第9話
文字数 6,153文字
9.
工場には遅刻ギリギリで着いた。普段は操業前ともなれば静かなものなのだが、今日だけは違った。武装警備員は明らかに普段よりピリピリしていて、抜き打ちでIDの提示を求める頻度も普段より明らかに多い。それにひそひそと広がる作業員たちの囁き声は、いっそ煩わしいぐらいだ。何とはなしに耳に入ってくるのは「主任が撃たれたらしい……」だとか「娘さん生まれたばかりだってのに……奥さんもどうするのかしら」などといった声。
私は知らなかったが、主任は意外と人望があったらしい。そこで、いやと私は自嘲する。「意外と」ではないなと。新東京都人だろうがアウターヘブンの人間だろうが分け隔てなく接するあの姿。常に現場の人間を第一に考えていた彼が慕われないわけがないだろうに、と。そんなこともわからないぐらい、私は彼のことを見ていなかったのか。そう思うと、ズキンと胸が痛んだ気がした。そんなことを考えている間にも、喧騒はいつ終わるともなく続いていて。だがそんな喧噪もそれを切り裂く怒声によってかき消された。
「おい、貴様ら!いつまでグダグダと喋っている!操業時間だぞ!配置につかんか!」
そこに立っていたのは小綺麗なスーツに身を包んだ小太りな男性。だが見慣れない顔だ。
誰だ?そんな視線が私たち作業員からその男にそそがれる。だが男はその目線が気に入らなかったらしい。つかつかと歩み寄ってくると私の隣にいた15,6歳ぐらいの少女をいきなりしたたかに殴りつけると怒鳴った。
「何だその眼つきは!俺は現場主任だぞ!俺の命令に従えないのか、ええ⁈」
そう言ってさらに蹴りつけようとする新しい「主任」を名乗る男。その腕には赤い腕章がまかれており確かに新しい「主任」というのは嘘ではないのだろう。だがこれは、あんまりじゃないか。そんなことを考えられているうちにも新しい「主任」とやらの足が降り上げられ、少女が「ひっ」と短く悲鳴を上げ、縮こまるのを見た時、気づけば一歩足を踏み出し、少女と新主任の間に割り込んでいた。
直後、腹部にガツンと言う衝撃。思ったほどの威力ではないな、という思いが沸き上がるとともに、頭の冷静な部分が「馬鹿なことを!」と叫んでいることを自覚する。実際、自分はとてつもなく馬鹿なことをしているのだろう。この新主任とやらは典型的な新東京都人だ。それも多分実家が金持ちで、これまで人に反抗されたことのない類の。そういう類の人間にはかかわらないのが一番だ。事実、これまでもそうしてきたし、今回もそうするつもりだった。それに今回かばった少女だって、一二度話したことのあるだけの、ただの同僚だ。それなのに、どうして。
そこまで考え、新主任のつけていた赤い腕章がちらりと視界をよぎる。ああなるほど、と思わず苦笑する。どうやら私は、「主任」が部下に手を上げるという光景が許せなかっただけらしい。私の知っている主任なら、絶対にそんなことはしなかった。「主任」というものを汚された。そんな思いに突き動かされてとっさに庇ってしまっただけなのだ。なんとも度し難い、と自嘲するしかない。これならまだ、同じアウターヘブンの人間を守ろうとしてとっさに体が動いていたとかの理由だったほうが、よっぽどマシであった。心底、あの「主任」は私に強い影響を与えていたらしい。先生にこれは怒られるだろうな、と思う。感情にとらわれすぎている、と。あるいはやっぱり人間なのですね、と嘆くのだろうか。
まあ、どちらでもいいか、と苦笑する。それに子供を守れたのだ、それで良しとしよう。そう思ってかすかに笑った。
だが、新主任はそんな私の態度が気に入らなかったらしい。
胸ぐらをつかむと
「何だあ、お前」
