第8話 奇行

文字数 1,169文字

 入院病棟に運び込まれた新田は、ナースステーションに一番近い病室に移された。病棟のなかで一番広い病室である。たえず看護師が行き来していて、病室内は騒然としていた。その日に手術をした患者が何人かいたようだが、全身麻酔を受けて仰向けに寝かされている新田には、何人の患者がいるのかはわからない。どの患者も痰が喉に絡んで苦しそうにしている。食べた物を吐く時のような鈍い唸り声をあげていた。

 全身麻酔中は人工呼吸器を装着するため、長時間の手術になると肺や喉に負担がかかって、気道に痰がたまりやすくなるのである。新田の手術は割と短時間であったため、気道に痰がたまることはなかった。

 ベッドの横で、母親、姉、恵子さんが座っているのがおぼろげながら確認できる。母親の方に手を差し伸べると、母親は両手で新田の手を握りしめた。

 胸から足にかけての感覚がまったく感じない。強力な麻酔がかかっているようだ。いつの間に履かされたのか、血栓症(けっせんしょう)予防のためのベージュのストッキングを、看護師が破るようにはずしていた。医療機器からピンポン、ピンポンと音が絶えず鳴っている。喉がからからだった。看護師が湿らせた綿棒で口のなかを潤してくれた。

 新田は、右手の指先でそっと手術した腹部あたりを撫でるように触った。医師の「必要に応じて開腹手術に切り替えることもあります」と言う言葉が脳裏をよぎったからである。

 開腹手術後の傷跡は出来れば避けたかった。触った感触では、手術した腹部あたりは絹漉(きぬごし)のようになめらかだった。腹腔鏡手術は無事に成功したようだ。

 恵子さんは、家族水入らずで話をすることがあるだろうと言って、ひとりで帰って行った。ところが、しばらくすると姉も認知症の母親を残したまま帰ってしまったのである。面談時間は夜八時までで、家族であっても病院に泊まることは出来ないことになっている。時間は夜八時を過ぎていた。担当の看護師が、姉の携帯に何度連絡してもつながらないと文句を言ってきた。

 認知症の母親は、夢遊病者のように病棟の廊下を歩き回っている。看護師達は話し合いのすえ、母親を一時ナースステーションに保護することにした。担当の看護師は不機嫌そうであった。看護師の顔が憤然(ふんぜん)とこわばっている。新田のところにやって来て、院内で使用している携帯電話で姉に連絡するように依頼してきた。全身麻酔を受けていたため意識がもうろうとしているなか、母親の手帳に記してある姉の携帯に電話してみたが、何度かけてもつながらない。つながらないはずであった。携帯の電源を切っていたのである。弟が癌の手術をした日に携帯の電源を切る。常軌(じょうき)(いっ)していた。新田は自宅に固定電話があることに気づくと、ひとつずつ確認するように固定電話の番号を押した。夜十一時に姉がしぶしぶ病院にやって来て、母親を連れて帰って行った。
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