二限

文字数 3,960文字

 09:41

 先ほどと同じ空間にいるとは思えない静けさ。
 どの高校にももれなく一匹は在籍している厳粛な強面を下げる馬に皆が臆し、簡易的な嫌がらせまでもが一斉に減退している。
 息苦しい。
 全くもって理解できない数式の清聴を強制される、この時間が煩わしい。
 休み時間から未だ止まらない左腕の出血と、袖の内側と肌とが接触する度に生じる生暖かい感触が不快だ。
 さらにそれによる症状か、眼振を伴うめまいがする。
 おかげで筆記の手が思うように進まず、ただでさえ乱れた筆跡はもはやロシア語である。
 出血の際には、頭の痙攣が止まることを知った。

 二限開始からまだ二分。
 五十分が、何時間にも思えた。
 彼らがうっかり動脈を切ってくれるよう願ったものの、そう都合よくもいかなかった。
 視界の右上端にぼやけて映る彼女へと意識を向けては、一心に息を繋げる。
 命綱といえば、それだけだった。
 たとえどれだけ体調が優れなくとも、この重苦しい空気の中に一時退室の申し出を放つなどもっての外であり、第一、そんなエゴイスティックは数学に求められないので、それが顕著にあらわれてしまう。
 呪文のように無機質な呟きが、とうにおかしい頭をより一層おかしくさせてやろうと拍車をかけるように、黒板を跳ね返ってはこちら側へ飛んでくるのを一途に受け止めるしかないのだ。
 数学なんて嫌い。
 こんなものを学んで何になるのか。
 足し引き、掛け割りさえ人並みにできていればそれでいいではないか。
 こちらは異質な才能のある一部の自閉症患者と違い、発想の転換に長けていないのだ。
 すなわち知能が無いに等しく、知能が低ければ周りの歩みに追い付けず、追い付けなければ理解できず、理解できなければ何が理解できていないのかも解らず、解らないままでいれば周りとの差は開く一方で、周りとの差が開いてしまえば劣等感に揉まれて死ぬ。
 この身のように一般的な障害者は健常者から疎まれるが故、助けを乞うこともできない。
 いくつになっても、無理なものは無理なのだ。
 要するに、学習に向いていないのである。
 もし発達障害を備えず生まれていたとしても、地頭の悪さは相変わらずであったのだろうが。
 どういうわけか頭の切れる、知的障害を併せ持つケースが多い自閉症患者の多数派の中の少数派は、知的障害を察せずにガイジだのキチガイだの、世間一般的なあだ名で我々を呼ぶ健常者に、新鮮な気持ちで傷つくことができて羨ましい。
 ただの言い訳に過ぎないと、そう思い込んで逃げているだけと言われるとそれはごもっともで、返す言葉が見つからない。
 この身は、恵まれ者への嫉妬にまみれた脆弱な皮肉を、日々こそこそと吐き出さねば心労をこらえられないのだ。
 紙と左の合谷が濡れている。
 口内が粘ついて、重たい。
 気分転換に何か、楽しいことを考えようと思えば、楽しかった出来事など、生まれてこの方何一つ経験していないことへ気づくに至った。
 とにかく、頭が痛くてたまらない。



 背もたれに背中を預けて、うつむいて初めて、引き出しからその眇眇たる顔をちらつかせるウジ虫に気がついた。
 もっとも、自分の体の何千分の一か、万かも分からないが、ともあれ小さいこれのどこが顔に相当するパーツであるかも定かでないので、この乳白色の生物が五十パーセントの確率では、相手が同種でなかろうと構わず尻を見せびらかして色仕掛けに励む、性的欲求の塊であると考えることもできる。
 取り残された迷子の幼虫。
 全て詰め込んだつもりでいたが、確認が不足していたようだ。
 暗闇の中に一匹きりで、さぞ怖かっただろう。
 申し訳ないことをしてしまった。
 綺麗だからとか汚いからとか、ありふれた理由付けはいらない。
 自身を除いた命あるものへ触れてしまうに併せて罪の意識を感じる性質である為、左の人差し指をその近くへ当てるのにも気が引けたが、なおも謝意と興味から僅かばかりのお見合いを経て、振り絞った積極性を糧にそれを実行する。
 然るに、乗ってくる気配すら一向に感じられなかった。
 恐縮な言い回しとなるが、虫に拒絶までされてしまうと流石にこたえる。
 指を変えてみても、定規に変えてみても、興味は一方通行。
 こちらの緊張が伝染したことから、緊張に動きを制限されているのかもしれない。
 時には、強引さも必要か。
 そうして、暗中模索と試行錯誤の末、辿り着いた結論としては、ひとまずは指でつまみ、十分に光の当たる机上へと移動させてから注意深く観察をする試みに合わせることが出た。
 それにはウジを傷つけることがないよう、それをごく速やかに済ませることへ全神経を注ぐ必要があった。
 しかし、案ずるより産むが易しとは言い得て妙。
 ウジも単体で見ると中々に魅惑的で、愛らしくさえもある事実を、頭痛を物ともしない晴れ晴れしさの内へと迎えることができたのだった。
 群れの全体像を捉えるばかりであった為に、それを構成する美しい一片へと見入るのは幾分、食欲をそそるものだった。
 手指の第一関節周辺にある、しわの集合体とよく似ている。
 上に、こちらとは違い見兼ねない、時にクネクネとしなる体には鏡に映るこの身を模しているかのようで、親近感がある。
 意中の相手に凝視され、いてもたってもいられなくなった乙女の姿さながらである。
 見つめているうちに、調子はどう、だの、どこから来たの、だの、この授業に限っては口にするのを憚る言葉と、あれはカースマルツゥと言ったか、イタリアのウジ虫入りチーズ。
 あの意思表示はやるせない。
 それでも、先入観に邪魔をされているだけで、蓋を開けてみると案外好みに合うものだってあるのだ。

