第1話:青椒肉絲の素とか使う?

文字数 1,064文字

 初めてのお客様を訪問する時は、先輩看護師に連れられ、名刺を出しながら挨拶する。ドアが開くとにおいが流れて来る。体臭、おかずのにおい、ゴミのにおい、得体の知れない他人の家のにおい。床が見えない狭い部屋。流しには汚れた食器が、食卓には郵便物がうず高く積まれている。持ち物が無駄に多すぎる。健康でおカネがないとミニマリストになれない。
 部屋の真ん中で立ったまま話をする。どうにか顔を覚えてもらおうとお客様と先輩の話に加わろうとする。邪魔にならないように、出すぎないように。笑顔がわざとらしくないだろうか。引きつっていないだろうか。薄っぺらいシーツの掛かっていない布団の方に目線がいかないようにする。

「みかんさんだっけ、今日の晩御飯は何?」
 あたしの名刺に目を落としながら、ぶどうさんは訊いて来た。先輩看護師に同じ質問をしたら、
「夕方スーパーに行って、割引シールが貼られてるのを見てから考えます」と答えられて、
「それはそれ、うまいこと言えない?」とがっかりの表情してる。
 あたしも今日は夕食作る気がしなくて、マックでも行こうかなって思ったけど、
「そうですね。青椒肉絲でも作ろうかと」
 昨日のおかずを言う。
「お、いいね、いいね。青椒肉絲の素とか使う?」
「使うこともありますけど、片栗粉とウェイパーと豆板醤があればできちゃうし」
「さらにいいね。炒め物ってちょっとくらいしくじってもなんとかなるよね」
 恋愛もそうならいいんですけどって言いそうなのを危うく呑み込んだ。

 こんな具合で初回から話が弾んだ。訪問が終わって先輩と感想戦をした。
「ぶどうさんと仲良くなれてよかったね」
「はい。いろいろ生活の様子がわかってよかったです」
「さりげない自己紹介だったんでしょうね」
「あ、そうか」
 訪問の前に見たぶどうさんのケースカードには、生活保護受給者、精神障害者手帳2級、双極性障害などなどと書かれていた。病棟にいた頃、昼はほぼほぼ寝てて、夜はとろんとした目で眠れないんですとナースステーションに眠剤をねだりに来るあの人たちが思い浮かぶ。

「あの、ぶどうさんは今はあがってないですか? 軽躁というか」
「どうしてそう思ったの?」
「口数が少し多いかなって。陽気で快適な感じだし」
「うん、そうね。そうかも。それはご本人もわかってるのよ。一年くらい前は鬱状態で本当に苦しかったみたい。ある程度の波の上がり下がりは仕方なくて、後はわかるよね」
「薬をちゃんと飲んで、ちゃんと眠れていれば良しとするしかない、ですよね」
 でも、ぶどうさんはそんな甘いおじさんじゃなかった。





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