第7話
文字数 3,291文字
7.
「何で殺したんです、先生!」
そう小さく叫ぶ私に先生が向ける目はひどく冷たい。「それは君のミスでしょう」先生は不愉快そうに吐き捨てる。
「帰りが遅いと様子を見に来てみれば……!直にここには人が来ます。場所を移しましょう。私のBARまで来てください」
とせかすように私の服を引っ張る先生。でもそれでは。主任の遺体が。
「しかし!」思わず反論の言葉が口を突いて出そうになる。だが、いきなり胸ぐらをつかまれ引き寄せられた。
「いいから来い!」
押し殺した先生の怒鳴り声。目に宿るのは紛れもない憤怒。手はわなわなと震え、目は血走っている。先生がここまで怒っているのをはじめてみた。思わず黙り込む私。先生はごほんと咳をすると、「失礼、取り乱しました」という。もう、その姿に先ほどの憤怒は感じられない。だが先ほどの憤怒は本当だった。黙って頷くことしかできない。先生はポンポンと私の頭をなでると
「すみませんが、じきに人が集まってくるのは本当です。あまりこの姿は見られたくない。BARまでついてきてくれませんか」
という。私は黙ってうなずく。
BARにつくまで二人とも無言だった。セキュリティが解除される音とともにドアが開く。つい昨日来たばかりだというのに、その内装はなぜだかくすんで見えた。
「何を飲みますか。紅茶?コーヒー?」
優しく問いかけてくる先生。昨日までの私なら、喜び勇んでどんな銘柄があるのかを聞いていただろう。だが、今はそんな気分にはならなかった。「はあ」とため息をこぼす先生。思わず身をすくませる。それを見て、「はあ」と先生がため息を吐く。カチャカチャと食器の触れ合う音が響く。無言の時間。今だけは何も話したくなかった。
どれぐらいの時間がたっただろう。うつむきがちにバーカウンターに座る私の目の前に、ことりと湯気の立つマグカップが置かれた。中に入っているのは茶色のややとろりとした液体。色鮮やかなミントが浮かべられている。ふんわりと甘い香りが広がる。
「……先生、これは?」
震えそうになる声を押し殺しながら先生に問いかける。
「ホットチョコレートという飲み物です。心が弱っているときには甘いものが一番です。……飲みなさい。それとも、知人を撃ち殺した相手からの飲み物はのめませんか?」
それは先生にしては珍しく皮肉気な声。それにカチンときたわけではないがマグカップをぐっとつかむと一気に飲み干す。火傷しそうなぐらいの猛烈な熱さと、喉をやくような濃厚な甘みが口に広がり、思わずむせかえる。すっと差し出されるおしぼりを受け取り、零れた液体と涙をぬぐう。どうやら自分は手に持ったものの温度すら自覚できないぐらい取り乱していたようだ。でもおかげで少し、落ち着くことができた。
「落ち着きましたか?」
先生の刺すような目線が痛い。
「はい、先生。……取り乱してしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げる。
「よろしい」と若干表情を和らげる先生。だが依然として先生の目線は厳しいままだ。
「わかっているとは思いますが、あれは君のミスです。君が周りにもっと気を配っていれば、彼に目撃されることもありませんでした。そして、あの場面を目撃された以上、殺す以外の選択肢はありませんでした。……わかりますね?」
「……はい。」
私はうなずく。そう、もっとマンホールから出るときあたりを警戒すべきだった。若しくは、マンホールから出た後、すぐさま身を隠すべきだったのだ。そうすれば、主任に見つかるなんてこともなく、主任も口封じに殺されずに済んだのに。そして殺し屋としての百合としては、あそこで先生が主任を撃ったのは間違いなく断言できる。主任が通報する可能性があったか否かなどが重要なのではない。秘密を知られたということが重要なのだ。秘密を知られた以上、消すしかなかった。もし私が先生の立場でも、主任を殺していただろう。それはわかる。理屈として理解はできる。そうすべきだったということも。だが殺し屋百合としてではない、生身の百合としての心が、ずきずきと血を流して泣いていた。
