第4章 世間語訳福音書

文字数 4,007文字

第4章 世間語訳福音書
 読書は認知的行為である。しかし、興味や意欲といった感情がなければ、始まらない。ケセン語を母語としない人からこういう形で福音書を読みたいと山浦博士に声が寄せられる。世間語訳が必要だ。

 『ガリラヤのイエシュー』はケセン語訳福音書の延長線上にある。博士は原語の意味から「福音書」ではなく、「よきたより」を使う。それも含めターゲット言語指向や音読向きなど翻訳の方針も引き継がれている。しかし、今回の文体は大きく変わっている。登場人物に応じてさまざまな方言が用いられ、ケセン語はその声の一つでしかない。だから、複数の人が分担して読み上げる必要がある。

 こうした翻訳文体の選択は当時の社会背景を理解しやすくするためである。ここでイエスの宣教活動の前夜を簡単に言及しておこう。

 ローマ帝国の支配下にありながら、その宗教を受け入れなかったのがユダヤ人である。彼らは契約で結ばれた唯一の神ヤハウェを信仰し、独自の教えを守り抜こうとする。そんなユダヤ人は、前63年、ポンペイウスの東征の際に、ローマの支配下に入る。ローマは、マカバイ戦争以来ユダヤの独立を守ってきたハスモン家の大祭司の地位を認め、この頑固で厄介な民を統治する。

 しかし、ローマ政界の勢力図が塗り替えられると、それを利用してヘロデが成り上がり、ハスモン家を押しのけ、ユダヤの王を自称する。ローマに従属しつつ、権力を握った彼はグレコローマン風の建築を立てたり、エルサレム神殿を改築したりするが、民からの評判は虎の威を借る狐とすこぶる悪い。しかも、彼は重税を課したため、都市と農村を始めとする格差を拡大させる。もちろん、格差は従来からあったけれども、都市化はそれを可視化させる。それは民の間の対立の激化を招く。

 ヘロデの死後、しばらくしてローマはユダヤを直轄領へと変更する。こういった経緯により、ユダヤ教内部で分派闘争が激化する。民族の解放を目指して直接行動をする熱心党も出現する。イエスは、こうした混乱状況の中、ユダヤ教改革運動の一人として登場している。

 山浦博士はこの時代の雰囲気を想像する。ローマの支配が強化されて、自治が脅かされる状況下、「サドカイ衆」や「ファリサイ衆」などの諸勢力が対抗している。イエスら「ガリラヤ者」はエルサレムからカッペと蔑まされている。さらに、カナン人やガダラ人はガリラヤよりももっと貶められている。

 日本にもこんな時代があったと博士は気づく。幕末維新期だ。身分・職能によって社会秩序が形成され、江戸には将軍、京には朝廷と公家、諸国には大小名が割拠していたが、体制が大きく揺れる変動動乱の時代である。

 山浦博士は福音書の舞台と幕末維新期を重ね合せ、当時を思い起こさせるさまざまな日本語を採用する。地の文には当時の公用語である「関東武家階級」を用いる。この文体を選べば、今の日本語話者は幕末維新期をイメージする。ただし、各福音書の文体にも特徴があるので、それに合わせた違いがある。ルカは美文、マタイは格調、マルコは九だけた口調、ヨハネは擬古文を意識して訳している。

 福音書には、「登場人物の階級と出身に合わせて、ファリサイ衆は武家言葉、領主のヘロデは大名言葉、イェルサレムの人々は京言葉。商人は大阪弁。サマリア人は山形県庄内(鶴岡)弁。ガリラヤ湖東岸の異邦人たちは津軽弁。ガリラヤ衆はケセン語や仙台弁、盛岡弁。イェリコの人は名古屋弁。ユダヤ地方の人は山口弁。ローマ人は鹿児島弁。ギリシャ人は長崎弁。盗賊の死刑囚は関東やくざ言葉」と訳し分ける。なお、それぞれの母語話者がネイティブチェックを入れている。

 イエスは二種類の文体で表現される。公的な場では地の文、私的な場ではケセン語を話すと設定される。方言は共通語ではないから、それでは出身地域の違う人の間では意思疎通がとれない。公の時には共通語を使う必要がある。

 この文体がどのような効果をもたらすのかを福音書の中でもよく知られたペトロの否認の場面をマタイ26章73~75節の引用で見てみよう。

 しばらくして、そこに立っていた者たちが身を寄せてきて、ペトロに言った。
「確(たし)かにあんたもあの者(もの)どもの仲間(なかま)や。その言葉(ことば)の訛(なま)りで、ハッキリわかるで。」
 すると、ペトロは口汚く悪態の限りを並べ立て、自分の正直ぶりを必死に訴えながらベラベラベラベラ喋りまくった。
「そんたな〔糞(くそ)たれ〕野郎(やろう)など(なんと)、何でこの俺が(おれア)知(し)ったもんだづう(知っているものか)!」
 折りも折り、鶏が時をつくった。
 ペトロは、『鶏っこ(とりッこ)が(ア)時を(とギィ)つぐ(・)る前(めア)に、其方(そなだ)は(ア)三回(みゲァり)、この俺(おれァ)を(どゴォ)知(し)らねァって語(かだ)る』と言(い)なさったイエシューさまの言葉を思い出した。そしてそのまま、屋敷の外に逃げ出し、身も世もなく泣き崩(れた。

