第1話結婚式前日

文字数 1,731文字

 ピシャッ、ピシャッと、水が落ちる音がする。
黒い岩の天井から()れる地下水が、床に落ちて跳ねる音だ。規則正しく、狭い洞窟のなかに響き渡っている。

 男が一人、うずくまっていた。
 腰に獣皮を巻き付けただけで、上半身は裸だ。すり切れたような(むしろ)の上に腹ばいに伏せて、動かない。

 彼の背中は、泥で汚れ、そればかりか複数の鞭で叩かれた跡があり、血がにじんでいた。

 昨日、彼は恋人のミリアと結婚するはずだった。
ところが今は、彼女を失ったばかりか、こうして罪人として(とら)われている。

 そう、彼の左の足首には、重い鉄の環がはめられていて、それが鎖で柱に繋がれていた。足をうごかすたびに皮膚がこすれて血がにじんでいる。

 初夜権、この国にそんな習慣があることは、誰もが知っていた。
しかし、これまでは、まわりの若い夫婦は誰も、そんなものを強要されたことはなかった。

 だから、美しいミリアも、清らかなまま彼の花嫁になるのが当然だと思っていた。

 初夜権とは、領民が結婚する前夜に、花嫁が領主と床を共にするという、古くからのしきたりだ。
翌朝には祝儀とともに夫の家に送り届けられ、領主の許可のもとで式が行われる。

 領主の決定は、神の声にも等しいこのネフェル国の制度のなかで、いつ誰が、そのような理不尽な制度を作ったのかわからないが、領主の気まぐれで涙を流す娘も少なくはないのだ。

 このフォルム地方の領主は、昨年変わったばかりだった。
前任が亡くなって、この地方にあらたに派遣されて来たボルゴ・ダスクルの、民衆からの評判は悪かった。

 丸顔の小太りな男で、カイゼル髭をたくわえ、上等な服のポケットから、自慢の懐中時計を出して、見せびらかすのが常だった。

 この国では、まだ時計は珍しく、皇族か貴族くらいしか、所持するものはいない。
ボルゴは、タウの都にある神殿の、法王の遠縁であるらしく、そのつてを使って手に入れたものらしい。

そのボルゴ・ダスクルが、彼、アルフとミリアの結婚に待ったをかけたのだった。

 あの日、兵士が数人、古ぼけた馬車を()いて、ミリアの家にやってきた。
翌日に迫った結婚の準備をしていたミリアは、領主からの突然の呼び立てに、驚き戸惑い、母親が慌ててアルフを呼びに来た。

 アルフが急いで駆けつけてみると、ミリアは兵士たちに囲まれて、馬車に乗せられるところだった。
「ミリア! どういうことだ」
アルフが叫ぶと、兵士たちはアルフが近づかないように、ミリアを囲んだ。

「アルフ、アルフ、領主様が、初夜権の行使だって……」
ミリアは、あきらめたような、やるせない眼差しでアルフを見つめた。

「そんな、馬鹿な、なんでミリアだけ。これまでは無かったじゃないか」
「黙れ! 命令だ」
アルフは兵士に食ってかかるが、兵士は領主の意向で動いているのだ。彼らに判断できるはずがない。

 兵士の一人が、乱暴にミリアの背を押して、馬車の中に押し込もうとした。
「ミリア! ミリア、駄目だ」
アルフは、彼を通すまいと、立ちはだかる兵士たちの間に肩をねじ込み、強引に通り抜けようとした。

 兵士の手がアルフの肩を掴み、彼を引き倒す。
尻餅をついたアルフは、硬い土の上で腰を打ち、痛みに顔を(しか)めた。

 彼の目の前には、兵士が腰から提げている剣があった。考えるよりも早く体が動いた。
兵士が馬車のドアを閉めようと後を向いた隙に、アルフはその剣をもぎ取り、兵士の背に力一杯、突き立てた。

「うおお!」
声を上げて倒れる兵士。剣は、背中から臓器まで到達したのか、おびただしい血が噴き上がった。

「行かせるか!」
ぎごちなく剣を構えて、もうひとりの兵士に向き合うアルフ。

「アルフ、だめ! あなたが死んでしまう」
金切り声で泣き叫ぶミリアの方を、一瞬間見たアルフは、再び兵士に向き直ると、刃を振り上げた。

 しかし、そこまでだった。戦闘訓練を重ねた兵士に、ただ力が強いだけの農民がかなうはずもない。

 兵士たちはアルフの腕を両側から押さえた。
もう一人が、構えていた剣で暴れている彼の手から武器をたたき落すと、キンと金属音を響かせて、回りながら地面に突き刺さった。

 やがて、乱暴に取り押さえられ、戒めの縄をかけられているアルフの目の前から、ミリアを乗せた馬車が走り去って行った。
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