第2章 音読と黙読
文字数 3,520文字
第2章 音読と黙読
近代日本における旋律と歌詞の関係のルールを最初に提案したのはキリスト教である。1873年、政府はキリスト教禁止を解除し、宣教師は布教に讃美歌を用いる。その際、西洋的な旋律に歌詞をどのように乗せればいいのかが課題になる。歌う前提があるため、歌詞は一般の詩と創作が異なる。歌詞は直訳というわけにはいかず、同時代にとって歌いやすく、自然な日本語でなければならない。
文学は自分を含めた誰かにナラティブすることを前提にした実用以上の言葉の組織化である。それを踏まえるなら、音楽は自分を含めた誰かと合わせることを前提にした実用以上の音の組織化である。この組織化は日常的な発音の変形がその始原にある。しかし、破壊であってはならない。讃美歌の格調を損なわないようにしながら、印欧語の歌詞を話し言葉に近く訳す必要がある。なおかつそれを馴染みのない西洋の旋律に乗せなければならない。試行錯誤の中で、一音に一音符が対応するルールが考案され、これが近代日本音楽における標準的ルールとして定着していく。
近代音楽の基礎的ルール作成に貢献したキリスト教だが、邦訳聖書のページを開く限り、そうした先進さは見受けられない。現在、聖書の日本語訳がいくつか刊行されている。訳者が単独の場合も集団の場合もある。その労苦には敬意を表するものの、ほとんどが音読に向かない。
一例として詩篇137章を挙げてみよう。これはカトリックの修道院でラテン語訳が朗誦されることで知られている。バチカンの公認するラテン語訳『ウルガタ(Vulgata)』から1~4節を引用する。
Super flumina Babylonis,
illic sedimus et flevimus,
cum recordaremur Sion.
In salicibus in medio eius
suspendimus citharas nostras.
Quia illic rogaverunt nos,
qui captivos duxerunt nos,
verba cantionum,
et, qui affligebant nos, laetitiam:
“ Cantate nobis de canticis Sion “.
Quomodo cantabimus canticum Domini
in terra aliena?
ラテン語は、日本語と同様、アクセントが高低である。位置は、二音節以上の単語の場合、後から2番目もしくは3番目に置かれる。正書法がしっかりしているので、表記通りにほぼ発音する。ただ、vとjは半母音のwとyとしてそれぞれ発音し、hは無声音である。意味がわからなくても、声に出せば、リズミカルということがわかる。
次に日本で最も標準的とされる新共同訳から同じ個所を引用する。
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
日本語は、伝統的定型詩から、5音7音を組み合わせると、リズミカルになるという知識が共有されている。また、音をつくる場所は口の前と後の二つに大きく大別できる。前と後が交互に入れ替わると、発音しやすくなる。しかし、訳文はこの二点を十分に踏まえていない。
おそらく翻訳に際して、声に出しやすいかどうかではなく、これまでに蓄積された聖書に関する知識に則ることを優先したのだろう。日本語の事情に近づける意訳よりも、キリスト教の各宗派が広く共有する原典の理解を直訳する。そうした姿勢が訳文からうかがえる。
なお、『アメリカン・パイ』で知られるドン・マクリーン(Don MclLean)がこの詩編の英訳を『バビロン(Babylon)』として歌っている。哀愁漂う名曲である。
By the waters
The waters of Babylon
We lay down and wept
And wept for, thee Zion
We remember, thee remember
Thee remember, thee Zion
明治元訳と呼ばれる文語聖書は詩篇の訳文が非常に好評で、上田敏などの文学者にも影響を与えている。明治期、言文一致運動を始め近代日本語の書き言葉をどのようにするかが論議・提案されている。聖書の翻訳もこうした動向の中でさまざまに試みられている。
近代で読書と言えば、専ら黙読を指す。一人で黙々と活字を追い、ページをくくる。個人主義的な黙読は近代の理念に沿った読書法である。今日の散文はほぼ黙読を前提に執筆されている。近代は自由で平等、独立して考える個人によって理念上成り立っている。公私は区別され、政治権力は個人の内面の自由を保障しなければならない。読書は私的行為であり、無言で行われることで内的自由が守られる。図書館の貸し出し記録を政治権力が閲覧・入手することを厳しく規制しているのも、こうした理由による。ただ、黙読に伴い、読書障害や印刷物障害などのアクセスビリティの問題も顕在化する。
しかし、近代以前は音読が主流である。それは識字率が低かったからだけではない。音読は黙読の代用ではなく、それでなければならない機能がある。読書は私的ではなく、公的行為である。読書を通じてその場を共有する人と人とのつながりを生み出したり、確認したり、強化したりする。音読は読み手と聞き手が言葉を介して交流しているだけでなく、場の相互作用がそれらに働く。個々人はさまざまな考えや思いを抱いて参加しても、その場から影響を受け、意識を共有する。
