第10話

文字数 5,102文字

10.
どこをどう歩いたのか。正直そのあとの記憶は薄い。ただわかっているのは私たちの住むアパートについたのはすっかりと日が暮れてしまってからだったってことだけ。鍵もさまよい歩いている間に失くしてしまったようで、ポケットの中にもどこにもなかった。

仕方がないのでチャイムを押す。ピンポーンという音とともに、「はーい!」という元気のいい返事。とととととと廊下をユーリが廊下を走る音が聞こえた後、「どちら様ですかー?」という誰何とともに、ガチャリとドアが開いた。ユーリは最初、こちらが誰だか気づいていないようだったが、すぐに私が百合だと気付くと猛然と文句を言いだした。

「あー!百合ちゃんじゃん!もー、こんな時間までどこに行ってたの?それに昨日だって!全然連絡はとれないし!やっと連絡が来たと思ったら『今夜はバイトで帰れない』ってことだけ!どれだけ私が心配したと……」

そこにあるのは私を純粋に心配する心。それと、無事に私が帰ってきたことに対する安堵。私はふと思う。主任にもこうやって、帰りを心配して待つ人はいたのだ。それを、私の不注意が、主任を帰らぬ人としたのだ。何と自分は罪深いことをしたのだろう。そう思うと、涙が後から後からあふれてくる。耐えきれず、思わずユーリを抱きしめる。

ユーリは突然泣き出しユーリを抱きしめた私にかなり驚いていたようだったけれど、すぐに何かがあったと察してくれたのだろう。私の頭を胸元にうずめると、頭を優しく抱きしめ、背中をポンポンと叩いてくれた。「大丈夫だよ。百合ちゃん。私はここにいるよ」そう言いながら。ユーリはとても暖かくて、柔らかくて。ああ、ユーリは生きているのだな、と思った。もうこらえることはできなかった。

私は10何年ぶりに、わんわんと声をあげて泣いた。ごめんなさい、ごめんなさいと謝った。ユーリからすれば、全くわけのわからない事態だっただろう。同居人が全然帰ってこないと思えば、帰ってくるなりわんわんと泣きだし、その挙句ここにはいない第三者に向けて謝罪を繰り返し始めるのだから。それでもユーリは、私を優しく抱きしめてくれていた。私が落ち着くまで、ずっと。

それからどれぐらいの時間がたっただろう。

「落ち着いた?」

「……うん」

ユーリの問いかけに静々と頷く。

「良かった……」

そういうとユーリはゆっくりと身を離す。ああ、ぬくもりが、ユーリが離れていく。

「あ……。」

思わず離れていくユーリに手を伸ばす。だがユーリは苦笑して私の頭を一撫ですると

「お話はあとでゆっくり聞くから、今はお風呂に入ったら?百合ちゃん、ちょっと匂うよ」

と言われた。そう言われてつなぎの裾を鼻の前にもってきて匂いをかいでみる。吐いたり、雑居区をほっつき歩いたせいか、確かに匂う。それでもユーリは私を抱きしめてくれていたのだと思うと、ちょっと胸が温かくなった「ありがとう」そう言い残してお風呂場へ向かう。しっかりと湯船に体を沈めた後、手早く体を洗う。そして風呂から出てみると夕食が(といっても配給食糧B型ではあったが)用意されていた。どこから話したものか、と逡巡していると「長くなるんでしょう?あとでベッドの上で話そう?」といわれてしまった。

確かにそうだ。私は苦笑すると頷いた。夕食の間、会話はなかった。お互いが食べ終わると、ユーリが言った。「じゃあ、いこっか。」私は頷く。手をつないでユーリの部屋兼寝室に向かう。ベッドに並んで横になる。そして電気の消された寝室で、ユーリが言う。

「それで、何があったの?」

その言葉の裏には言いたくないことは言わなくてもいいんだよ、といういたわりの心が満ちていて。気づけば、私はせきを切ったように話しだしていた。昔、壁のせいで酷い差別を受けたこと。そのせいで壁が、壁向こうの人が憎くて憎くて仕方がなかったこと。ただ、壁向こうにだっていい人はいるということ。そして壁向こうの人も生きているのだということを知ってしまったこと。そして、そのことを気付かせてくれた人はもう死んでしまったこと。そしてその死には私の責任が大きいこと。
それで、正直、壁を憎めばいいのか何を憎めばいいのかわからなくなってしまったこと。

