第9話おばば
文字数 1,963文字
目が覚めると、アルフは床の敷藁の上に寝ていた。
縄ばしごを下りたあたりまでは記憶しているが、それ以降、どうやって寝たのか記憶がなかった。
まわりは薄暗く、壁も天井も固い土壁のように見えて、一瞬まだ牢に捕らわれているのかと勘違いしそうになったが、あの老婆のことを思い出して我に返った。
体を起こして、まわりを見ると、横に並んでいる樽の上には、細い蝋燭が点っていた。それほど短くなっていないところを見ると、あれからさほど時間は経っていないのだろう。
壁際には木の棚があって、壺やブリキ缶などがぎっしり並んでいた。
アルフは、ずいぶんと頭がスッキリしているのを自覚した。これまでは、起きていたと言っても、いつでもどこか夢の中にいるような、ぼんやりした気分だった。
疲れすぎていたせいかもしれないと思う。
彼は立ち上がって体を動かしてみた。体じゅうに付いている切り傷や擦り傷は、相変わらず痛むが。突っ張ったような、筋肉の引き攣 れは感じなかった。
アルフはゆっくりバランスをとりながら、縄ばしごを上った。
入り口は塞がれておらず、首を出すと、台所に立つ老婆の姿が見えた。
「おや、起きたのかい」
老婆は、作業の手を止めて声をかけてきた。
「ちょうど、シチューが煮えたところだ。向こうで待っておいで」
顎をしゃくって、テーブルのあった部屋を示すと、作業を続けた。
アルフは言われた通りに、隣の部屋へ、と言っても一室しかないようだが、移動して、椅子に座った。
うん、だいぶいい、と思った。体が軽く、思うように動いた。
背後の戸が開いて、木の椀を持った老婆が入って来た。
小さな体を左右に傾げながら歩いているのは、足が悪いせいなのかもしれない。
「ほら、野うさぎのシチューだ」
椀をテーブルに置いて、腰のポケットから木を削って作ったような、不格好なスプーンを出した。
「すまない、世話になる」
アルフが頭を下げると、老婆は笑い出した。
「なんだい、いまさら、成り行きさね」
壁の戸棚から、パンを取り出してテーブルの上に置き、台所へ戻って、薬草茶のカップを二つ持って来た。
ひとつをアルフの前に置き、もう一つは自分で持って、彼の向かいに腰掛けた。
「おかわりもあるよ」
老婆は言って、薬草茶を口に含んだ。
「えーと。あなたは、おばあさんは……」
「おばば、とでも呼んどくれ。誰かに呼ばれるなんて、何十年ぶりだろう」
アルフが老婆を何と呼んで良いのか口ごもるのを、面白そうに眺めて言った。
「それじゃ、おばば、こんなところで、一人暮らしなのか」
「ああ、連れ合いが死んでからは、ここで暮らしている」
「そうなのか、これ旨いな」
アルフは、ほろほろに崩れるほどに煮込んだ、肉の塊を、口いっぱいにして、咀嚼しながら言った。
「今度は、ちゃんと食べられそうだな」
おばばは、彼のようすを見て、もう一つパンを追加した。
「で、どうして、お前は追われている」
おばばは、アルフがあらかた食べてしまうと、聞いてきた。
なにも事情を知らないのに、助けてくれたのだ、誤魔化すわけにはいかない。
アルフはこれまでのことを、すべておばばに話すことにした。
「なるほどな、処女権か、未だにそんなことをしてるのか。愚かな……」
おばばは、言葉の最後を、何かを思い出すように、遠くに視線を飛ばしてつぶやいた。
「私もなあ、先々代、いやその前の領主か、結婚が決まった時、処女権と言われてな」
「え? おばばも、そんなことが」
「ああ、当時は珍しくもなかったけど、誰でも皆というわけでもなかった。たまたま、領主のお気に召したんだろうよ」
おばばは憂鬱そうに言った。
「それで、相方が我慢できなくて、私を連れて逃げた」
おばばの話によると、この先を流れているルーア川を渡ると、フォルム領を出られるらしい。二人は、その先に広がる、アイルの森に逃げ込んだという。
森は、ナームの丘に続いていて、丘の上には、天を突くような巨木が立っているという。
おばばの夫は、その巨木まで逃げて、とある儀式を経て、「森の王」と呼ばれる木の守護者になった。
そうなることで、逃亡した罪は消えたが、一生その木から離れられなくなったという。
「それも承知で、私のために、森の王になったのだけどな」
おばばは、夫を思っているのだろう、懐かしそうに言った。
「相方が死ぬまでは、私も森にいた。死んでからは、ここからあの木を眺めている」
おばばによると、この小屋の裏庭からその巨木が遠目に見えるとのことだった。
罪が消えると言うなら、その森の王とやらになってみてもいいかもしれないと、アルフは考えた。
元はと言えば、領主の言いがかりのような罪だ。でも、もうミリアとは添うことは適わないだろうし、行く当てもない。
