煮干信一
文字数 1,817文字
「私は世紀の大怪盗、以後お見知りおきを」
家に泥棒が入ってもN氏は特にあわてることもありませんでした。住んでいるのは月々二万の安アパート。家具は男のひとり暮らしに必要最小限のものしかありません。
泥棒に入られても盗まれて困るようなものもなく、むしろ捨てるか迷っていたものを盗んでもらえたなら、踏ん切りがつきそうなほどです。
「予告した通り、あなたの大切なものを頂戴しに参りました」
「予告?」
そんなものあったか、とN氏は首を傾げます。
すると大怪盗が言います。
「七日前、ポストに予告状を投函しました。もしかして、ご覧になっていませんか」
ここ一週間はポストを開けていませんでした。
というのもN氏は八日前に届いた書面を見て以来、ポストを開けるのが億劫になっていました。
実はN氏は小説家を志望しています。毎日机に向かっては、今時珍しく紙に文章を書いているのです。作風はさっぱりしていて、ショートショートと呼ばれる短い話をいくつも書き留め、それを出版社に送っていました。
子どもの頃、表紙に惹かれて買った本が切っ掛けとなり、十年以上も小説 を書くことになったのですが、それもそろそろ終わりのようです。
八日前、N氏のもとに届いたのは出版社に送った原稿でした。短いショートショートなら空き時間に読んでもらえるかもしれない。そんな淡い希望を抱いていました。
しかし、送り返されてきた原稿には手を付けた様子もなく、同封された紙には『弊社は現在持ち込みを受け付けておりません』とありました。
部屋には同じ文章で出版社名だけが違う紙が何枚、何十枚もあります。裏紙にしたものもあるので正確な枚数は分かりません。
さすがにここまでくると、夢は押し入れにでもしまっておいて別の道を探したほうがいいかもしれません。
いっそ今来ている大怪盗とやらに、諦めきれないこの夢を持っていってもらえれば、楽になれるのでは。
「それで、いったい何を盗みに来られたのですか」
「ですから、あなたの大切なものを、と先ほどから申しているではありませんか。予告状にもそう書きましたし」
言われて困ったのはN氏です。
大切なものと言われても、抽象的すぎて何が何だか。今考えて思い浮かぶのは残り少ない生活費です。しかし金額を考えればN氏の部屋より、アパートの他の部屋に忍び込んだ方がいいくらいです。あとは何でしょう。まさか十社連続で突き返された原稿ではないでしょう。
N氏は途方に暮れました。
大怪盗とはいえ、小説のように人を殺めず華麗に盗みをはたらくとも限りません。頂くのはあなたの命です、と言われる前に渡すものを渡して、とっととお引き取り願うのが賢明です。
「やっぱり分かりません。あなたの言う、私の大切なものとは何です」
N氏は降参というように両手を上げました。考えている間も大怪盗は待ってくれていました。こんなことなら、お茶の一杯でも出すべきでした。
すると、大怪盗は言います。
「あなたのペンネームです」
「はぁ。ペンネームですか」
N氏はそんなもの、と言いかけたのを堪えます。
机の上の原稿には「煮干信一」とヘンなペンネームが書かれています。大してひねった名前でもありません。
N氏は考えます。生活費を盗られるよりずっといいことでしょう。それに、大怪盗に狙われたということなら箔が付くかもしれません。
「分かりました。では、どうぞ」
「いえ、早とちりしないでください。私が盗るのはペンネームすべてではありません。頭文字と濁点だけです」
ほうほう、これは面白いことになりました。
大怪盗というからには名義をまるごと盗っていくのかと思いました。しかし、まさか一部の文字だけとは。N氏は驚きを通り越して関心すら覚えました。
ペンネームの「煮干信一」は漢字でもひらがなでも頭文字は「煮(に)」の一字です。濁点はカナ表記すれば分かるのですが「ニボシシンイチ」と「ボ」にしかありません。ここまでくれば、あとは楽です。本当に取ってしまえばいいのです。
煮干信一 から「に」と濁点を取れば、ホシシンイ……
そこまできてN氏は「あっ」と声をあげました。
「だ、ダメです」
そんなことをしてしまったら、
「まるで私のペンネームがパクリみたいじゃないですか」
「ええ」
大怪盗は部屋に積んであった文庫本を手に取りました。N氏が読んでいる作家はひとりだけです。
