【家訓】

文字数 1,872文字


「どこへ行く、四郎!」
 ひっそりとした村に、女性の声が響いた。
 続いて飛び出した子供。
 幼子だが、端正な顔をした子だった。
 男とも女とも言えない顔つきだったが、呼ばれた名から男だということになる。
 男の子供の逃げ足は速いが、追いかける女性の足もなかなかのもの。
 日頃の農作業にて、足腰は鍛えられている。
 離れていた距離はみるみる間隔を詰めていき――
「待てと母が言っているのに、なぜ待たない、四郎」
 腕を振って走る、その腕を掴み動く身体を引きとめた。
「放せ、母上。私はここを出る」
「出るって、四郎。あんたまだ十にもなっていない子供ではないか」
「子供って言うな!」
「子供だから、子供だと言った。四郎、家訓、忘れたわけじゃないでしょう?」
 母の口から出た『家訓』という言葉に、身体が強張った。
 益田家の家訓。
 益田家に限らず、この村の大半は四郎の家系に近く、家訓を共有している。
「知っている。日陰の身でいろ、ってことだろ」
「そうだ。我々は表には出ない。それを守って、次の世代に受け継ぐ。わかったら、戻りなさい」
 母に捕まってしまっては、戻るしかない。
 出るといっても、まだあてがあるわけではない。
 だけど四郎は思う。
 なぜ日陰の身でいなくては、ならないのか。
 表に出てはいけないのか。
 それが単に、キリシタンだからというわけではないことを、薄々感じ始めていたのだった。

 益田家の四郎、逃走のひと劇は、この村ではかなり知れ渡っていた。
 これがはじめてではないということ。
 この前四郎が逃走を試みたのは、母が農作業に出ていた昼間だった。
 ちょうど収穫時期で忙しい最中、普通なら四郎も手伝いに借り出される。
 だが、運がいいのか悪いのか、ちょっとした体調不良で身体が重い。
 無理をさせ、悪化して医者に――などと、こんな貧乏村からだと、邪険に扱われるだけ。
 母が一日休んで明日手伝えと、四郎を残して家を空けた、その優しさが仇となった。
 だがよく考えてみよう。
 村の家は殆ど留守ではあったが、村の殆どの人は収穫作業に借り出されている。
 外は、普段以上に人がいるということ。
 村には人の住む家と、食べるのに困らない田畑がある貧相な村だ。
 四郎の姿が目撃されないわけがない。
 村を出るな、よそ者を入れるなは、村の掟でもあった。
 もちろん、あっけなくとっ捕まる。
 村人は仲間でもあり、互いに監視者でもあった。
 その前はいつだったか、川で泳いでそのまま流されようとしたり、とにかく益田四郎といえば、かなり有名だったのだ。
 なんだ、また益田んとこの四郎坊主か。
 懲りないな、まったく――というくらいに。

 夕食時、目の前に置かれた料理に、四郎は目を疑った。
 聖母マリア像の前で手を合わせ祈りを捧げ、箸を持つと、茶碗に盛られたご飯を何度も何度も下から掻き混ぜだした。
「行儀悪いよ、四郎」
 やや眉間にシワを寄せた母が言うが、止める気配はない。
 ふと、目の端に母が口に運ぶ白い飯が入り込む。
 ジッとそれを眺め、また自分の茶碗を見る。
 同じ釜から炊かれてご飯の筈なのに――
「母上、なぜ四郎のご飯は、こんなにも黒々と焦げているのでしょう」
 自分に盛られた焦げたご飯。
 こんがりと焦げ目がついた飯は美味いが、焦げ臭さが残るくらいに焦げた飯は美味くはない。
 白い艶々の飯は、四郎の前にはなかったのだった。
「よく思い出しなさい、四郎」
 母はそれ以上多くを言わない。
 四郎は記憶を辿る。
 辿りだしてすぐ、思い当たることがあった。
 四郎が再度思い立って家を飛び出したのは、いつだったか。
 確か、母が夕餉の支度に監視の目が緩んだ時ではなかったか。
 釜戸での料理は火加減がものをいう。
 どれくらい母を火の側から離していたっけ?
 こんなにもご飯が焦げるほどだっただろうか。
 だが、実際焦げているのだから、そうなのだろう。
「すまない、母上」
 当面、また逃走はお預けとなりそうだと、四郎は溜息と落胆した顔を見せた。
 母はそれを反省と解釈をする。
 あながち、それは間違っていないのだが、一度決めたらやり遂げるという、かなり頑固な四郎の性格までは、理解していなかった。
 今回の逃走劇が薄れた頃、また四郎は動きだすだろう。
 もうすぐ秋、季節野菜の収穫に加え、稲刈りがある。
 村民総出での大仕事、人が集まれば死角もできる。
 四郎はこっそりと次の目論見を始めていた。
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