と凄んできた。ふと、こういう類の人間の凄み方は壁の外でもなかでも変わらないのだな、と可笑しくなった。今日の私はやっぱりどうかしている、こんなことを考える余裕があるなら素直に怯えたふりでもすればいいものを。
そして案の定というべきか、一向におびえた様子を見せない私にいよいよ頭に来たらしい。新主任の膝蹴りがいきなり私の腹に叩き込まれた。一瞬踏ん張って反撃してもよいのでは、という思考が頭をよぎるが慌ててそれを追い払う。やっぱり今日の私はどうかしているのだろう。そのまま逆らわずに体をくの字に折り曲げ、苦しそうに喘いで見せる。続けて下がった後頭部にガツンと肘鉄が叩き込まれる。崩れ落ちて見せてやる。そのあとは乱打、乱打、乱打の嵐だった。打撃の数も60を超え、さすがに感じる鈍痛もその激しさを増してきたころ、ようやく新主任の暴行は終わった。息を切らせた新主任が「後で主任室に来い」との捨て台詞とともに立ち去ると、恐る恐る様子をうかがっていた同僚たちが群がってきた。先頭はあの少女だ。
「お姉さん、大丈夫⁈私をかばって、そんな!」
と今にも泣きだしそうな顔をしている。その様子がちょっと慌てるユーリに似ていて、何だかかわいいな、なんて思ってしまう。そしてそのまま身を起こす。「待て、内臓が破裂している可能性がある、簡単に動くな」なんて親切な言葉をかけてくれる人もいたが、何、この身は全身義体だ。その心配はない。身に響く鈍痛だって、痛覚レベルをいじればへっちゃらだ。手を貸そうとする手を丁寧に遠慮してゆっくりと立ち上がる。顔見知りのおばちゃんが話しかけてくる。
「それにしても驚いたよ。糸杉さんがそんな熱い人だとは思わなかった。だって、ほら糸杉さんって誰に対しても一線を引いたようなところがあったから……」
うんうんとうなずく周囲の同僚。そうか、私はそんな風に見られていたのか。思わず苦笑する。殺し屋が必ずしも社会に溶け込まなくてはいけないわけではないとはいえ、これはあんまりだ。思わず笑ってしまう。だがそんな姿も彼らからしたら意外だったようで、さっきのおばさんなんて「あんた、笑うんだね」なんて言ってきた。私だって人間ですからと返した。そう、案外私は人間なのかもしれない。そう思った。「そりゃそうだ」と見知らぬおじさんが言う。皆がどっと笑う。だがそんな穏やかな雰囲気もいつまでは続かない。
「いつまで待たせるつもりだ!さっさと来ないか!」
という新主任の怒鳴り声で穏やかな雰囲気は雲散霧消する。心配そうな顔をする皆に一つお辞儀をすると、主任室に向かった。
主任室は今どき珍しい煙草の煙で一杯だった。銘柄を見ればアークロイヤル。高級品だ。やっぱりお金持ちのボンボンらしい。内心毒づく。私が入ってきたのに気付いたらしい。スチール製の椅子を回転させ私に向き合うと、いらただしげに吐き捨てた。
「さっきのは何だ?ヒーロー気取りか?さぞやご満悦なことだろうなあ?ああ?」
「いえ」
私は端的に否定する。だがそれも気に入らなかったらしい。フン、と大きく鼻息を吐いた。
だが手元の電子端末を手に取って何事かを操作すると、途端ににやにやとした笑みを浮かべだす。それはまるで猫が獲物をいたぶるような笑顔で。
「そんなことはまあいい。お前は糸杉百合、であっているな。」
「はい」
私は短く答える。
「そうか」
とにやりと笑みを深くする新主任。端末を操作すると私にも見えるように広げてくる。そこにあるのは上層部の私に対する勤務評定だった。忠誠心に疑問あり、利己的、様々なマイナス評価が書かれている。
「ずいぶんな嫌われっぷりだなあ、ええ?」
にやにやと笑う新主任。シフトの変更を繰り返し願ったのが原因か、それとも枕営業を蹴ったのが原因か、わからない。わからないが、どうでもよかった。
「そうですね。」
