさせる必要性など感じられない。
というのも、無論、順風満帆の人生を歩む人間には到底巡り会う機会のない濁流に、ようやく足を踏み入れることができたのだから。
思い描いていたそれとは違う、不本意とも言える終末とはなったものの、達成感から得られる感情に身を任せてさえいれば、とうに過ぎ去った苦悩などもはやどうだって良いと思えてくる。
気休めの粒を飲み込まず舌でそれらを転がすだけでは、一切の効果も見込めないということすら同様に。
誰にも迷惑をかけない、ひっそりとしたものが理想であったとは言えども、幼い頃からこれまでずっと、この瞬間を待ち望んできた。
生きているのか死んでいるのかもはっきりせず、消えたところで誰かが悲しむわけでもない無価値な命を、よくもまあ、あれほど血眼になって守り続けていたものだ。
テサロニケの信徒への手紙、またはその節を平生心に留め、人に愛されることなく、害され、強がりながら、無いと知っている打開策を求め続けてきたこの身はいかにも、この上なく無様な肉体であったに違いない。
溢れんばかりの反発心とは裏腹に、大人の決まって口にする、生きていればそのうち良いことがある、などという荒唐無稽な戯言の実現を不覚にも期待してしまう自身に辟易しながら生きてきたこのもとへ、そのうちとやらがやって来ることはついになく、十数年に及ぶ健闘も虚しく、数百円の日用品に力を借りて自殺。
人生とは、一体なんだったのか。
この世が非情であるからか、無力が悪であるからか、そんなことは知る由もない。
しかし、この敗者が不確かな靑春を通し、断言できると言うならば。
綺麗事など、平和ボケした人間の夢物語に過ぎないということ。
せいぜい百グラム程度の小さなナイフが、障害者よりもずっと実用的で、値打ちのある品であるということ。
積もり積もった自殺願望を押し殺す度に、傷口は広がってゆくということ。
そして、これら全てが、死の直前に考えても仕方のない世迷い言だということ。
これから十年、二十年となおも続いていたであろう悪夢、もとい、災いを断ち切れることが何よりも嬉しかった。
らしいといえば、らしい末路である。
死を待つのみで先の見えないこの余暇に、自身亡き後をふと思う。
この血と肉を処理する者の仏頂面、事情聴取と隠蔽工作に追われる教師の憎悪、心なしか清々しい数十のクラスメイト。
雑多な他人は想像できれど、やはり、母の表情は浮かばない。
喜びに満ちるのか、愚かな我が子を恥じるのか。
いずれにしても、この死が何か大きなものを影響したり、人の心を動かすことはけしてない。
いつであったか、自殺企図をうってつけの余暇活動と認識し始めた今よりも若い少年時代、何かにつけてそれを非難する女生徒が同じ教室に居座っていたことを思い出した。
やれ自殺は殺人に次ぐ最大の罪であるとか、地獄の深奥でもがき苦しむことになるとか。
知識をひけらかしたいのか、はたまた綺麗になりたいのか、判然としない目的はともかく、自殺は悪だと決めつける前に、彼女はこちらの取り巻かれた環境にひとまず目を向けるべきだった。
病に侵され、もはや死人同然の者に与える安楽死にも同じようなことを言えるが、死こそが最良の救済方法となる状況は確実に存在する。
気休めの祈りや、実在するか否かも知れない神の言葉ではどうにもならない災いが。
自殺は地獄と直結する、それを踏まえた彼らはこの身にそれを促した。
生まれてはいけない人間がいないはずはない。
将来が見えない先天性の痴呆という名の社会の荷物は、始めから生まれ出るべきではないのだから。
この身もまた、多くの心を傷つけた。
これを制御することはできない。
この心もまた、十字架でのキリストの完成したわざへの信仰による。
どんなに多くの良い行いも律法を守ることも、それを新生させることはできない。
よって、自分のこの手で、自身を消さねばならないのだ。
ゆっくりと機能を停止してゆく臓器に、労いの言葉をかけられているかのような恍惚。
視界はすっかり明かりを落とし、耳閉感で目玉が重い。
