第6話 浸潤

文字数 1,497文字

 入院の日は母親を連れて大学病院に向かった。姉は派遣の仕事に行くと言ってついて来なかった。いとこの恵子さんとは病院で落ち合う手はずになっている。病院に着くと恵子さんはすでにロビーにいて、私と母の到着を待っていた。

 入院の手続きを終えると、すぐに病室に案内された。まず、執刀医が病室に挨拶(あいさつ)をしに来た。せりだした額が半分ほどをしめている顔の各所には小皺(こじわ)がはびこっている。この明らかな新田よりも年長と思われる執刀医を瞥見(べっけん)した時、新田ははじめて信頼に値する医師に出会った気がした。教授に次ぐ実質的な大腸肛門科の次席で、腹腔鏡手術は主にこの執刀医が担当しているようである。

 そのあと執刀医の助手と研修医二名が来て、手術について説明をしはじめた。二名の未熟な研修医は、医師の背後で黙していたが、研ぎ澄まされた眼光は、知性と自尊心でみなぎっている。

「癌はS状結腸にあって、病巣(びょうそう)を中心に二十センチの大腸とその周辺のリンパ節を切除します。今の段階では、一番軽いステージ一ですが、リンパ節に転移している場合はステージ三になって、他の臓器に転移する可能性が高くなります。粘膜下層までの浸潤(しんじゅん)はあくまでも予測であって、正確な浸潤状態は、手術で取りだした大腸を顕微鏡検査にかけなければわかりません。手術方法は腹腔鏡手術で行いますが、必要に応じて開腹手術に切り替えることもあります。大腸を二十センチ切除しますが、日常生活を送る上では手術前と変わりありませんので、安心してください」

 腹腔鏡手術の安全性については、新田は半信半疑であった。腹腔鏡手術によって死亡したという事例が多いということを聞いていたからである。機器を扱う医師の技量にもよるため、開腹手術しか行わない病院も多いのである。とはいえ、この大学病院では、軽度の大腸癌手術は腹腔鏡手術を行うことが定められており、過去の手術例では死亡者がでていないことから、この大学病院の執刀医の技量を新田は信じた。

 医師は、他の臓器にどのように転移するかについても説明した。

「転移の経路は大きく分けて三種類あります。リンパ行性転移、血行性転移、腹膜播種(ふくまくはしゅ)。リンパ行性転移は、癌細胞がリンパ管に入り込んでリンパ液の流れに乗って他の臓器に転移します。血行性転移は、癌細胞が毛細血管に入り込んで血液の流れに乗って他の臓器に転移します。腹膜播種は、癌細胞が腸管の壁を突き破って腹の空間にこぼれ落ち、腹のなか全体に広がって他の臓器に転移します。新田さんの場合、浸潤状態から転移するとすれば、リンパ行性転移か血行性転移ということになります」

 新田にはもう一つ心配事があった。人工肛門にするかどうかである。肛門に近いところに病巣がある場合、人工肛門を装着する可能性があるからだ。S状結腸に病巣がある場合、人工肛門の対象になるのか新田にはわからなかった。が、医師の説明を受けた限りでは、人工肛門にすることはないようであった。

 医師から説明を受けて膨大な書類にサインをした。執刀医達が退室した後しばらくして、麻酔科医が病室に入って来て麻酔の説明をしはじめた。全身麻酔の知識すら知らない新田は、麻酔科医の言うことが理解出来ない。従順に(うなず)くばかりで、理解出来ないまま書類にサインをした。

 そろそろ母親と恵子さんが帰る様子であったが、姉が来ることを期待していた新田は母親を連れて来たことを後悔した。認知症の母親は、ひとりでは家に帰れないのである。京王井の頭線渋谷駅のホームまで行けば、なんとかひとりで西永福の実家に帰ることが出来るので、恵子さんにお願いして京王井の頭線渋谷駅のホームまで母親を送ってもらった。
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