だがその答えは新主任のお気に召すものではなかったらしい。フン、と一つ鼻息を吐くと、再びニヤニヤ笑顔を浮かべるとつづけた。
「本来のところ、お前は解雇されるべきゴミだ。クズだ。役立たずだ。だが執拗に主任がお前の解雇に反対していてなあ。なかなか解雇できなかったというわけだ。主任様様だな。まあその主任もどこかの間抜けに殺されたわけだが。」
そういうとがははと下品に笑う主任。この場でいっそ縊り殺そうか。やめておけと理性がささやくにもかかわらず、目線が鋭くなるのを押さえられない。
だが私の目つきが厳しくなったのを新主任は別の意味にとらえたらしい。してやったりという笑顔でさらに話を続ける。
「といっても、俺だって鬼じゃない。お前も生意気ではあるが今じゃ俺の部下だ。お前の努力次第では、俺も上層部に説明してやってもいいんだがなあ」
その顔は好色そうにゆがんでいて。ああ、そういうことかと私は納得する。でも念のために聞く。
「……それで私に何をしろと?」
勝ち誇ったような笑みとともに新主任は言う。
「簡単だ。お前、俺の女になれ。何、望めばアッパー系の薬だって用意できる。前の主任とどんなふうに寝ていたかは知らんが、俺の方が確実にうまいぞ」
その眼は泥のように濁り切っていて。ここまでわかりやすいと清々しくなるくらいだ。こいつも他の新東京都人と同じ。私をただの肉人形としか見ていない。同じ人間としてみていないのだ。新東京都人がこんなクズばっかりだったら私は悩まずに済んだのに。そんな思いは顔にも出さず、私は端的に答える。
「お断りします。」
「なに?」
断られるとは思っていなかったのだろう。新主任の両目が驚愕に見開かれる。まあ、確かに普通の女性ならここで断ることはできまい。それに私も、一回ぐらいおとなしく抱かれた方が賢明だ、という認識はある。ただ一回抱かれるだけで、この職場を失わずに済むのだから。だがユーリの顔がちらついて、どうしてもそれを言うことはできなかった。後、主任の顔も。
「お話はそれだけでしょうか。ならば業務に戻らせていただきますが」
そう言って引き返そうとする私。まあ、そうは問屋が卸すはずもなく
「お前、自分が何を言っているのかわかっているんだろうな」
まるで地獄の底から漂ってくるような、心底怨嗟に満ちた声が背中にかけられる。
「ええ、それに貯金ならありますし」
だがそれに付き合ってやる由もなし。そしてそのまま部屋から出ようとして
「ふ、ふざけるなア!」
そんな声とともに肩を掴まれる。はずみにつなぎの前ボタンがプチプチとはじける。
このまま押し倒してことに及んでしまえと思ったのだろう。その動きはやけに手馴れていて、以前にもこうした行為に及んだことがあることをうかがわせる。
だが
「ば、ばかな……」
新主任が呻く。そもそも生身の人間が、それなりに本気で抵抗する全身義体を押し倒せるはずがないのだ。むしろ、逆につかまれている新主任の腕が、ぎりぎりと悲鳴を上げる始末。
「は、離せ!」
唾をまき散らし必死に叫ぶ新主任。その顔は腕を握りつぶされる恐怖に青ざめている。正直なところ握りつぶしたい気持ちはやまやまだ。だが明らかに上層部とコネのありそうな男の腕を握りつぶした暁には、いくら手が足りないとはいえ新都警は絶対にそんなことをした犯人を許さないだろう。ユーリにだって迷惑をかけかねない。だから、ほどほどに痛めつけたところで開放する。
涙目になりながら後ずさる新主任。
「お、お前は首だ!」
だがその宣告を震えながらもできたことは、まあ上出来というべきだろう。無言で頭を下げると、主任室を後にした。