これらに関して、私が殺し屋をやっていたことや先生のこと、私が人体実験を受けたことに関しては全く言わなかったから、正直それははたから聞いていて意味が分からない言葉の羅列であっただろう。だがそれでもユーリは辛抱強く聞いてくれて、いちいちそうだね、なるほどと相槌を打ってくれた。

ユーリはあらかた私の話を聞くとぽつりと言った。「それは、辛かったね」と。その言葉は心底いたわりに満ちていて。思わず涙ぐみそうになる。続けて言う。

「百合ちゃんが敢えて言わなかった部分に関しては何も聞かないよ。でも百合ちゃんが壁を憎む理由、少しわかった気がする。」

と。ユーリは続ける。「でもさ、私は思うんだ。壁ってそんなに悪いものなのかなって」。ユーリは言う。そもそも壁は旧時代相次ぐ貧民による富裕層に対するテロを防止するために作られたものであること。壁建設によって、明らかにテロの件数は減ったこと。ユーリの両足も部下もテロによって失われてしまったけれど、壁のおかげでこんなつらい思いをする人は少なくとも減ったのだと。そうユーリは微笑んでいった。さらにユーリは続ける。

「私の名前、ユーリ・スターチスって名前からもわかると思うけど、私って亡命者の子供でさ」と。前にもそんなことを言っていたね、と私は頷く。ユーリは続ける。

「私は亡命前の生活を覚えているよ。あそこはね、本当の地獄」そんなことを言うユーリはひどく遠い目をしていて。初めて聞いた、というとユーリは話して楽しい話じゃないからね、と苦笑する。ユーリは続ける。日本において旧時代の混沌といわれるとき、世界中も同じような混乱に襲われていた。ユーリの祖国も例外ではなかったという。迫りくる経済的混乱の中で政府は統治能力を喪失。ユーリの住んでいた地域は有数の資源地帯だったことから、度々軍閥化した政府軍や反政府軍の襲撃を受けたという。そこで多くの友達や親族が死んだという。

ユーリの妹も、そこで死んだとユーリは語る。「人ってね、簡単に死んじゃうの。」ユーリはタガの外れたような表情でそう言った。知ってるよ。私は内心つぶやく。私はずっと殺す側だったから。

ユーリはつぶやくような声で続ける。だからこそ、ユーリの家族は故郷を捨てることにしたのだと。だがその流浪の旅も決して楽ではなかったと語る。度々そのキャラバンは盗賊に、民兵に襲われたという。「3人いたお兄ちゃんもみんな死んじゃった」とユーリは語る。その表情はどこか迷子の子供のようで。思わずユーリの頭を抱きしめる。ユーリはニヘラと笑うとつづける。

でも、この国にやってきてすべてが変わったのだと。道を歩いていてもいきなり爆弾が降ってきたりもしない。壁の外の人間だって、黙っていても食料は配給される。飢えと突然の死におびえて暮らしていた祖国とは比べ物にならないぐらい恵まれた生活。父さんも母さんもこの国に来てすぐに死んでしまったけれど、埋葬することだってできた。野ざらしに撃ち捨てることしかできなかった逃避行中とは大違いだとユーリは笑う。それに頑張った結果、綺麗な街の中で働くことができて、こうして足を失っても働かせてもらって結構なお給料をもらっていると。

「だからね、私は壁に感謝してるんだ。私にすべてを与えてくれたから」

そう、ユーリは言う。そして続ける。そこには普段の、おちゃらけた様子など微塵もない。ひどく静かな目でユーリは続ける。

「だからさ、私は思うの。壁はさ、絶対憎まなきゃいけない悪じゃないんだよ」

「壁の向こうにだっていい人がいるように、壁にだって、いい点もある。そう思うことはできないのかな」

私は考える。確かにユーリのいうように、壁があるから救われている命もあるのだろう。そう、壁は憎むべき絶対悪などではないのかもしれない。ああ、その考えの何と魅惑的なことか。もし、私もそう考えることができれば今ある壁に対する憎しみもやがては薄れていき、「壁」のある生活をいつしか受け入れることができるのかもしれない。