聖書を含む宗教の経典は黙読ではなく、音読が前提とされている。イスラームの経典『アル・クルアーン』の語義は「朗誦されるもの」である。この聖典は翻訳が認められておらず、アラビア語でなければ、読んだうちに入らない。アラビア語がわからなくても、朗読を聞くことが理解の第一歩になる。また、仏教に関しては読経がお馴染みだろう。
西洋のキリスト教修道院において聖書の朗誦は慣習である。一人で行う場合もあるが、会堂で集まって聖書を読み上げるのが通常だ。他の声を聞き、それに合わせて発声し、朗誦の場をつくる。うろ覚えだったり、失念したりしても、場のもたらす作用によって聖書の世界から出てしまうことはない。こうした唱和を通じて修道士としての使命と連帯感を自覚する。
キリスト教は、本来、極めて禁欲的な宗教である。それはカトリックのグレゴリオ聖歌がよく物語っている。精神と肉体の二元論をとり、前者を真理とし、後者を斥ける。地上階は天上界の影にすぎず、肉体から解放された時、精神はその神の国へと救われる。グレゴリオ聖歌は抽象的で、耳を始めとする肉体の享受する甘美や官能、熱狂がない。ハーモニーも、拍子も、伴奏も、女性の声もない。一切の肉体を感じさせる要素を拒否している。ただ透明で、平滑な単旋律が運ばれているだけだ。
音読は黙読よりも身体性が高い。黙読は眼球運動だけであるが、音読は多くの感覚や器官を使う。発声は言うまでもなく、他者の声に耳を傾け、それと合わせるために自己をメタ認知して調整しなければならない。頭だけでなく、体で理解する傾向が認められる。
禁欲主義であっても、キリスト教にとって朗誦は神の摂理を知る上で非常に効果的である。音読は反復を通じて知識を身体化させる。知識が精神のみならず、肉体にも刻みこまれる。身についた神聖なる言葉は生起する契機によって想起される。身体化された知識が明示化され、「あれはこういう意味だったのか」と認知する。現実界をそうやって捉える時、超越である神が至る所に内在していることを知り、その偉大さに打ち震える。
ただし、宗教改革が読書のスタイルに変化をもたらす。プロテスタントは信徒個人が聖書を通じて神と対峙する。教会を必要とせず、個人主義的傾向が強い。読書もこうした認識に則り、信徒個人が聖書を黙読するようになる。
キリスト教において音読はこのように重要である。けれども、入手しやすい邦訳聖書は、概して、音読に向いていない。近代の邦訳聖書の歴史で重視されてきたのは、同時代的な書き言葉としての妥当性や学説と訳語の整合性、気神聖な書物としての雰囲気などである。声に出して読むことは必ずしも関心事ではない。しかし、それでは「門前の小僧習わぬ経を読む」ことは起きない。
近代日本における旋律と歌詞の関係のルールを最初に提案したのはキリスト教である。1873年、政府はキリスト教禁止を解除し、宣教師は布教に讃美歌を用いる。その際、西洋的な旋律に歌詞をどのように乗せればいいのかが課題になる。歌う前提があるため、歌詞は一般の詩と創作が異なる。歌詞は直訳というわけにはいかず、同時代にとって歌いやすく、自然な日本語でなければならない。
文学は自分を含めた誰かにナラティブすることを前提にした実用以上の言葉の組織化である。それを踏まえるなら、音楽は自分を含めた誰かと合わせることを前提にした実用以上の音の組織化である。この組織化は日常的な発音の変形がその始原にある。しかし、破壊であってはならない。讃美歌の格調を損なわないようにしながら、印欧語の歌詞を話し言葉に近く訳す必要がある。なおかつそれを馴染みのない西洋の旋律に乗せなければならない。試行錯誤の中で、一音に一音符が対応するルールが考案され、これが近代日本音楽における標準的ルールとして定着していく。
近代音楽の基礎的ルール作成に貢献したキリスト教だが、邦訳聖書のページを開く限り、そうした先進さは見受けられない。現在、聖書の日本語訳がいくつか刊行されている。訳者が単独の場合も集団の場合もある。その労苦には敬意を表するものの、ほとんどが音読に向かない。
一例として詩篇137章を挙げてみよう。これはカトリックの修道院でラテン語訳が朗誦されることで知られている。バチカンの公認するラテン語訳『ウルガタ(Vulgata)』から1~4節を引用する。
Super flumina Babylonis,
illic sedimus et flevimus,
cum recordaremur Sion.
In salicibus in medio eius
suspendimus citharas nostras.
Quia illic rogaverunt nos,
qui captivos duxerunt nos,
verba cantionum,
et, qui affligebant nos, laetitiam:
“ Cantate nobis de canticis Sion “.
Quomodo cantabimus canticum Domini
in terra aliena?