私物を取りに工場に戻る。心配してくれていたのだろう。同僚たちが私のもとに集まってきてくれた。先ほどの少女などは、私のはだけた胸を見て、最悪の想像をしたのだろう。「お姉さん、そんな!」と今にも泣きそうな顔をしている。心配されるようなことはされてないよ、と頭を撫でてやる。そして皆に首になったことを伝え今までお世話になったお礼を述べる。はああ、と皆のため息。皆もうすうすそんな結果になることを察していたのだろう。その表情にはあきらめの色が浮かんでる。そう、あの主任のもとで忘れかけていたが、こうした扱いを受けるのが私たちアウターヘブンの人間なのだ。ユーリに何と説明しよう。そう考えながら工場を出るとき、おばさんのこぼした「主任さんが生きてくれてたらねえ」という言葉だけが、いやに耳に残った。
工場を出て、空を仰ぐ。太陽はまだ高い。ちょっとゲート前でユーリに何かお土産を買って言ってやった方がいいかもしれない。そう思いながらゲートを目指す。
その道すがら、屋台で私のお昼として培養肉の串焼きを買う。あたりを見渡す。やけに重武装の警官が多い。昨日の狙撃事件の目撃情報を求めているようだ。これだけの数の警官が狙撃犯追跡に回っていれば、さすがにそろそろ新都警もキャパオーバーだろう。これできっと先生の次の計画もしやすくなるはずだ。そう考え、なぜかざわつくわたしの心をなだめつつゲートに向かう。何となく、ここにいたくなかった。お土産は、ゲートを超えた先の闇市で探そう。そう考え、足早にゲートに向かう道すがら、私は見てしまった。
重武装の警官たちに向かって、赤子を抱えて、すさまじい形相で何事かをまくしたてている若い女性がいる。もとは気弱そうな顔立ちだけに、今の鬼気迫る顔つきは、まさしく般若の形相とでも言うべきものだった。あの声を、聴くべきではない。本能的に理解する。聴いたら絶対に後悔する。そう、わかった。だから私は可能な限り足早でゲートを目指す。だが、強化された私の耳は、その声を、女性の嘆きを拾ってしまった。彼女は言う。
「どうして、どうして私の夫についての捜査はされないんですか!すぐそこで、私の夫は撃ち殺されたのに!」
重武装の警官たちはいかにも面倒くさそうな顔で返事をしている。
「いやいや、してますよ。奥さん、あんまりこういうことは言いたくないんですけど、我々も忙しいんですよ。物事には優先順位ってものがありましてね……」
女性は泣き叫ぶ。喉も裂けよといわんかばかりに。
「そんな!だからって私の夫の捜査はおざなりにするの⁈私の夫を返してよ!ねえ!」
いよいよ警官たちもしつこいと思ったのだろう。ここでは迷惑ですからと、丁重にしかし強引にどこかに連れて行こうとする。だが女性はいやいやと手を振り回し、周囲の人に助けを求めるように必死に声を荒らげている。だが誰もが目をそらし関わり合いになろうとしない。それでも女性は叫ぶ。
「何で、何であの人が死ななくちゃいけないのよ!何とか主任になって、赤ちゃんもやっとできたのに!どうして!」
その言葉を聞き私の手から串焼き肉が落ちる。主任といっても数多くいるだろう。だが、あの女性のいう主任とは、私の知る主任だと本能的にわかった。私は何とかしてあの女性に声をかけたかった。だが何というのか。ごめんなさい、あなたの大事な人は私が殺しましたとでもいえばいいのか。うぐっと、喉元に強烈な不快感。先ほど食べたドロドロの培養肉が逆流してくる。耐えきれずに地面に吐きだす。
周囲の人がぎょっとした目で私を見ている。親切そうな青年が大丈夫ですか、病院に行きますかと声をかけてくる。私はそうした手を振り払い、ただ呟くことしかできない。
「ごめん、なさい。ごめんな、さい。ご、めんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
その私を、ただだ太陽だけが見下ろしていた
