第5章 ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος,

文字数 5,952文字

第5章 ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος,
 翻訳には批評が伴う。作品の持つ論理に沿い、文法や文章慣習、展開構造の知識を利用し、背景となる社会や時代、文化の知識を参照して、未知の内容を推察する言語処理だけでは不十分である。これまでに蓄積された聖書研究に関する体系を踏襲し、自分の理解をその中に位置づけながら、翻訳を進める必要がある。翻訳作業には批判精神が不可欠である。従来の見解を参照しつつ、同意できる部分は受け入れ、そうでないところは根拠と理由に基づいて自分の主張を示す。それがなければ、新たに訳出する必要はない。

 四福音書が語るイエスのイメージは異なる。だから、どれをベースにするかでその人の持つイエス像が影響される。日本を代表する聖書研究者の一人である田川健三博士はマルコを重視している。

 山浦博士はイエス像をヨハネの記述を中心に構成する。その理由はヨハネが最初期からの弟子で、聞き伝えを集めた他の福音書と異なり、現場で直に見聞きしたものならではの筆致があるからだ。もちろん、ヨハネ自身が筆記したのか、あるいはその弟子の誰かが口述筆記したのかは定かでない。けれども、「この書の伝えるところは、イエシューさま御自らが何者であるかをわれわれにお示しなさるその心でござる」。この認識は特徴的である。

 四福音書は三つの共観福音書とヨハネによる福音書に分けられる。マタイ・ルカ・マルコがほぼ同じ筋と構成をしているのに対し、ヨハネがそれを共有していないからだ。マルコが共観福音書の原資料とされ、マタイとルカはそれをベースに執筆されたと推測されている。ヨハネは、ヤコブとペテロと共に、最初にイエスについて行った使途である。しかし、ヨハネ書は他の福音書より後に成立したとされ、イエスをメシアとする意図が編集からうかがえる。

 この『ヨハネによる福音書』には、おそらく、全福音書の中で最も知られる箇所がある。1章1~5節である。ここの訳を他と比較して見ると、従前のヨハネ理解に再検討を加えていることがわかる。

 古典ギリシャ語原典の他、代表的な聖書、すなわちカトリックの公認するウルガタ、マルティン・ルターによるドイツ語訳聖書、ジェームズ王による英訳の欽定聖書、新共同訳聖書からそれぞれ引用しよう。

ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος, καὶ ὁ λόγος ἦν πρὸς τὸν θεόν, καὶ θεὸς ἦν ὁ λόγος.
οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν θεόν.
πάντα δι᾽ αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἓν ὃ γέγονεν·
ἐν αὐτῷ ζωὴ ἦν, καὶ ἡ ζωὴ ἦν τὸ φῶς τῶν ἀνθρώπων·
καὶ τὸ φῶς ἐν τῇ σκοτίᾳ φαίνει, καὶ ἡ σκοτία αὐτὸ οὐ κατέλαβεν.

In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.
Hoc erat in principio apud Deum.
Omnia per ipsum facta sunt, et sine ipso factum est nihil, quod factum est;
in ipso vita erat, et vita erat lux hominum,
et lux in tenebris lucet, et tenebrae eam non comprehenderunt.

Im anfang war das wort. vnnd das wort war bey
Gott, vnd Gott war das wort, dasselb war ym anfang bey Gott,
Alle ding sind durch dasselb gemacht, vnnd on dasselb ist nichts gemacht was gemacht ist,
Jn yhm war das leben, vnd das leben war eyn liecht der menschen,
vnd das liecht scheynet ynn die finsternis, vnd die finsternis habens nicht begriffen.

In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.
The same was in the beginning with God.
All things were made by him; and without him was not any thing made that was made.
In him was life; and the life was the light of men.
And the light shineth in darkness; and the darkness comprehended it not.

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 ざっと見ただけなら、ラテン語以下の聖書の訳が似通っていると印象を持つだろう。蓄積された教義を踏まえて翻訳作業が進められたと想像がつく。

 日本語訳に関して言うと、この訳文は、新共同訳に限らず、1872年のジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn)訳聖書以来、邦訳聖書ではほとんど同じである。各宗派も独自に翻訳しているが、この箇所に決定的な違いはない。日本の主なキリスト教会の間でこの解釈が共有されていると推察できる。

 一方、山浦訳は次の通りである。

 初めにあったには
神さまの思いだった。
思いは神さまの胸にあった。
その思いこそ神様そのもの。
初めの初めに神さまの
胸のうちにあったもの。

 神さまの
思いが凝って
あらゆる物が生まれ、
それなしに
生まれたものは一つもない。

 神さまの思いには
あらゆるものを生かす力があって、
それはまた。
生きる喜びを人の世に
輝かす光だった。

 光は人の世の
闇を照らしているというのに、
闇に住む人はそのことに
気がつかないでいたのであった。

 明らかに近代の邦訳聖書の訳文と明確に異なっている。これで大丈夫かと疑問もわくだろう。

 すべてを扱う余裕はないので、1章1節の最初の文を検討してみよう。“ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ λόγος”は「エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス」と読む。古典ギリシャ語は高低アクセントなので、ほぼこの通りと思って差し支えない。