「彼とは顔見知り、そうですね?」先生の問いかけ。
「……はい」
そう、2年間ともに同じ工場で働いた。立場は違えど、良い上司だった。
「だが友達というわけではなかった」
「……はい」
だからといって、友達というわけではない。こんな日が来ることも最悪想定して、一線を引いた付き合いにとどめていた。多分先方も私が一線を引いていることに気づいていたのだろう。干渉しすぎない、ほどほどの距離感を保っていたはずだった。
「もちろん恋人でもない」
「……はい」
もちろん恋人なんて関係でもなかった。ただ、他愛もない世間話をして、軽いジョークで笑いあって、お互い苦しい生活に愚痴をこぼす、それだけの関係だった。
「……ならばなぜ君はそんなに動揺してるんです!こんなこと、前に何度でもあったでしょうに!百合君らしくもない!」
先生はいら立ちの混じった声でそう吐き捨てる。こんなに苛立ちも露わにする先生をこれまで見たことがなかった。今日は先生の知らなかった姿を随分見かけるな、なんてぼんやりと思う。
それにしてもどうして私は今回に限ってこんなに動揺しているのだろう。これまでにも、その場に居合わせただけの民間人だって何人も殺してきたし、暗殺の現場で無関係な人間が巻き込まれようが別に何とも思わなかった。むしろ、忌々しい新東京都の人間が巻き込まれた日には「ざまあみろ」と、胸がすくような思いさえしたものだ。友人のように親しくなった相手を信頼を裏切り殺すことだってした。それが今回に限って何故。主任も結局は新東京都人なのに。所詮は同じ工場勤務の同僚というだけなのに。
そこまで考え、ああいやと頭を振る。おそらくは一線を引いた付き合いのつもりが、深く踏み込みすぎていたのだろう。依頼などとは関係なしに、初めて新東京都人と友好的に話した。たくさんの話を聞いた。奥さんの話。生まれたばかりの娘さんの話。たくさんの愚痴をこぼした。絶えず降りかかってくる差別意識。親身になって聞いてくれた。上にいろいろ掛け合ってくれたりもした。いろいろ苦労もあっただろうに。
そうか。私は理解した。私は彼を、主任をいつしか新東京都人の一人としてではなく、主任という一人の生身の人間として認識していたのだ。私に不幸をもたらす元凶としての新東京都人ではなく、私と同じように温かい血の通った、同じように喜び、苦悩する生身の人間であると。私はいつの間にか、彼を友達のようなものと思っていたのかもしれない。だから今、こんなにも彼を死なせて苦しんでいるのだ。
そして、私がその結論に達したころ。先生も私の考えに思い至ったらしい。「はああああああ」と、ひどく、長いため息をついた。そして適当に壁際の蒸留酒のボトルを適当に開けると、ひどく乱暴な手つきでグラスになみなみと注ぎ、ゴッゴッゴと飲み干した。
「私は、あの研究所を抜け出し、皆が私の夢に協力してくれるといってくれた時以来。君を一人の殺し屋だと思って扱ってきました。……ですが、君は、人間だったのですね」
私は沈黙で答えることしかできない。はああ、と長いため息をつく先生。その背中はこの数分で数十歳は歳をとったようにくたびれて見えた。
「今夜は泊っていきなさい。今からゲートを抜けるのは無理です。それに失った装備の補充もしなければなりません。補充はあなたが寝ているうちにやっておきますが、よろしいですね」
私は黙って頷く。
「よろしい。そこにある椅子は適当に使って構いませんので。私はいろいろやらなければならないことがあるので、これで失礼しますね。……ユーリ君への連絡も、忘れないように」
そういって床に開けられた隠し扉から自室へ戻っていく先生に、黙って頭を下げる。
そしてその頭が完全に見えなくなる直前、先生は言った。
「私は、君は殺し屋をやめるべきだと思っています。……返事は今は結構。一晩よく考えなさい。それではお休み、百合君」
その言葉を最後に、隠し扉が閉められる。私はただ、黙って唇をかみしめることしかできなかった。