工場には遅刻ギリギリで着いた。普段は操業前ともなれば静かなものなのだが、今日だけは違った。武装警備員は明らかに普段よりピリピリしていて、抜き打ちでIDの提示を求める頻度も普段より明らかに多い。それにひそひそと広がる作業員たちの囁き声は、いっそ煩わしいぐらいだ。何とはなしに耳に入ってくるのは「主任が撃たれたらしい……」だとか「娘さん生まれたばかりだってのに……奥さんもどうするのかしら」などといった声。
私は知らなかったが、主任は意外と人望があったらしい。そこで、いやと私は自嘲する。「意外と」ではないなと。新東京都人だろうがアウターヘブンの人間だろうが分け隔てなく接するあの姿。常に現場の人間を第一に考えていた彼が慕われないわけがないだろうに、と。そんなこともわからないぐらい、私は彼のことを見ていなかったのか。そう思うと、ズキンと胸が痛んだ気がした。そんなことを考えている間にも、喧騒はいつ終わるともなく続いていて。だがそんな喧噪もそれを切り裂く怒声によってかき消された。
「おい、貴様ら!いつまでグダグダと喋っている!操業時間だぞ!配置につかんか!」
そこに立っていたのは小綺麗なスーツに身を包んだ小太りな男性。だが見慣れない顔だ。
誰だ?そんな視線が私たち作業員からその男にそそがれる。だが男はその目線が気に入らなかったらしい。つかつかと歩み寄ってくると私の隣にいた15,6歳ぐらいの少女をいきなりしたたかに殴りつけると怒鳴った。
「何だその眼つきは!俺は現場主任だぞ!俺の命令に従えないのか、ええ⁈」
そう言ってさらに蹴りつけようとする新しい「主任」を名乗る男。その腕には赤い腕章がまかれており確かに新しい「主任」というのは嘘ではないのだろう。だがこれは、あんまりじゃないか。そんなことを考えられているうちにも新しい「主任」とやらの足が降り上げられ、少女が「ひっ」と短く悲鳴を上げ、縮こまるのを見た時、気づけば一歩足を踏み出し、少女と新主任の間に割り込んでいた。
直後、腹部にガツンと言う衝撃。思ったほどの威力ではないな、という思いが沸き上がるとともに、頭の冷静な部分が「馬鹿なことを!」と叫んでいることを自覚する。実際、自分はとてつもなく馬鹿なことをしているのだろう。この新主任とやらは典型的な新東京都人だ。それも多分実家が金持ちで、これまで人に反抗されたことのない類の。そういう類の人間にはかかわらないのが一番だ。事実、これまでもそうしてきたし、今回もそうするつもりだった。それに今回かばった少女だって、一二度話したことのあるだけの、ただの同僚だ。それなのに、どうして。
そこまで考え、新主任のつけていた赤い腕章がちらりと視界をよぎる。ああなるほど、と思わず苦笑する。どうやら私は、「主任」が部下に手を上げるという光景が許せなかっただけらしい。私の知っている主任なら、絶対にそんなことはしなかった。「主任」というものを汚された。そんな思いに突き動かされてとっさに庇ってしまっただけなのだ。なんとも度し難い、と自嘲するしかない。これならまだ、同じアウターヘブンの人間を守ろうとしてとっさに体が動いていたとかの理由だったほうが、よっぽどマシであった。心底、あの「主任」は私に強い影響を与えていたらしい。先生にこれは怒られるだろうな、と思う。感情にとらわれすぎている、と。あるいはやっぱり人間なのですね、と嘆くのだろうか。
まあ、どちらでもいいか、と苦笑する。それに子供を守れたのだ、それで良しとしよう。そう思ってかすかに笑った。
だが、新主任はそんな私の態度が気に入らなかったらしい。
胸ぐらをつかむと
「何だあ、お前」