 これが好きの裏返しでちょっかいを出したくなる気持ちか、ふと、手の平の上でこれを愛撫してみたい、そんな衝動に駆られた。
 気がつけば頭と首の痙攣は、出血、日記共に失速ののちの中だるみを始める中でいつの間にか再発していたものの、幸いにも取り上げるほどの影響を手元に及ぼすことはない。
 風を切った勢いでウジを吹き飛ばしてしまう懸念がないとはいえ、嫌がられてしまえばそれまでだが。
 生まれ持った疎まれの素質が一時的に枯れる偶発を求めながら、繊細な接触へ取り掛かる。
 まずは、互いの緊張をほぐす為の前座。
 これを欠かしては、欲の捌け口扱いと判断されかねない。
 つるっと、ぬるっと指を滑らせる。
 そしてぷるっと、例えるならば生むき海老。
 感触が、セロトニンの分泌を促す。
 くすぐったさを体現するように波打つ背中。
 嫌忌の念が通じてこないとなれば、指の往復はもう止まらない。
 動物を飼った経験も無いので、言葉が拙かろうと、理解力が低かろうと、誤解も諍いもないストレスレスな非言語コミュニケーションに興奮した。
 人間であればこうはいかない。
 顔はほやほや、心はきらきら、内心に欣喜雀躍。
 この頃は生き物との正当な交流はおろか、互いに触れ合うような機会も無かったので、まるで人間にとって最大の親密交際とも言える挿入から血と吐瀉物のみを得た、いつかの半屍人が内に蘇ったかのようだった。
 この波に乗って、快く手の平までもを受け入れてもらえれば言うことなしなのだけれども、これに限り拒まれる可能性は少なからず実在するわけであり、そうなればこれは喪失感に変わるというのに、多大なリスクを負ってまで更なる快感を追い求める、色情狂的愚行に手を染めてしまっては。



 厭悪ランキング三本指の常連である性行為を引き合いに出すなど、胸糞が悪く忍びないが、言わば前戯のつもりで始めた手淫の時点で充足感に満たされ、早くも欲求を収める雌豚。
 体は若くも欲は老齢、性的欲求を覚えなければ承認欲求は単純明快。
 中学生時代に盗み得た、ニキビまみれの雄猿が交わしていた賢者にまつわる情報と合致し、想像が頭を巡る。
 気持ち悪い。
 キモち悪い。
 指先がぬめり、臭う。
 また、緊張に解かれた様子で、伸び伸びと気持ち良さそうに這うウジが見られて何よりではあったが、平静を取り戻したが早いか、いくつかの不安と後悔が着々と募り始める。
 クラスメイトや馬に見られていなかっただろうか、声を漏らしていなかっただろうか、彼女に感付かれてはいないだろうか、そして、このえずきは気からか。
 実際のところ、露見したとてそれが校内に止まるのならば大した危惧対象にはならないのだが、これが母への伝達に結び付いているからこそ恐ろしいのだ。
 現に、似たような事例で幾度となく、母を幻滅させてきたものだ。
 大切な人を傷つけて、得することは何もない。
 もう、あのような曲事を繰り返したくはない。
 あのような曲事は、繰り返すべきでない。
 繰り返すべきでないというのに。
 事の後から辿ってしまえばすこぶる容易と思えるが、事前の予測ができないことに大きな問題があるのだ。
 人間は弱く、この身は尚更。
 愚行を悔いては愚行を悔いて、神はさぞかし、この身に倦厭なさっていることだろう。
 不届きなアテオに聖書を燃やされ、御言葉を身に取り入れることもできず、悪ののさばる不条理な現実から信仰心を薄めつつある人間の求める霖雨蒼生ほど、図々しいものはない。
 全人類の罪を背負って処刑に臨んだ彼への涜神行為と解されてしまわないよう、何事にも深く一考すべき、そう自戒した。

 こうしている間にも、この子はこちらの存在を肯定するかのように優しく、指をくすぐってくれている。
 避けることも、蔑むこともなく。
 身も心も美しい。
 人間など比べ物にならない。
 愛するペットや、子への尊さに同じ。
 溺愛する親の気持ちをはかる。
 欲望を指先へ、欺瞞の味を噛み締める。
 食べてしまいたい。
 食べてしまう。
 食べたい。
 食べる。
 飲む。
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