しかし同時にふわふわして、やはりどことなく心地よい。
神は、その国は、罰は実在するのか否か。
自身が、神の御前に立つことを許されぬ罪深き人間であるのか。
未知との遭遇に、心より期待を抱いた。
環境音は、ろくに聞こえない。
静寂の音は、心を落ち着かせてくれる。
走馬灯は、よぎる気配もない。
呼び起こす価値のある記憶など、この脳には残されていなかったのだろう。
邪魔するものは、何もない。
気持ちが良い。
この身はけして、キリストへの信仰心によって生き永らえてきたのではない。
この死に至る真因は、私以外の誰も知らない。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケの信徒への手紙一 5章16ー18節
ポテトチップスを頬張るように大量の錠剤を口へと運び、手首の三センチから五センチ下にナイフを深く差し入れる。
寄せ集めの鎮痛薬、睡眠薬や抗不安薬が、自分の意思に関係なく起こる体の痺れに合わせてカラっと短く音を立てる。
噛み砕く力を促進し、身体のふわっと浮くような一刻は、コカインがこの全身へと行き渡ったそれから到達する精神的覚醒状態の頂に近しい。
非日常かつ目覚ましい刺激による過剰な唾液が糸を引きながら肩を伝い、辺りのタイルカーペット上に広がりゆく血溜まりへ合流する光景をなまめかしい目で見つめながら、まさにその時、これまでの人生で幾度となく揉まれてきた、苦しみと焦燥感から解放される記念すべき瞬間に立ち会うというのは、半ば夢見心地なものである。
噛み締める幸福感に紛れた興奮と一抹の怖気が、ざわざわと胸中を騒ぎ立てるのもそう。
清々しいというか、気恥ずかしいというか。
しかし、どこか懐かしい感覚。
壊れっぱなしのキャンパスライフで、どれだけ足掻いても手にすることのできなかった平穏無事な日常は、このような安らぎで満ち溢れていたのかもしれない。
普段であればここで、減らず口を叩くにあわせて、独り虚しく自傷行為へ走るのが定式であるが、終わりよければすべてよしとはよく言ったもので、恵まれた人間に対する羨望の眼差しをひた隠すことで精一杯な自身の心が嘘のように、心温かく塗り変わり、最後の最後に、悩める常人と同じ立場に立つことができたような錯覚を起こす。
都合のいい解釈で現実から目を背ける癖は死の間際でも相変わらずだが、どうせものの数分もしないうちに全てが終わり、それもまた無いに同じとなりゆくのだから、最期くらいは、素直な心で自己欺瞞を受け入れてみるのも悪くないかもしれない。
ついぞ作り得たことのない、儚げで、今にも溶けてしまいそうな目が、息絶えてもなおこの身の本音を映し出してくれることだろう。
死を待つのみで先の見えないこの余暇に、手持ち無沙汰をふと思う。
身と共に横たえられた五感からは、点灯と消灯とを等間隔で反復する豆電球が文字通り散りばめられている認識、それぞれを補強し合う辺りの環境音に、止め時を知らぬが如く脳を騒ぎ立てられる障りの知覚、どことない場所へ捨てられ、異臭を放ち、孤立した上履きと自身との投影ができるくらいで、血に濡れる感触はまるで覚えず、感情に合致する音楽やのめり込める読み物もない。
浸る未練や後悔はなくもないけれど、それらは余りに多すぎて、どこの何から顧みるべきかも分からない。
まして、この期に及んで自らそのようなものに追い討ちをかけさせる必要性など感じられない。
というのも、無論、順風満帆の人生を歩む人間には到底巡り会う機会のない濁流に、ようやく足を踏み入れることができたのだから。
思い描いていたそれとは違う、不本意とも言える終末とはなったものの、達成感から得られる感情に身を任せてさえいれば、とうに過ぎ去った苦悩などもはやどうだって良いと思えてくる。
気休めの粒を飲み込まず舌でそれらを転がすだけでは、一切の効果も見込めないということすら同様に。
誰にも迷惑をかけない、ひっそりとしたものが理想であったとは言えども、幼い頃からこれまでずっと、この瞬間を待ち望んできた。