と凄んできた。ふと、こういう類の人間の凄み方は壁の外でもなかでも変わらないのだな、と可笑しくなった。今日の私はやっぱりどうかしている、こんなことを考える余裕があるなら素直に怯えたふりでもすればいいものを。
そして案の定というべきか、一向におびえた様子を見せない私にいよいよ頭に来たらしい。新主任の膝蹴りがいきなり私の腹に叩き込まれた。一瞬踏ん張って反撃してもよいのでは、という思考が頭をよぎるが慌ててそれを追い払う。やっぱり今日の私はどうかしているのだろう。そのまま逆らわずに体をくの字に折り曲げ、苦しそうに喘いで見せる。続けて下がった後頭部にガツンと肘鉄が叩き込まれる。崩れ落ちて見せてやる。そのあとは乱打、乱打、乱打の嵐だった。打撃の数も60を超え、さすがに感じる鈍痛もその激しさを増してきたころ、ようやく新主任の暴行は終わった。息を切らせた新主任が「後で主任室に来い」との捨て台詞とともに立ち去ると、恐る恐る様子をうかがっていた同僚たちが群がってきた。先頭はあの少女だ。
「お姉さん、大丈夫⁈私をかばって、そんな!」
と今にも泣きだしそうな顔をしている。その様子がちょっと慌てるユーリに似ていて、何だかかわいいな、なんて思ってしまう。そしてそのまま身を起こす。「待て、内臓が破裂している可能性がある、簡単に動くな」なんて親切な言葉をかけてくれる人もいたが、何、この身は全身義体だ。その心配はない。身に響く鈍痛だって、痛覚レベルをいじればへっちゃらだ。手を貸そうとする手を丁寧に遠慮してゆっくりと立ち上がる。顔見知りのおばちゃんが話しかけてくる。
「それにしても驚いたよ。糸杉さんがそんな熱い人だとは思わなかった。だって、ほら糸杉さんって誰に対しても一線を引いたようなところがあったから……」
うんうんとうなずく周囲の同僚。そうか、私はそんな風に見られていたのか。思わず苦笑する。殺し屋が必ずしも社会に溶け込まなくてはいけないわけではないとはいえ、これはあんまりだ。思わず笑ってしまう。だがそんな姿も彼らからしたら意外だったようで、さっきのおばさんなんて「あんた、笑うんだね」なんて言ってきた。私だって人間ですからと返した。そう、案外私は人間なのかもしれない。そう思った。「そりゃそうだ」と見知らぬおじさんが言う。皆がどっと笑う。だがそんな穏やかな雰囲気もいつまでは続かない。
「いつまで待たせるつもりだ!さっさと来ないか!」
という新主任の怒鳴り声で穏やかな雰囲気は雲散霧消する。心配そうな顔をする皆に一つお辞儀をすると、主任室に向かった。
主任室は今どき珍しい煙草の煙で一杯だった。銘柄を見ればアークロイヤル。高級品だ。やっぱりお金持ちのボンボンらしい。内心毒づく。私が入ってきたのに気付いたらしい。スチール製の椅子を回転させ私に向き合うと、いらただしげに吐き捨てた。
「さっきのは何だ?ヒーロー気取りか?さぞやご満悦なことだろうなあ?ああ?」
「いえ」
私は端的に否定する。だがそれも気に入らなかったらしい。フン、と大きく鼻息を吐いた。
だが手元の電子端末を手に取って何事かを操作すると、途端ににやにやとした笑みを浮かべだす。それはまるで猫が獲物をいたぶるような笑顔で。
「そんなことはまあいい。お前は糸杉百合、であっているな。」
「はい」
私は短く答える。
「そうか」
とにやりと笑みを深くする新主任。端末を操作すると私にも見えるように広げてくる。そこにあるのは上層部の私に対する勤務評定だった。忠誠心に疑問あり、利己的、様々なマイナス評価が書かれている。
「ずいぶんな嫌われっぷりだなあ、ええ?」
にやにやと笑う新主任。シフトの変更を繰り返し願ったのが原因か、それとも枕営業を蹴ったのが原因か、わからない。わからないが、どうでもよかった。
「そうですね。」