それならば、自分の居場所を作るためにも、試してみてもいいかもしれない。そう考えた。
縄ばしごを下りたあたりまでは記憶しているが、それ以降、どうやって寝たのか記憶がなかった。
まわりは薄暗く、壁も天井も固い土壁のように見えて、一瞬まだ牢に捕らわれているのかと勘違いしそうになったが、あの老婆のことを思い出して我に返った。
体を起こして、まわりを見ると、横に並んでいる樽の上には、細い蝋燭が点っていた。それほど短くなっていないところを見ると、あれからさほど時間は経っていないのだろう。
壁際には木の棚があって、壺やブリキ缶などがぎっしり並んでいた。
アルフは、ずいぶんと頭がスッキリしているのを自覚した。これまでは、起きていたと言っても、いつでもどこか夢の中にいるような、ぼんやりした気分だった。
疲れすぎていたせいかもしれないと思う。
彼は立ち上がって体を動かしてみた。体じゅうに付いている切り傷や擦り傷は、相変わらず痛むが。突っ張ったような、筋肉の引き
アルフはゆっくりバランスをとりながら、縄ばしごを上った。
入り口は塞がれておらず、首を出すと、台所に立つ老婆の姿が見えた。
「おや、起きたのかい」
老婆は、作業の手を止めて声をかけてきた。
「ちょうど、シチューが煮えたところだ。向こうで待っておいで」
顎をしゃくって、テーブルのあった部屋を示すと、作業を続けた。
アルフは言われた通りに、隣の部屋へ、と言っても一室しかないようだが、移動して、椅子に座った。
うん、だいぶいい、と思った。体が軽く、思うように動いた。
背後の戸が開いて、木の椀を持った老婆が入って来た。
小さな体を左右に傾げながら歩いているのは、足が悪いせいなのかもしれない。
「ほら、野うさぎのシチューだ」
椀をテーブルに置いて、腰のポケットから木を削って作ったような、不格好なスプーンを出した。
「すまない、世話になる」
アルフが頭を下げると、老婆は笑い出した。
「なんだい、いまさら、成り行きさね」
壁の戸棚から、パンを取り出してテーブルの上に置き、台所へ戻って、薬草茶のカップを二つ持って来た。
ひとつをアルフの前に置き、もう一つは自分で持って、彼の向かいに腰掛けた。
「おかわりもあるよ」
老婆は言って、薬草茶を口に含んだ。
「えーと。あなたは、おばあさんは……」
「おばば、とでも呼んどくれ。誰かに呼ばれるなんて、何十年ぶりだろう」
アルフが老婆を何と呼んで良いのか口ごもるのを、面白そうに眺めて言った。
「それじゃ、おばば、こんなところで、一人暮らしなのか」
「ああ、連れ合いが死んでからは、ここで暮らしている」
「そうなのか、これ旨いな」
アルフは、ほろほろに崩れるほどに煮込んだ、肉の塊を、口いっぱいにして、咀嚼しながら言った。
「今度は、ちゃんと食べられそうだな」
おばばは、彼のようすを見て、もう一つパンを追加した。
「で、どうして、お前は追われている」
おばばは、アルフがあらかた食べてしまうと、聞いてきた。
なにも事情を知らないのに、助けてくれたのだ、誤魔化すわけにはいかない。
アルフはこれまでのことを、すべておばばに話すことにした。
「なるほどな、処女権か、未だにそんなことをしてるのか。愚かな……」
おばばは、言葉の最後を、何かを思い出すように、遠くに視線を飛ばしてつぶやいた。
「私もなあ、先々代、いやその前の領主か、結婚が決まった時、処女権と言われてな」
「え? おばばも、そんなことが」
「ああ、当時は珍しくもなかったけど、誰でも皆というわけでもなかった。たまたま、領主のお気に召したんだろうよ」
おばばは憂鬱そうに言った。
「それで、相方が我慢できなくて、私を連れて逃げた」
おばばの話によると、この先を流れているルーア川を渡ると、フォルム領を出られるらしい。二人は、その先に広がる、アイルの森に逃げ込んだという。
森は、ナームの丘に続いていて、丘の上には、天を突くような巨木が立っているという。
おばばの夫は、その巨木まで逃げて、とある儀式を経て、「森の王」と呼ばれる木の守護者になった。
そうなることで、逃亡した罪は消えたが、一生その木から離れられなくなったという。
「それも承知で、私のために、森の王になったのだけどな」
おばばは、夫を思っているのだろう、懐かしそうに言った。
「相方が死ぬまでは、私も森にいた。死んでからは、ここからあの木を眺めている」
おばばによると、この小屋の裏庭からその巨木が遠目に見えるとのことだった。
罪が消えると言うなら、その森の王とやらになってみてもいいかもしれないと、アルフは考えた。
元はと言えば、領主の言いがかりのような罪だ。でも、もうミリアとは添うことは適わないだろうし、行く当てもない。
それならば、自分の居場所を作るためにも、試してみてもいいかもしれない。そう考えた。