第6章 三位一体と山浦訳

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第6章 三位一体と山浦訳
 山浦訳には教義から批判される余地がある。三位一体説を支持していないと思われるからだ。山浦博士はカトリックで、教会ならび法王の権威を認めている。ただ、博士のイエス理解は、一神教の伝統に忠実な東方教会に近い。東方教会は、日本ではあまり馴染みがないが、今も中東では有力で、コプト教会やアルメニア教会などが知られている。

 313年にミラノ勅令でキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝は、325年、ニケーア公会議を招集する。彼は、教会内の紛争を調停するためにこの会議を主催している。両性論のアタナシウス派と単性論のアリウス派が激しい論争を繰り広げる。前者はイエスに申性と人性を認める学説である。一方、後者はイエスをあくまで人間としてのみ捉える。一神教の伝統に沿っているのは単性論であり、アリウス派が教会のイデオロギーの覇権を獲得すると予想されている。

 それに対し、アタナシウス派が三位一体説を提案する。父なる神と子なるイエス、聖霊の三者が等質で不可分とする理論で、イエスの神性を正当化する。この三位一体説に裏付けられた両性論が多数の支持を獲得し、アタナシウス派が正統と公認される。そのため、アリウス派は異端として追放される。

 公会議は計8回開催されたが、いずれにおいても単性論は両性論に敗北する。その彼らは「東方教会」と総称されている。三位一体説は盤石と見られたが、聖霊の解釈をめぐってローマ・カトリック教会と東方正教会が対立、1054年、お互いを破門して、分裂する。以後、公会議が開催されることはない。

 異端は少数派であるから、主張の正当性を示すために、理論武装しなければならない。正統は多数派工作によって政治的に勝ったにすぎない。その異端はグレコローマンの学問を手にアフリカやアジアに渡る。イスラーム社会は彼らの知識を積極的に取り入れ、世界最先端の学問を発展させる。

 ネストリウス派に至っては、唐の長安に辿り着き、「景教」と呼ばれている。景教は漢字の他にシリア文字を使っていたことが判明している。グレコローマンの書物はシリア語に訳された後に各地に伝播したと推測できる。東西ローマの領域の外では、単性論の方が優勢である。その彼らの持ちこんだ知識は各地の文化を活発化させている。こうした経緯もあり、中東では東方教会の信徒がかなり存在しており、プロテスタントよりも多い。バチカンは、ヨハネ・パウロ2世以降、各宗派との和解を進めており、東方教会との対話も進みつつある。

 神性の根拠は書簡集が主で、福音書にはヨハネ20章28節しかない。「お、俺(おれア)の旦那(だんな)さまだ!お、俺(おれア)の、か、神(かみ)さまだ!」の訳だけでは判断しかねる。山浦博士は、「序」において、「主人公の名はイエシュー。職業は百姓大工。後に放浪のお呪い医術師兼説教師…これから物語るのは、これらの『お助けさま』たちの中にあって特にも風変わりな『お助けさま』、ガリラヤ出身の田舎者、一人の百姓大工の話である」と言っている。また、「この福音書の翻訳について」でも、「ローマ帝国の属領とされて呻吟していたユダヤ人たちの国の、ガリラヤ地方の片田舎、山村ナザレから一人の百姓大工が現われた。その名は…ガリラヤ訛りでイエシューという。(略)僻村のしがない百姓大工だ。この男の世に出ての活動はわずか二、三年、その生涯はどう見ても大失敗で、最後は政治犯としての濡れ衣を着せられて十字架上に刑死する。だが、不思議なことにこの男の短い人生が世界の歴史を変えた」と述べている。山浦博士がイエスに神性を認めているとは言い難い。
 
 イエスに神性を認めなければ、「聖霊」も必要ない。実際、山浦博士は従来の邦訳が使っていた「霊」を避けている。この聖霊の根拠はマタイ3章16節である。新共同訳は「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」としているが、博士は「イエシューさまは、神さまの御息がソヨソヨと、まるで鳩のようにやさしく、我が方へと吹き下ろして来るのを感じなさった」と訳している。また、「霊」が用いられてきた他の箇所も「風」や「息吹」などが当てられている。

 この原語は”πνεύμα”、すなわち「プネウマ」である。古代ギリシャのアナクシメネスが「プネウマ」を「アルケー」としたと知られている。これは通常「空気」と訳され、呼吸に見られるように、生命活動の原理である。タレスの「水」に相当し、「気」という訳が最も適している。「プネウマ」は「空気」の他、「風」や「息」などの意味がある。転じて、生命エネルギーとも理解できるので、「霊」とも訳される。ただ、植物にも使われる語であるから、浸透しているけれども、「霊」が適切かどうかは疑問が残る。もちろん、完全には否定できない。

 神を非人格的作用と捉える多神教であれば、霊を身体の外から息として入ってくるという発想もある。ボルネオ島のイバンの人々はスマンガットと呼ばれる霊魂のようなものが生物・非生物問わずすべての物体に宿ると考えている。確かに、こういう例もある。なお、英語で、肺炎を“pneumonia”と言う。これは「プネウマ」に由来しており、「呼吸」と解釈されていることがわかる。