生きているのか死んでいるのかもはっきりせず、消えたところで誰かが悲しむわけでもない無価値な命を、よくもまあ、あれほど血眼になって守り続けていたものだ。
テサロニケの信徒への手紙、またはその節を平生心に留め、人に愛されることなく、害され、強がりながら、無いと知っている打開策を求め続けてきたこの身はいかにも、この上なく無様な肉体であったに違いない。
溢れんばかりの反発心とは裏腹に、大人の決まって口にする、生きていればそのうち良いことがある、などという荒唐無稽な戯言の実現を不覚にも期待してしまう自身に辟易しながら生きてきたこのもとへ、そのうちとやらがやって来ることはついになく、十数年に及ぶ健闘も虚しく、数百円の日用品に力を借りて自殺。
人生とは、一体なんだったのか。
この世が非情であるからか、無力が悪であるからか、そんなことは知る由もない。
しかし、この敗者が不確かな靑春を通し、断言できると言うならば。
綺麗事など、平和ボケした人間の夢物語に過ぎないということ。
せいぜい百グラム程度の小さなナイフが、障害者よりもずっと実用的で、値打ちのある品であるということ。
積もり積もった自殺願望を押し殺す度に、傷口は広がってゆくということ。
そして、これら全てが、死の直前に考えても仕方のない世迷い言だということ。
これから十年、二十年となおも続いていたであろう悪夢、もとい、災いを断ち切れることが何よりも嬉しかった。
らしいといえば、らしい末路である。
死を待つのみで先の見えないこの余暇に、自身亡き後をふと思う。
この血と肉を処理する者の仏頂面、事情聴取と隠蔽工作に追われる教師の憎悪、心なしか清々しい数十のクラスメイト。
雑多な他人は想像できれど、やはり、母の表情は浮かばない。
喜びに満ちるのか、愚かな我が子を恥じるのか。
いずれにしても、この死が何か大きなものを影響したり、人の心を動かすことはけしてない。
いつであったか、自殺企図をうってつけの余暇活動と認識し始めた今よりも若い少年時代、何かにつけてそれを非難する女生徒が同じ教室に居座っていたことを思い出した。
やれ自殺は殺人に次ぐ最大の罪であるとか、地獄の深奥でもがき苦しむことになるとか。
知識をひけらかしたいのか、はたまた綺麗になりたいのか、判然としない目的はともかく、自殺は悪だと決めつける前に、彼女はこちらの取り巻かれた環境にひとまず目を向けるべきだった。
病に侵され、もはや死人同然の者に与える安楽死にも同じようなことを言えるが、死こそが最良の救済方法となる状況は確実に存在する。
気休めの祈りや、実在するか否かも知れない神の言葉ではどうにもならない災いが。
自殺は地獄と直結する、それを踏まえた彼らはこの身にそれを促した。
生まれてはいけない人間がいないはずはない。
将来が見えない先天性の痴呆という名の社会の荷物は、始めから生まれ出るべきではないのだから。
この身もまた、多くの心を傷つけた。
これを制御することはできない。
この心もまた、十字架でのキリストの完成したわざへの信仰による。
どんなに多くの良い行いも律法を守ることも、それを新生させることはできない。
よって、自分のこの手で、自身を消さねばならないのだ。
ゆっくりと機能を停止してゆく臓器に、労いの言葉をかけられているかのような恍惚。
視界はすっかり明かりを落とし、耳閉感で目玉が重い。
しかし同時にふわふわして、やはりどことなく心地よい。
神は、その国は、罰は実在するのか否か。
自身が、神の御前に立つことを許されぬ罪深き人間であるのか。
未知との遭遇に、心より期待を抱いた。
環境音は、ろくに聞こえない。
静寂の音は、心を落ち着かせてくれる。
走馬灯は、よぎる気配もない。
呼び起こす価値のある記憶など、この脳には残されていなかったのだろう。
邪魔するものは、何もない。
気持ちが良い。
この身はけして、キリストへの信仰心によって生き永らえてきたのではない。
この死に至る真因は、私以外の誰も知らない。