 情景が生き生きと見えてくる。まげを結った芦屋小雁に言い寄られて、叫ぶ千昌夫の姿が目に浮かぶ。読む際には、多くの人が分担して行う必要がある。

 表記に関しては、ケセン語福音書と違い、特殊文字の使用が控えられている。それどころか、読者に配慮をしている。東北方言では、「し・す」、「ち・つ」、「じ・ず・ぢ・づ」の区別がないが、意味をとりやすいように、共通語表記に準拠して使い分けられている。

 ただ、工夫は施されている。ガ行に関して傍点付は濁音、無しは鼻濁音として発音すると付記されている。また、方言でわかりにくい箇所はカッコ内に説明を補っている。さらに、本文だけで理解に差し障りがある箇所には注釈を挿入している。

 これだけの方言に一度に直面すると、場の相互作用も互恵的に働く。日本語の多様性を再認識するが、それを面白がるだけでは、理解が浅い。馴染みのない方言に接すると、身につけた言語と比較して、その特徴について考えることは少なくない。しかし、普段意識せずに使っている母語を改めて見直すきっかけとすべきだ。

 日本語の方言について簡単に述べておこう。

 沖縄の言語の分類は学説が割れている。沖縄の政治的な位置づけをめぐるイデオロギーの影響はさておく。日本語の方言なのか、独立した別の言語なのか論争が続いている。区分は基準によって異なるが、沖縄以外の日本語は、一般的には、九州とそれを除く東西の三つに分けられている。九州・西部・東部の三方言である。もちろん、人・物・情報の移動が頻繁な現代では、方言の変化も激しい。共通語の浸透も進み、事実上消滅した方言もあるとされている。逆に、共通語に方言が入りこみ、変えている。方言は地方「らしさ」の象徴でもあり、地域活性が盛んになるにつれ、再評価されている。

 実は、福音書を幕末期の日本語で訳したのは山浦博士が初めてではない。カール・ギュツラフ(Karl Friedrich Augustus Gützlaff)の『約翰(ヨハネ)福音之伝』(1837)においても用いられている。彼はマカオで漢訳『神天聖書』を参照しながら、日本人漂流民の音吉らの協力を得て訳し、アメリカ聖書協会の経済的支援によりシンガポールから出版している。

ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。

 これは1章1~3節である。「カシコイ」は「畏い」、すなわち畏れ多いである。また、「ゴクラク」の部分は、通常、「神」と訳されている。同時代の読者に向けた訳文であり、山浦博士のような見立ての意図を持っていない。けれども、「ござる」による福音書が決して奇天烈でないことは確認できる。

 ギュツラフは非常に言語能力に優れていた人物で、この文脈以外でも東アジア史に登場してくる。アヘン戦争のシナリオを書いたウィリアム・ジャーディンとも交流がある。それが物語るように、東アジアに進出する欧米人にとってギュツラフの言語能力が重宝がられている。

 山浦博士は福音書の世界のイメージを読者と共有することを目指している。しかし、ふざけていると批判するとしたら、それは文学史を知らないと言っているに等しい。近世以前を思わせる文体を複数用いて近代の文学を創作した試みもある。森鴎外の『舞姫』(1890)である。格調を重んじるために、言文一致運動が盛んな時世でありながら、雅文体を用いている。しかも、場面に応じてさまざまな文体を使い分ける。経緯を語る部分は叙事詩的にするために対句など漢文の表現、エリスのセリフの部分は平安朝の物語の文体といったように、鴎外はそれぞれの固有性を示すふさわしい文体を選んでいる。

 文体は、文章論では、「らしい」文体と「ふさわしい」文体に二分できる。前者は作家の個性を指す。通常の文体論が扱うのは前者である。人は書く時に、個性が表われる。これが「らしい」文体である。一方、同一の書き手であっても、場に応じて文体を使い分ける。恋人への電子メールと上司に提出する報告書を書く時の文体は異なっている。これが「ふさわしい」文体である。ふさわしい文体は書き手と読み手の場の共有を示す。それは、逆に、ふさわしい文体を用いれば、場の相互作用が書き手と読み手の認識を共有させることを意味する。

 鴎外はふさわしい文体を指向する。読者の既有知識を利用して、自分の持つイメージを彼らと共有するためだ。ドイツ人のエリスが平安朝で語るというのは奇妙であるが、彼女を日本文学史上の文体に当てはめるなら、それがふさわしい。

 山浦博士の『ガリラヤのイエシュー』は、ケセン語訳以上に、場の相互作用を重視した作品である。これを読む際には、その認識が求められる。
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