だがその答えは新主任のお気に召すものではなかったらしい。フン、と一つ鼻息を吐くと、再びニヤニヤ笑顔を浮かべるとつづけた。
「本来のところ、お前は解雇されるべきゴミだ。クズだ。役立たずだ。だが執拗に主任がお前の解雇に反対していてなあ。なかなか解雇できなかったというわけだ。主任様様だな。まあその主任もどこかの間抜けに殺されたわけだが。」
そういうとがははと下品に笑う主任。この場でいっそ縊り殺そうか。やめておけと理性がささやくにもかかわらず、目線が鋭くなるのを押さえられない。
だが私の目つきが厳しくなったのを新主任は別の意味にとらえたらしい。してやったりという笑顔でさらに話を続ける。
「といっても、俺だって鬼じゃない。お前も生意気ではあるが今じゃ俺の部下だ。お前の努力次第では、俺も上層部に説明してやってもいいんだがなあ」
その顔は好色そうにゆがんでいて。ああ、そういうことかと私は納得する。でも念のために聞く。
「……それで私に何をしろと?」
勝ち誇ったような笑みとともに新主任は言う。
「簡単だ。お前、俺の女になれ。何、望めばアッパー系の薬だって用意できる。前の主任とどんなふうに寝ていたかは知らんが、俺の方が確実にうまいぞ」
その眼は泥のように濁り切っていて。ここまでわかりやすいと清々しくなるくらいだ。こいつも他の新東京都人と同じ。私をただの肉人形としか見ていない。同じ人間としてみていないのだ。新東京都人がこんなクズばっかりだったら私は悩まずに済んだのに。そんな思いは顔にも出さず、私は端的に答える。
「お断りします。」
「なに?」
断られるとは思っていなかったのだろう。新主任の両目が驚愕に見開かれる。まあ、確かに普通の女性ならここで断ることはできまい。それに私も、一回ぐらいおとなしく抱かれた方が賢明だ、という認識はある。ただ一回抱かれるだけで、この職場を失わずに済むのだから。だがユーリの顔がちらついて、どうしてもそれを言うことはできなかった。後、主任の顔も。
「お話はそれだけでしょうか。ならば業務に戻らせていただきますが」
そう言って引き返そうとする私。まあ、そうは問屋が卸すはずもなく
「お前、自分が何を言っているのかわかっているんだろうな」
まるで地獄の底から漂ってくるような、心底怨嗟に満ちた声が背中にかけられる。
「ええ、それに貯金ならありますし」
だがそれに付き合ってやる由もなし。そしてそのまま部屋から出ようとして
「ふ、ふざけるなア!」
そんな声とともに肩を掴まれる。はずみにつなぎの前ボタンがプチプチとはじける。
このまま押し倒してことに及んでしまえと思ったのだろう。その動きはやけに手馴れていて、以前にもこうした行為に及んだことがあることをうかがわせる。
だが
「ば、ばかな……」
新主任が呻く。そもそも生身の人間が、それなりに本気で抵抗する全身義体を押し倒せるはずがないのだ。むしろ、逆につかまれている新主任の腕が、ぎりぎりと悲鳴を上げる始末。
「は、離せ!」
唾をまき散らし必死に叫ぶ新主任。その顔は腕を握りつぶされる恐怖に青ざめている。正直なところ握りつぶしたい気持ちはやまやまだ。だが明らかに上層部とコネのありそうな男の腕を握りつぶした暁には、いくら手が足りないとはいえ新都警は絶対にそんなことをした犯人を許さないだろう。ユーリにだって迷惑をかけかねない。だから、ほどほどに痛めつけたところで開放する。
涙目になりながら後ずさる新主任。
「お、お前は首だ!」
だがその宣告を震えながらもできたことは、まあ上出来というべきだろう。無言で頭を下げると、主任室を後にした。