ラテン語は、日本語と同様、アクセントが高低である。位置は、二音節以上の単語の場合、後から2番目もしくは3番目に置かれる。正書法がしっかりしているので、表記通りにほぼ発音する。ただ、vとjは半母音のwとyとしてそれぞれ発音し、hは無声音である。意味がわからなくても、声に出せば、リズミカルということがわかる。
次に日本で最も標準的とされる新共同訳から同じ個所を引用する。
バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。
竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。
わたしたちを捕囚にした民が
歌をうたえと言うから
わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして
「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。
どうして歌うことができようか
主のための歌を、異教の地で。
日本語は、伝統的定型詩から、5音7音を組み合わせると、リズミカルになるという知識が共有されている。また、音をつくる場所は口の前と後の二つに大きく大別できる。前と後が交互に入れ替わると、発音しやすくなる。しかし、訳文はこの二点を十分に踏まえていない。
おそらく翻訳に際して、声に出しやすいかどうかではなく、これまでに蓄積された聖書に関する知識に則ることを優先したのだろう。日本語の事情に近づける意訳よりも、キリスト教の各宗派が広く共有する原典の理解を直訳する。そうした姿勢が訳文からうかがえる。
なお、『アメリカン・パイ』で知られるドン・マクリーン(Don MclLean)がこの詩編の英訳を『バビロン(Babylon)』として歌っている。哀愁漂う名曲である。
By the waters
The waters of Babylon
We lay down and wept
And wept for, thee Zion
We remember, thee remember
Thee remember, thee Zion
明治元訳と呼ばれる文語聖書は詩篇の訳文が非常に好評で、上田敏などの文学者にも影響を与えている。明治期、言文一致運動を始め近代日本語の書き言葉をどのようにするかが論議・提案されている。聖書の翻訳もこうした動向の中でさまざまに試みられている。
近代で読書と言えば、専ら黙読を指す。一人で黙々と活字を追い、ページをくくる。個人主義的な黙読は近代の理念に沿った読書法である。今日の散文はほぼ黙読を前提に執筆されている。近代は自由で平等、独立して考える個人によって理念上成り立っている。公私は区別され、政治権力は個人の内面の自由を保障しなければならない。読書は私的行為であり、無言で行われることで内的自由が守られる。図書館の貸し出し記録を政治権力が閲覧・入手することを厳しく規制しているのも、こうした理由による。ただ、黙読に伴い、読書障害や印刷物障害などのアクセスビリティの問題も顕在化する。
しかし、近代以前は音読が主流である。それは識字率が低かったからだけではない。音読は黙読の代用ではなく、それでなければならない機能がある。読書は私的ではなく、公的行為である。読書を通じてその場を共有する人と人とのつながりを生み出したり、確認したり、強化したりする。音読は読み手と聞き手が言葉を介して交流しているだけでなく、場の相互作用がそれらに働く。個々人はさまざまな考えや思いを抱いて参加しても、その場から影響を受け、意識を共有する。
聖書を含む宗教の経典は黙読ではなく、音読が前提とされている。イスラームの経典『アル・クルアーン』の語義は「朗誦されるもの」である。この聖典は翻訳が認められておらず、アラビア語でなければ、読んだうちに入らない。アラビア語がわからなくても、朗読を聞くことが理解の第一歩になる。また、仏教に関しては読経がお馴染みだろう。
西洋のキリスト教修道院において聖書の朗誦は慣習である。一人で行う場合もあるが、会堂で集まって聖書を読み上げるのが通常だ。他の声を聞き、それに合わせて発声し、朗誦の場をつくる。うろ覚えだったり、失念したりしても、場のもたらす作用によって聖書の世界から出てしまうことはない。こうした唱和を通じて修道士としての使命と連帯感を自覚する。
キリスト教は、本来、極めて禁欲的な宗教である。それはカトリックのグレゴリオ聖歌がよく物語っている。精神と肉体の二元論をとり、前者を真理とし、後者を斥ける。地上階は天上界の影にすぎず、肉体から解放された時、精神はその神の国へと救われる。グレゴリオ聖歌は抽象的で、耳を始めとする肉体の享受する甘美や官能、熱狂がない。ハーモニーも、拍子も、伴奏も、女性の声もない。一切の肉体を感じさせる要素を拒否している。ただ透明で、平滑な単旋律が運ばれているだけだ。
音読は黙読よりも身体性が高い。黙読は眼球運動だけであるが、音読は多くの感覚や器官を使う。発声は言うまでもなく、他者の声に耳を傾け、それと合わせるために自己をメタ認知して調整しなければならない。頭だけでなく、体で理解する傾向が認められる。
禁欲主義であっても、キリスト教にとって朗誦は神の摂理を知る上で非常に効果的である。音読は反復を通じて知識を身体化させる。知識が精神のみならず、肉体にも刻みこまれる。身についた神聖なる言葉は生起する契機によって想起される。身体化された知識が明示化され、「あれはこういう意味だったのか」と認知する。現実界をそうやって捉える時、超越である神が至る所に内在していることを知り、その偉大さに打ち震える。
ただし、宗教改革が読書のスタイルに変化をもたらす。プロテスタントは信徒個人が聖書を通じて神と対峙する。教会を必要とせず、個人主義的傾向が強い。読書もこうした認識に則り、信徒個人が聖書を黙読するようになる。
キリスト教において音読はこのように重要である。けれども、入手しやすい邦訳聖書は、概して、音読に向いていない。近代の邦訳聖書の歴史で重視されてきたのは、同時代的な書き言葉としての妥当性や学説と訳語の整合性、気神聖な書物としての雰囲気などである。声に出して読むことは必ずしも関心事ではない。しかし、それでは「門前の小僧習わぬ経を読む」ことは起きない。