「何で殺したんです、先生!」
そう小さく叫ぶ私に先生が向ける目はひどく冷たい。「それは君のミスでしょう」先生は不愉快そうに吐き捨てる。
「帰りが遅いと様子を見に来てみれば……!直にここには人が来ます。場所を移しましょう。私のBARまで来てください」
とせかすように私の服を引っ張る先生。でもそれでは。主任の遺体が。
「しかし!」思わず反論の言葉が口を突いて出そうになる。だが、いきなり胸ぐらをつかまれ引き寄せられた。
「いいから来い!」
押し殺した先生の怒鳴り声。目に宿るのは紛れもない憤怒。手はわなわなと震え、目は血走っている。先生がここまで怒っているのをはじめてみた。思わず黙り込む私。先生はごほんと咳をすると、「失礼、取り乱しました」という。もう、その姿に先ほどの憤怒は感じられない。だが先ほどの憤怒は本当だった。黙って頷くことしかできない。先生はポンポンと私の頭をなでると
「すみませんが、じきに人が集まってくるのは本当です。あまりこの姿は見られたくない。BARまでついてきてくれませんか」
という。私は黙ってうなずく。
BARにつくまで二人とも無言だった。セキュリティが解除される音とともにドアが開く。つい昨日来たばかりだというのに、その内装はなぜだかくすんで見えた。
「何を飲みますか。紅茶?コーヒー?」
優しく問いかけてくる先生。昨日までの私なら、喜び勇んでどんな銘柄があるのかを聞いていただろう。だが、今はそんな気分にはならなかった。「はあ」とため息をこぼす先生。思わず身をすくませる。それを見て、「はあ」と先生がため息を吐く。カチャカチャと食器の触れ合う音が響く。無言の時間。今だけは何も話したくなかった。
どれぐらいの時間がたっただろう。うつむきがちにバーカウンターに座る私の目の前に、ことりと湯気の立つマグカップが置かれた。中に入っているのは茶色のややとろりとした液体。色鮮やかなミントが浮かべられている。ふんわりと甘い香りが広がる。
「……先生、これは?」
震えそうになる声を押し殺しながら先生に問いかける。
「ホットチョコレートという飲み物です。心が弱っているときには甘いものが一番です。……飲みなさい。それとも、知人を撃ち殺した相手からの飲み物はのめませんか?」
それは先生にしては珍しく皮肉気な声。それにカチンときたわけではないがマグカップをぐっとつかむと一気に飲み干す。火傷しそうなぐらいの猛烈な熱さと、喉をやくような濃厚な甘みが口に広がり、思わずむせかえる。すっと差し出されるおしぼりを受け取り、零れた液体と涙をぬぐう。どうやら自分は手に持ったものの温度すら自覚できないぐらい取り乱していたようだ。でもおかげで少し、落ち着くことができた。
「落ち着きましたか?」
先生の刺すような目線が痛い。
「はい、先生。……取り乱してしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げる。
「よろしい」と若干表情を和らげる先生。だが依然として先生の目線は厳しいままだ。
「わかっているとは思いますが、あれは君のミスです。君が周りにもっと気を配っていれば、彼に目撃されることもありませんでした。そして、あの場面を目撃された以上、殺す以外の選択肢はありませんでした。……わかりますね?」
「……はい。」
私はうなずく。そう、もっとマンホールから出るときあたりを警戒すべきだった。若しくは、マンホールから出た後、すぐさま身を隠すべきだったのだ。そうすれば、主任に見つかるなんてこともなく、主任も口封じに殺されずに済んだのに。そして殺し屋としての百合としては、あそこで先生が主任を撃ったのは間違いなく断言できる。主任が通報する可能性があったか否かなどが重要なのではない。秘密を知られたということが重要なのだ。秘密を知られた以上、消すしかなかった。もし私が先生の立場でも、主任を殺していただろう。それはわかる。理屈として理解はできる。そうすべきだったということも。だが殺し屋百合としてではない、生身の百合としての心が、ずきずきと血を流して泣いていた。