私物を取りに工場に戻る。心配してくれていたのだろう。同僚たちが私のもとに集まってきてくれた。先ほどの少女などは、私のはだけた胸を見て、最悪の想像をしたのだろう。「お姉さん、そんな!」と今にも泣きそうな顔をしている。心配されるようなことはされてないよ、と頭を撫でてやる。そして皆に首になったことを伝え今までお世話になったお礼を述べる。はああ、と皆のため息。皆もうすうすそんな結果になることを察していたのだろう。その表情にはあきらめの色が浮かんでる。そう、あの主任のもとで忘れかけていたが、こうした扱いを受けるのが私たちアウターヘブンの人間なのだ。ユーリに何と説明しよう。そう考えながら工場を出るとき、おばさんのこぼした「主任さんが生きてくれてたらねえ」という言葉だけが、いやに耳に残った。
工場を出て、空を仰ぐ。太陽はまだ高い。ちょっとゲート前でユーリに何かお土産を買って言ってやった方がいいかもしれない。そう思いながらゲートを目指す。
その道すがら、屋台で私のお昼として培養肉の串焼きを買う。あたりを見渡す。やけに重武装の警官が多い。昨日の狙撃事件の目撃情報を求めているようだ。これだけの数の警官が狙撃犯追跡に回っていれば、さすがにそろそろ新都警もキャパオーバーだろう。これできっと先生の次の計画もしやすくなるはずだ。そう考え、なぜかざわつくわたしの心をなだめつつゲートに向かう。何となく、ここにいたくなかった。お土産は、ゲートを超えた先の闇市で探そう。そう考え、足早にゲートに向かう道すがら、私は見てしまった。
重武装の警官たちに向かって、赤子を抱えて、すさまじい形相で何事かをまくしたてている若い女性がいる。もとは気弱そうな顔立ちだけに、今の鬼気迫る顔つきは、まさしく般若の形相とでも言うべきものだった。あの声を、聴くべきではない。本能的に理解する。聴いたら絶対に後悔する。そう、わかった。だから私は可能な限り足早でゲートを目指す。だが、強化された私の耳は、その声を、女性の嘆きを拾ってしまった。彼女は言う。
「どうして、どうして私の夫についての捜査はされないんですか!すぐそこで、私の夫は撃ち殺されたのに!」
重武装の警官たちはいかにも面倒くさそうな顔で返事をしている。
「いやいや、してますよ。奥さん、あんまりこういうことは言いたくないんですけど、我々も忙しいんですよ。物事には優先順位ってものがありましてね……」
女性は泣き叫ぶ。喉も裂けよといわんかばかりに。
「そんな!だからって私の夫の捜査はおざなりにするの⁈私の夫を返してよ!ねえ!」
いよいよ警官たちもしつこいと思ったのだろう。ここでは迷惑ですからと、丁重にしかし強引にどこかに連れて行こうとする。だが女性はいやいやと手を振り回し、周囲の人に助けを求めるように必死に声を荒らげている。だが誰もが目をそらし関わり合いになろうとしない。それでも女性は叫ぶ。
「何で、何であの人が死ななくちゃいけないのよ!何とか主任になって、赤ちゃんもやっとできたのに!どうして!」
その言葉を聞き私の手から串焼き肉が落ちる。主任といっても数多くいるだろう。だが、あの女性のいう主任とは、私の知る主任だと本能的にわかった。私は何とかしてあの女性に声をかけたかった。だが何というのか。ごめんなさい、あなたの大事な人は私が殺しましたとでもいえばいいのか。うぐっと、喉元に強烈な不快感。先ほど食べたドロドロの培養肉が逆流してくる。耐えきれずに地面に吐きだす。
周囲の人がぎょっとした目で私を見ている。親切そうな青年が大丈夫ですか、病院に行きますかと声をかけてくる。私はそうした手を振り払い、ただ呟くことしかできない。
「ごめん、なさい。ごめんな、さい。ご、めんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
その私を、ただだ太陽だけが見下ろしていた