進路

文字数 3,227文字

 歯医者だ。
 歯医者か。
 保健室だ。
 気づいた時には病院だったこぼれ話の一つでも欲しいところに、祈りを覚えた。
 歯痛を最後に途絶えた記憶と、違和感、頭痛などにもそう。
 ベッドの激しく軋む音か知らぬ間の独り言かが注意を引きつけたと察する以外にない沈静の一室で、数歩先から緩やかな歩をこちら目掛けて重ねる白衣。
 そこには馴染みのある顔と、福祉従事者のみが携えることを許された一式の器具。
 表情から行動に、言動までの全てを温和で固められていようとも、まずは概説に着手してもらわねばそれらが真か偽かの判別がつかず返答に窮するだけ。
 ところで、目を動かせば手に包帯、指を動かせば頰にはガーゼに絆創膏。
 誤って自分の顔を殴るボクサーでもあるまいし、何だというのだ、処理が追いつかない。



 養護教諭の話には、おおよそ落胆させられた。
 何なんだ、一体。
 自分を殺すとはおろか、他人を殺すこともできない。
 何だ、一体。
 勢い任せへの懸念は、どこへ行ってしまったというのか。
 何だ一体。
 自然な流れで事情聴取に移行したつもりのようだがバレバレだ。
 一体。
 何かと質問を投げてくるが、返答するとでも思っているのか。
 元はと言えば、ぶつけておいて彼女に謝りもせずた奴が悪いのだ。
 あ?
 ああ。
 落ち着こう。
 何はともあれ、やってしまったからには、必要以上に事を荒立てるようなことを避けねばならない。
 彼らへの影響や、彼女の関与が明るみに出ることを防ぐことこそが、最優先事項であるからだ。
 いじめに水を差すわけにはいかないし、彼女を巻き込むことも許されない。
 だんまりを決め込むしかない。
 仮に真実を話したところで、教育機関の規則上隠蔽工作の手間はかかるわ、密告によって悪化するであろう嫌がらせを無視する負担は増えるわでルーズルーズである。
 大人は判ってくれない。
 むしろ、あげないものだと知ることは思春期にとても重要なこと。
 陰険な国に滞在していては、影響されるのも仕方がない。
 誰だってそうなる。
 ところで、沈黙による気まずさの余り吐き気が止まらない。
 吐くといえば、上履きを履くことすらすっかり忘れて未だ靴下のままであったが、自身の臭いに慣れていればこれを催す原因は別にあると考えられる、となればまさか本当にデキてしまったか、これはつわりかと疑念が生まれてきた。
 想像妊娠という言葉を聞いたこともある。
 もしこれが事実であるのなら、はて、この腹から一体、どのような怪物が産まれてくるというのだろう。
 発達障害やトゥレット症候群の遺伝はもちろん、体臭は酷いもので、「はみ出し者」の代名詞にでもなるか。
 出てきたところを潰してしまわねば。
 それとも、あの頃の如く流産か。
 備えあれば憂いなし。
 どちらが実現するにしても、この機会にでも腕っぷしを鍛えておくのが良いだろう。

 口を開いたかと思えば、始まった代弁。
 名を伝えられずとも、奴の言葉だと分かった。
 さっさとこっから追放して少年院にぶち込め、には、刑務所に入ったところでシリアルキラーが殺しへ執着し続けるように、少年院に入ったところで発達障害は治らないのだと開き直った。
 ことに、大人の口から、アイツマジヤバイキチガイが飛び出した時には思わず噴き出してしまった。
 この身との上辺だけの交流を一刻も早く終わらせたいのだろう、風変わりな手段で圧をかけてくる養護教諭の観察はさほど悪いものではなかった。
 終わらせたいのはこちらもだけれど、何せ、彼女の為なら殺されようとも口は割らないと既に決断してしまったのだ。
 死んでしまえば、割りたかろうと割れない?
 とにかく、拷問だろうと問拷だろうと臆するものは何もないのだ。
 しかし、先が見えない。

