第3話:ひたすらぐるぐる

文字数 1,760文字

 訪問看護師の仕事はぶどうさんのような人の場合、簡単に見える。挨拶を交わし、様子を窺い、一緒に買い物に行って楽しく会話し、よく眠れているかをさりげなく尋ねる、それだけ。ぶどうさんは薬はちゃんと服用している(少なくとも必ずそう答える)ので、重要なのは睡眠。以前は薬の調整ができなくて眠れないだけでなく、夜中に部屋を何時間もぐるぐる歩き回ったそうだ。
「あれは苦しかったねえ。今から考えれば外に出て散歩でもすればよかったのに、それさえも思いつかない。ひたすらぐるぐるしてたんだよね」
「大変でしたね。本当に」
 そう言うだけで奥歯に力を込めないといけなかった。ぶどうさんの病歴はケースカードに記録されているだけでも長く痛々しいものだったから。任意入院、措置入院、医療保護入院。30歳過ぎから間隔を空けて法に規定された入院制度のスタンプラリー。この人はどれだけ悩んだのだろう。
「ぼくは長年何人も精神科医と付き合ってきたけど、変わり者が多かったかな。医者仲間でもそう言う人が多いね」
「白衣を着てる方が医者、着ていない方が患者って言いますね」
「どうしてなのかなって自分なりに考えたんだよ。待合室で白衣を着てても変な医者に診てもらうのを待ってる間に」
 外来看護師だった頃、廊下に患者を待たせていたのがとても嫌だった。廊下を通るたびに『まだなの? 9時から待ってるんだけど』と問い詰められたり、そんな目で見られたりした。
「精神科には血液検査や内視鏡検査みたいな客観的検査はないよね。セロトロンがどうたら、ドーパミンがどうたら言うけど、そんなの測ってもらったことない。レントゲンやMRIで脳みそを写さないし、写したって『あなたの鬱の病巣がこの辺に写ってますね。その奥に躁も見え隠れしてます。わかります?』なんてことにはならないよね」
「検査して、診断して、それに基づいて手術や投薬をするという他の診療科とはすごく違いますね」
「うん。で、昔の精神科医療はひどかった、人権無視がはびこっていたらしい。『カッコーの巣の上で』って映画を見るとその辺がよくわかる。日本の入院医療は閉鎖病棟の中の牢屋みたいな部屋に入れて、暴れたら拘束衣を着せて電気ショックも与えてってことだったらしい」
 あたしは憤りさえ感じるけど、ぶどうさんは淡々と言うか、ほとんどうれしそうに話してる。「ところがわりと最近よく効く薬が次々と発明された。それで長期入院患者を退院させることができるようになり、仕事にも復帰できるようになった。少なくともそういう人が増えたのは間違いない。精神科医療の進歩は製薬会社のお蔭なんだ。製薬会社の悪口言う人多いけど、医者の方がタチ悪いよ」
「諸説ありますけど、ですね」
 ぶどうさんは『ぼくは内容は歯に衣着せず、言い方は過激だから、諸説ありますで聞いておいて』って言っている。で、あたしが代わりに言う。
「でも、二つ問題があるんだけど、わかる?」
「ええと。検査なしで問診だけで処方するから『薬が合わない、医者が合わない』でドクターショッピングしちゃう人が、いる?」
 外来看護師だった時に感じてたことからすんなり出て来た。
「ですね。もう一つは?」
「なんだろ。あの、ぶどうさんはドクターショッピングしたことないんですか?」
「ないよ」
「どうしてですか。ベテランなのに」
 うっかり言っちゃった。
「めんどくさがりだからかな。ゲームでもあまりリセマラしないし。ってこっちが質問してるんだけど」
「あ、すみません。わかりません」
「だと思った。二つ目は効く薬がない精神疾患の患者は取り残されて社会生活や就業が困難になるってこと。例えば解離性同一性障害、多重人格って小説やアニメで人気のある病気がそうだね」
 思わずうなずいてしまう。ふだんはフードを深くかぶって待合室の隅っこにいた子のことを思い出す。稀に男の子のような地味な格好をしていたあの子には対症療法的な薬しか処方されなかった。
「解離性同一障害の至適医薬品がない理由の第一はマーケットが小さいから。逆に」
「逆に躁鬱病、双極性障害は患者さんが多いから、かえって増えているから研究開発が進むんですね」
「製薬会社頑張っちゃうよね」
「なんか企業の手のひらで踊らされているような感じもありますね」
「部屋でぐるぐる回るよりはいいよ」



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