でも。でも、どうしたってそう考えることはできなかった。脳裏によみがえるのは家族の最期。もう度重なる実験で父さんの顔も母さんの顔も、兄貴の顔すらも思い出すことはできない。だけど、みんな私を逃がそうとして撃ち殺されたことだけは覚えている。「おい、■■!百合を連れて逃げろ!」「お願い!あの子には、あの子たちにだけは手を出さないで!」「百合、ここに隠れて絶対に動くなよ。お兄ちゃんとの約束だ」
あの時の声が脳裏にこびりついて離れない。

そして、あの忌まわしい研究所での生活。
数えきれない数の子供たちが、あの研究所で消費されていった。そう、消費、消費されたのだ。ただ殺されたのではない。脳を、体をいじくりまわされ、痛みと狂気に悶えながら、糞尿をまき散らして死んでいった。「死にたくない、死にたくない!」「痛い、痛い!」「えへへへあはははうふふ。」あの痛みと狂気に満ちた叫び声だけは、忘れることができない。

それに、運良く生き残った私たちにしてもこの身はほとんどが機械仕掛けだ。体のほとんどが機械に置きかえられた日から、私たちは歳をとることができなくなった。10年たとうと20年たとうと。見た目が変わることなどない。機械の寿命が来る日まで私たちは基本的に死ぬことはない。その例外はこのチタン製外骨格に覆われた頭蓋を吹き飛ばされることのみ。それ以外の手段で、私たちは死ねない。私たちは、生物として当たり前に生き、当たり前に死ぬ権利すら奪われたのだ。私たちはいわば、機械でもなければ生物ですらない。ただの化け物。クリーチャー、フリークス。あるいはイモータル、だなんて言い方もできるかもしれない。私たちは、いや、私はそういう呼び方をされる存在にされたのだ。

私をそんな存在にして、本来得られるべきであった私の幸せな生活。人として当たり前に生きて当たり前に死ねる未来を奪った「壁」がどうしても許せないのだ。この憎悪は、決して晴れることはない。

そこまで考え私は、ああそうか、と気づく。私は、別にただ壁が憎いわけでも、先生みたいに壁のない世界が見たいわけでもないのだ。私は、私からすべてを奪ったこの世界が憎いだけなのだ。この世界のすべてが、憎くて恨めしくてたまらない。この世界を壊し尽くしてしまいたいほどに。そしてこの世界を成り立たせているものこそが「壁」なのだ。だからこそ、私は「壁」の破壊を心底望む。考えてみれば簡単なことではないか。何をぐずぐず悩んでいたのだろう。ばかばかしい、と自嘲する

確かに、壁が人々の救いとなっている部分もあるのかもしれない。いいだろう、認めよう。確かに壁が人々を助けている場面もあるということを。

だが、それが、何だというのだ?もちろん、壁を壊せば彼らは苦しむだろう。場合によっては死ぬかもしれない。だが、それが一体どうしたというのだ。どうしてそのことが、私の復讐をやめる原因になる?私はただ、この世界が憎くて憎くてたまらないというのに。こんなにも、壁を壊したくてたまらないというのに。

だからこそ、あえて言おう。壁なんて壊れてしまえ。その結果、どれだけの人間が死のうが構うものか。壁の中の人間も、壁の外の人間も、みんなみんな死ねばいい。この壁によって与えられた生活を良しとするものはみんな、死ねばいいのだ。

こんなことを考える私は狂っているのだろうか。おそらくは狂っているのだろうな、と思う。だが、そもそも何をもって狂気というのだ。狂気とは、相対的なものだ。世界そのものが狂っているのなら、正気なのは私の方だ。私は別に、間違ったことは言ってない。

それに、それに、もし。私が実は本当に狂っているのだとしても、それはそれで別に問題はない。もとより、正気で殺し屋などできるはずがないのだから。きっと、こんなことを考える私は、骨の髄から殺し屋なのだと、そう実感する。ああ、心が冷えていくのがわかる。氷のように、鉛のように。多分、今なら主任を撃ち殺しても何にも思わないだろう。なぜだか、そんな予感がする。

だから、私はユーリに謝る。ごめんね、やっぱり私は壁を好きにはなれそうにないや、と。

そっか、と寂しそうに微笑んだユーリ。私はそっとユーリの顔から目を背ける。その眼から一筋の涙がこぼれたのはきっと、目の錯覚なのだと、そう信じて。

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