「実際そうなのでしょう」
N氏はぐうの音も出ませんでした。
家に泥棒が入ってもN氏は特にあわてることもありませんでした。住んでいるのは月々二万の安アパート。家具は男のひとり暮らしに必要最小限のものしかありません。
泥棒に入られても盗まれて困るようなものもなく、むしろ捨てるか迷っていたものを盗んでもらえたなら、踏ん切りがつきそうなほどです。
「予告した通り、あなたの大切なものを頂戴しに参りました」
「予告?」
そんなものあったか、とN氏は首を傾げます。
すると大怪盗が言います。
「七日前、ポストに予告状を投函しました。もしかして、ご覧になっていませんか」
ここ一週間はポストを開けていませんでした。
というのもN氏は八日前に届いた書面を見て以来、ポストを開けるのが億劫になっていました。
実はN氏は小説家を志望しています。毎日机に向かっては、今時珍しく紙に文章を書いているのです。作風はさっぱりしていて、ショートショートと呼ばれる短い話をいくつも書き留め、それを出版社に送っていました。
子どもの頃、表紙に惹かれて買った本が切っ掛けとなり、十年以上も
八日前、N氏のもとに届いたのは出版社に送った原稿でした。短いショートショートなら空き時間に読んでもらえるかもしれない。そんな淡い希望を抱いていました。
しかし、送り返されてきた原稿には手を付けた様子もなく、同封された紙には『弊社は現在持ち込みを受け付けておりません』とありました。
部屋には同じ文章で出版社名だけが違う紙が何枚、何十枚もあります。裏紙にしたものもあるので正確な枚数は分かりません。
さすがにここまでくると、夢は押し入れにでもしまっておいて別の道を探したほうがいいかもしれません。
いっそ今来ている大怪盗とやらに、諦めきれないこの夢を持っていってもらえれば、楽になれるのでは。
「それで、いったい何を盗みに来られたのですか」
「ですから、あなたの大切なものを、と先ほどから申しているではありませんか。予告状にもそう書きましたし」
言われて困ったのはN氏です。
大切なものと言われても、抽象的すぎて何が何だか。今考えて思い浮かぶのは残り少ない生活費です。しかし金額を考えればN氏の部屋より、アパートの他の部屋に忍び込んだ方がいいくらいです。あとは何でしょう。まさか十社連続で突き返された原稿ではないでしょう。
N氏は途方に暮れました。
大怪盗とはいえ、小説のように人を殺めず華麗に盗みをはたらくとも限りません。頂くのはあなたの命です、と言われる前に渡すものを渡して、とっととお引き取り願うのが賢明です。
「やっぱり分かりません。あなたの言う、私の大切なものとは何です」
N氏は降参というように両手を上げました。考えている間も大怪盗は待ってくれていました。こんなことなら、お茶の一杯でも出すべきでした。
すると、大怪盗は言います。
「あなたのペンネームです」
「はぁ。ペンネームですか」
N氏はそんなもの、と言いかけたのを堪えます。
机の上の原稿には「煮干信一」とヘンなペンネームが書かれています。大してひねった名前でもありません。
N氏は考えます。生活費を盗られるよりずっといいことでしょう。それに、大怪盗に狙われたということなら箔が付くかもしれません。
「分かりました。では、どうぞ」
「いえ、早とちりしないでください。私が盗るのはペンネームすべてではありません。頭文字と濁点だけです」
ほうほう、これは面白いことになりました。
大怪盗というからには名義をまるごと盗っていくのかと思いました。しかし、まさか一部の文字だけとは。N氏は驚きを通り越して関心すら覚えました。
ペンネームの「煮干信一」は漢字でもひらがなでも頭文字は「煮(に)」の一字です。濁点はカナ表記すれば分かるのですが「ニボシシンイチ」と「ボ」にしかありません。ここまでくれば、あとは楽です。本当に取ってしまえばいいのです。
そこまできてN氏は「あっ」と声をあげました。
「だ、ダメです」
そんなことをしてしまったら、
「まるで私のペンネームがパクリみたいじゃないですか」
「ええ」
大怪盗は部屋に積んであった文庫本を手に取りました。N氏が読んでいる作家はひとりだけです。
「実際そうなのでしょう」
N氏はぐうの音も出ませんでした。