 恐ろしいことを言い出しやがったこのアマが。
 まずい。
 余裕に埋もれておつむが辿り着けなかった、最悪の事態である。
 母は恐らく、自宅警備の真っ只中。
 タイミング良く出掛けているか、深い眠りに落ちてさえいればかろうじて希望があろうものの、そうでもない限り応答は必然である。
 否、運良く回避できたとて、いつかは時を改めた知らせが届けられることだろう。
 考えてみれば、早期に白状していたとしても避けられなかった展開である。
 今回の問題は、実に甚大だ。
 どうやら奴に殴りかかった時点で、今月分の宿は失われていたらしい。
 元々無いようなものだが。
 安息の終末を知り、ドヴォルザークのレクイエム第三曲が脳内に流れ始める。
 人間誰しも、一度くらいは大衆に認められる高品質な音を生み出せると信じながら、その冒頭の力強いティンパニの身代わりとして死にたかった。
 こうなれば、解放されたとて行く宛が無い。
 自宅、学校、店内、屋外、インターネット。
 どこを探しても、障害者には居場所が無い。
 この身はそれに留まらず、被搾取結果の一文無し。
 今や、水商売に身を染めて、宿を確保できる容姿もテクニックも無い。
 残された道はベンチ暮らし、からの死、もしくは通報されて拘留の日々。
 ようやく、確かな未来が見えてきた。
 室内で座っていられるこのせめてもの間に、少しでも多くの思い出を記憶から掘り起こしておくことにしようとすることにしよう。
 そういえばエスエヌエスに投稿された、目にしただけでも呪われてしまいそうなこの身の写真は非難を呼び寄せ、学校中に知れ渡っている頃か。
 なるほどそれが、いつにも増してアマに距離を取られている理由だった。
 時折開催される撮影会は過激さを増してヌードさながら、脱衣にポーズを丹念に指示し変態だとかキモだとか、理屈に合わない罵言でまくし立てようの会。
 気恥ずかしくも、嬉しかった。
 果たして、いつかのこぼれ話となるだろうか。
 極度の羞恥心、好奇心、乙女心どれも青春時代特有の若気で年を重ねれば微笑ましく思えるものであると予想できるなどと、たかが十五の悪ガキが知ったような口を叩いて気持ちの良いものでないように、写真、動画、鏡、この身を映しては腐敗するように、生死の判別をつける過程で生きた証など必要なく暴行が適するが、一時の雑念に一時でも囚われてしまうと、能無しにしてみれば肝心な時に役にも立たない暇潰しの哲学書を思い返し、制御系へ援護の手を差し伸べてもらおうという甘い考えもよぎらないままソクラテスの言った、無知は罪なり知は空虚なり、そんな独言に酔い潰れ、飢え、渇き、恥を受け、そして草のように枯れ、その度ごと、牧師ナサリンの挫折を目の当たりに信仰の迷いが生まれ、また孤独。
 まさにこの身についてであり、典型である。
 繋がる目前の電話機が、電波がこの身の生命線であり、漏れて聞こえてはこない母の静かな憤りがひしひしと伝わる。
 時が経てば再び、あの愛情を受け取ることができるようになるのか、あの家に帰ることはできるのか。
 瞼裏の不明瞭な色彩模様が、将来への希望で満ち溢れていた胎児期への懐古心、いわゆるノスタルジーを用いて精神を蝕みにかかる。
 ああ。
 いやだ。
 帰宅を命じられ、追い出され、行く宛も思いつかぬままとぼとぼと、フローリングを蹴り歩く他に何ができるだろうか。
 教室で置いてけぼりを食らう定期券やスマホの入ったスクールバッグ、現金無しでは交通機関は構ってくれない。
 足は冷えつつも熱い頭。
 どいつもこいつもつれない大人。
 いい加減、こんな国にはいられない。
 さておき、校内やら屋外やらをゾンビのようにひたすら徘徊したところで仕方がないし、埒が開かない。
 しばらくの間、またはもう二度と味わえなくなるかもしれないことだし、せっかくだ。
 どの道、他に行く場所もない。
 アマに聞かされた代弁を頼りに、未来のない命に促されたかのように、集団リンチに持って来いであるいつもの空き教室へ、足を運んでみることに決めた。
 進む道があるというのは、実に幸福なことである。

 馬鹿でかいチャイムに体が跳ねた。
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