呪術家の後継者
文字数 1,673文字
昔、異世界の住人達が、自分達が住んでいる世界が消滅してしまうなどとは、まだ誰も思っていなかった頃。
サキュバスのアイリンは、一人の男の子と出会う。
黒い蝙蝠の羽根を羽ばたかせて暗い夜空を飛んでいると、アイリンが忌み嫌う臭いがどこからともなく漂って来た。
その臭いから、子供が痛みと苦しみに耐え、泣き叫んでいるイメージを感じ取ったアイリンはすぐさまその臭いの元へと駆けつける。
臭いの発生源は、森林の中にひっそりと佇む巨大な城。
その城は先祖代々、何千年もの間、呪術師を生業としているスペラキュアーズ家の居城。
サキュバスとは言え、千年の時を生きるアイリンが、その存在を知らない筈はなかった。
法も人権も、こちらの人間世界とは比べ物にならない程、貧弱な張りぼてでしかない異世界のこと。
アイリンが危惧している残酷な仕打ちも、これまでの歴史の中で日常茶飯事と言っていいぐらい数え切れないぐらいに繰り返されて来たことだ。
アイリンは何の
城の中にある牢、そこが嫌な臭いの元凶だった。
鉄格子の中、石床の上に、上半身裸でうつ伏せになって倒れている男の子。
まだ少年とも呼べないような年端も行かない子供、その幼き肌の背には、まばらに幾つかの紋様が刻まれている。
その肌の色合いから見るに、まだ刻まれたばかりというところか。
鉄の格子を腕力のみで折り曲げ、牢の中に入って子供に近寄るアイリン。
しかし意外なことに、目の前で倒れている子供はなけなしの力で自らの首を横に振って、アイリンの助けを拒絶した。
子供の目、その瞳は輝きを失い、生気を無くし、まるで作り物の人形が如く、死んだような目。
おそらくは長時間に渡って与えられた恐怖や苦痛、悶絶の影響だろう、顔の表情筋も強ばり硬直しきってしまっている。
自らの体を支える力すらも残っておらず、四肢を投げ出して横たわっているだけの存在にも関わらず、その子供はアイリンが差し伸べた手を拒絶した。
それがまだ幼かった頃のサムエラ・スペラキュアーズであり、何千年にも渡る呪術家を継ぐべく運命付けられたスペラキュアーズ家の嫡男にして、次期当主候補でもあった。
呪術師一族のスペラキュアーズ家は先祖代々、呪術の確実性、効率性、効果などを向上させるために、一族に生まれた子の体に呪術紋様を刻み込むという風習があり、それは当人が成人するまで何年間にも渡って繰り返される。
幼きサムエラはまさにその呪術紋様刻印の育成期間中であった。
アイリンの助けを拒否したのは、次期当主としての決意や自覚というよりは、むしろ自らに定められた運命を諦めて受入れていたからだろう。
呪術家の嫡男と生まれ、将来は跡を継ぎ、一族を率いて、家系を、名家を守っていかなくてはならない定め。
幼いサムエラにそれ以外の選択肢は無く、いや実際には無限に選択肢はあったのだが、選択肢が無いと思い込んでいたのだ。
アイリンが差し伸べた手を取るという選択肢も、その意味も知らぬままに諦めて自ら放棄してしまった。
この苦痛の時を乗り越えたとしても、金で依頼を受け、ターゲットを呪い殺し続けるという、まさしく呪われたような生き方を死ぬまで続けるだけだというのに……。
アイリンはその後何度もスペラキュアーズ家の城、牢内の石床に上半身裸で倒れ込んでいるサムエラのもとを訪れる。
その度にサムエラの体には呪術紋様の刻印が増えており、そしていつしか、サムエラの首から上を除く上半身、その全てが呪術紋様で埋め尽くされた。
それと同時にサムエラは、この世界のすべてを呪い、すべてを恨み、妬んでいるような怨念と憎悪に満ち溢れた目へと変貌して行き、そう言った意味では、名門呪術家の当主に相応しい風貌へと変わって行った。