「彼とは顔見知り、そうですね?」先生の問いかけ。
「……はい」
そう、2年間ともに同じ工場で働いた。立場は違えど、良い上司だった。
「だが友達というわけではなかった」
「……はい」
だからといって、友達というわけではない。こんな日が来ることも最悪想定して、一線を引いた付き合いにとどめていた。多分先方も私が一線を引いていることに気づいていたのだろう。干渉しすぎない、ほどほどの距離感を保っていたはずだった。
「もちろん恋人でもない」
「……はい」
もちろん恋人なんて関係でもなかった。ただ、他愛もない世間話をして、軽いジョークで笑いあって、お互い苦しい生活に愚痴をこぼす、それだけの関係だった。
「……ならばなぜ君はそんなに動揺してるんです!こんなこと、前に何度でもあったでしょうに!百合君らしくもない!」
先生はいら立ちの混じった声でそう吐き捨てる。こんなに苛立ちも露わにする先生をこれまで見たことがなかった。今日は先生の知らなかった姿を随分見かけるな、なんてぼんやりと思う。
それにしてもどうして私は今回に限ってこんなに動揺しているのだろう。これまでにも、その場に居合わせただけの民間人だって何人も殺してきたし、暗殺の現場で無関係な人間が巻き込まれようが別に何とも思わなかった。むしろ、忌々しい新東京都の人間が巻き込まれた日には「ざまあみろ」と、胸がすくような思いさえしたものだ。友人のように親しくなった相手を信頼を裏切り殺すことだってした。それが今回に限って何故。主任も結局は新東京都人なのに。所詮は同じ工場勤務の同僚というだけなのに。
そこまで考え、ああいやと頭を振る。おそらくは一線を引いた付き合いのつもりが、深く踏み込みすぎていたのだろう。依頼などとは関係なしに、初めて新東京都人と友好的に話した。たくさんの話を聞いた。奥さんの話。生まれたばかりの娘さんの話。たくさんの愚痴をこぼした。絶えず降りかかってくる差別意識。親身になって聞いてくれた。上にいろいろ掛け合ってくれたりもした。いろいろ苦労もあっただろうに。
そうか。私は理解した。私は彼を、主任をいつしか新東京都人の一人としてではなく、主任という一人の生身の人間として認識していたのだ。私に不幸をもたらす元凶としての新東京都人ではなく、私と同じように温かい血の通った、同じように喜び、苦悩する生身の人間であると。私はいつの間にか、彼を友達のようなものと思っていたのかもしれない。だから今、こんなにも彼を死なせて苦しんでいるのだ。
そして、私がその結論に達したころ。先生も私の考えに思い至ったらしい。「はああああああ」と、ひどく、長いため息をついた。そして適当に壁際の蒸留酒のボトルを適当に開けると、ひどく乱暴な手つきでグラスになみなみと注ぎ、ゴッゴッゴと飲み干した。
「私は、あの研究所を抜け出し、皆が私の夢に協力してくれるといってくれた時以来。君を一人の殺し屋だと思って扱ってきました。……ですが、君は、人間だったのですね」
私は沈黙で答えることしかできない。はああ、と長いため息をつく先生。その背中はこの数分で数十歳は歳をとったようにくたびれて見えた。
「今夜は泊っていきなさい。今からゲートを抜けるのは無理です。それに失った装備の補充もしなければなりません。補充はあなたが寝ているうちにやっておきますが、よろしいですね」
私は黙って頷く。
「よろしい。そこにある椅子は適当に使って構いませんので。私はいろいろやらなければならないことがあるので、これで失礼しますね。……ユーリ君への連絡も、忘れないように」
そういって床に開けられた隠し扉から自室へ戻っていく先生に、黙って頭を下げる。
そしてその頭が完全に見えなくなる直前、先生は言った。
「私は、君は殺し屋をやめるべきだと思っています。……返事は今は結構。一晩よく考えなさい。それではお休み、百合君」
その言葉を最後に、隠し扉が閉められる。私はただ、黙って唇をかみしめることしかできなかった。