 「プネウマ」に当たる聖書ヘブライ語の名詞は”רוח”、すなわち「ルーアハ」である。これも「霊」と訳されることが多い。両者は確かに重なる。この語は創世記1章2節に現われる。聖書ヘブライ語原典では、“הַמָּיִם פְּנֵ-עַל מְרַחֶפֶת ,אֱלֹהִים וְרוּחַ”で、新共同訳は「神の霊が水の面を動いていた」と訳している。誤訳ではない。逐語的に辿れば、こう訳せる。しかし、率直に言って、この文言を読んでも、イメージがわかない。かりに「風が海面を吹き荒れていた」なら、暴風によって水面が波立っている光景が浮かぶ。

 引用を含む創世記1章1~3節は、聖書の中でも最も注解が難しい箇所の一つである。意味の特定できていない語が二つあるからだけではない。

 初めに、神は天地を創造された。 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 この新共同訳を含め明治元訳以来、「霊」を使う翻訳は、1節を独立説と考え、2節から神の創造が始まるとする。しかし、そうとると、水がどこから出現したのかわからない。

 旧約聖書の中に新約聖書が隠れているという予型論もキリスト教にはあるが、創世記は古代オリエントから生まれている。創世記が当時の文章作成の慣習を踏襲しているのはその一例である。古代オリエントの神話との類似性も、多神教と一神教の違いがあるものの、認められる。バビロニアの天地創造神話『エヌマ・エリシュ』の冒頭にも同様の構文が見られる。詳しい説明は省くが、文法上も創世記の冒頭”בְּרֵאשִׁית”に定冠詞がついていないので、1節は「神が天地を創造した起源に」という未完結の文である。それを踏まえると、3節が主節で、1節は従属節と認知できる。2節は状況説明と解釈できる。「ルーアハ」を「霊」と訳す必然性はない。日本では、創世記について、キリスト教の解釈が支配的であるが、ユダヤ教やイスラームのそれも知っておくべきだ。

 現在入手可能な創世記の邦訳としては次の中澤治樹訳がこうした点を理解している。

 神が天地を創造した初めに──地は荒涼として闇が淵をおおい、暴風が水面を吹き荒れていた。「光あれ」と神が言った。すると光があった。

 余談ながら、ユダヤ教では創世記がアルファベットの最初の文字”א”ではなく、2番目の” ב”から始まるのかという議論がある。その回答の一つは文字の形である。ヘブライ文字は右から左に読む。この文字は前方だけが開いている。自らの上にある物を知ろうとしてはならない。また、自らより以前のことを知ろうとしてはならない。さらに、自らの下にある物を知ろうとしてはならない。ただ、前に進まねばならない。神は世界との関係において近づき得るものである。

 新旧約いずれでも従来の邦訳は「霊」が使われてきたけれども、「気」や「風」、「息」などの訳の方が意味の通りがいい。

 山浦博士の訳出の動機には公共性・公益性への寄与がある。この翻訳は布教のツールではない。従来の邦訳は教会や信徒の事情が優先されている。福音書は人類共有の財産である。研究成果を参照するけれども、特定宗派のイデオロギーを正当化することはしない。非キリスト教徒にも共有されるための翻訳でなければならぬ。もちろん、公共性・公益性へ貢献する翻訳は自らのカトリックとしての信仰と相反するものではない。

 山浦博士の役にはカトリック神学の二つの立場の複合が見られる。山浦博士は「ロゴス」を神の意思と捉えている。これは主意主義であり、アウグスティヌスの伝統である。他方、山浦博士は、先に述べた通り、基本的逃げ奇跡を認めない。奇跡ではなく、「しるし」を用いるヨハネ書を基準に、他の福音書の記述を照らし合わせ、超自然的・超人的現象を社会的意味を込めたメッセージと読む。これは主知主義であり、トマス・アクィナスの伝統である。主意主義と主知主義の統合が図れており、意欲的だと言わねばなるまい。

 宗教の現代的意義から認知すべきだ。現代社会における宗教の意義は公共性の再検討である。近代の理念は個人主義である。しかし、それに対して共同体も大切にすべきではないかと批判が向けられる。欧州のカトリックもそうした対抗勢力の一つで、政教分離を順守しながら、19世紀後半から政党を結成、政治参加する。ただし、信徒が先導し、教会は渋々追認しただけである。カトリックはトランスナショナルな組織であり、国民国家とプラットフォームが異なっている。今日も近代主義の追求してきた公共性のはらむ諸問題に対して宗教が異議申し立てを続けている。この公共性は音読による互恵性とも譬えられる。宗教の持つ公共性を再検討することでその改善を図るのは非常に意義深い。山浦訳は福音書の持つ公共性・公益性への寄与を日本における実践と理解しなければならない。

 そもそもキリスト教の近代政治への影響は大きい。中世において、教会の意思決定に関して二つの考えが対立する。一つは法王を頂点にしたトップダウン型、もう一つは公会議を中心にしたボトムアップ型である。これは大統領・首相が主導すべきか、議会が議論を積み上げるべきかという意思決定の問題として現在も続いている。また、ニコロ・マキャベリやトマス・ホッブズなどの近代政治学はトマス・アクィナスへの批判として出発している。彼はキリスト教・アリストテレス・新プラトン主義・自然法思想・共和主義を一つの壮大な体系にまとめ上げる。この完成したトマス主義を利用することによって新たな政治思想が生まれている。カトリシズムの政治哲学への寄与は決して小さくない。
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