 “ἀρχῇ”は「アルケー」である。これには、始めや起源、原理、支配権といった意味がある。この概念は、言うまでもなく、タレスが水にそれを認めたように、西洋哲学の起源の問いであるこの。「アルケー」のニュアンスが生きているのはウルガタのラテン語訳である。”principio” は” principium”の与格形である。「初め」の他に「原理」という意味がある。宇宙の根源原理としての神という命題がここから導き出される。他方、ルター聖書・欽定聖書・新共同訳の訳文にはこれが失われている。

 「アルケー」を「初め」と訳すと、不毛な議論に陥る危険性がある。イマヌエル・カントは、『純粋理性批判』の「先験的理根の輩一の自己矛盾」において、世界が始まりを持つか持たないかという問いについて原理的に解けないと述べている。「初め」という訳語は、堂々巡りを招き、聖書の理解を断片的にしかねない。

 山浦博士も「アルケー」を「初め」と訳している。一見したところでは従前の邦訳を踏襲しているかに思えるが、実際にはそうではない。「アルケー」を動詞と組み合わせて翻訳しているからだ。

 “ἦν”は「ある」や「いる」といった意味の”εἰμί”という動詞の三人称単数未完了過去形である。古典ギリシャ語の動詞のアスペクトには完了・未完了・アオリストがある。未完了過去は、「~していた」や「~したものだ」のように、過去において何度も繰り返されたりもしくは継続されたりした動作や状態、過去の習慣を表わす。未完了過去はフランス語の半過去、スペイン語の線過去、英語の単純過去形・過去進行形が相当する。この活用により、“ἦν”は「ずっと存在していた」というニュアンスを持ち、それ以前の状態が存在しないことが示される。「アルケー」が起源であり、その前はない。

 各言語には固有の発想がある。翻訳はそれを顕在化させて移植させる作業である。ある言語において現在形で語られているからと言って、別の言語もそうだとは限らない。例えば、日本語動作動詞の過去形には、「食った」のように、英語の現在完了形のニュアンスがある。率直に言って、基本的文法事項に見落としがある場合が少なくない。

 ウㇽガタはsum動詞の三人称単数未完了過去形、ルター聖書はsein動詞の三人称過去形、欽定聖書はbe動詞の三人称単数単純過去形である。ただ、ドイツ語に進行形はないし、英語ではbe動詞のような状態動詞は進行形や完了・結果の完了形がない。それぞれの動詞の活用の使用に問題はない。

 日本語の文語の場合、訳語として「あり」が当てられる。そこでは現在と過去の時制の区別がなく、文脈から意味を読み取る必要がある。そのため、未完了過去の翻訳の問題は回避される。

 しかし、口語ではそうはいかない。新共同訳はこの未完了過去を考慮していない。その前がどうだったのかという疑問が示されてしまう。一方、山浦博士は、「この福音書の翻訳について」の中で、翻訳に際して、古典ギリシャ語のアスペクトに注意を払ったと言っている。そこで彼は「アルケー」と未完了過去を組み合わせて「初めにあったのは」と主語として翻訳する。

 この訳によって主語の助詞が「が」から「は」に変更される。「が」は主語が未知情報の際に使われる。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがおりました」。一方、「は」は既知情報の時に使われる。「おじいさんは山にしば刈りに、おばあさんは川に洗濯へ行きました」。「は」の使用により、「アルケー」は既知であり、その前の状態がないことになる。

 「存在する」ではなく、「ある」を用いる場合、未完了過去を動詞だけで日本語に翻訳することは難しい。けれども、助詞の性質を利用すれば、そのニュアンスが出せる。お見事と言うほかない。

 “λόγος”は「ロゴス」である。主格の定冠詞がついているので、原文の主語はこれである。ラテン語と日本語は冠詞のない言語であるからついていないが、ルター聖書と欽定聖書では前置されている。「ロゴス」には、言葉や理由、神託などの意味がある。グレコローマンの伝統的議論ではロゴスは時間と関連している。ロゴスから時間が始まるとされ、アルケーと論じられることは決して唐突ではない。ラテン語以下四つの聖書共に、「言葉」ととっている。これはイエスが神の言葉を伝える預言者であるという解釈に基づいている。

 一方、山浦訳は「ロゴス」を「神さまの思い」としている。この名詞には、確かに、そうした意味がある。山浦博士は「預言者」に代えて「御言持ち」を使っているのだから、イエスが預言者であることを否定していない。山浦博士は神が天地創造に取り掛かる当初をこの文に見ている。「ロゴス」は「言葉」ではなく、「神さまの思い」、すなわち神の意思となる。抽象的な新共同訳と比べて、具体的で、イメージしやすい。

 実は、ヘボン訳の系譜にある邦訳は「言葉」を選んでいるが、それ以前はその解釈をとっていない。先に引用したカール・ギュツラフ訳で見られたように、「ロゴス」を「畏いもの」と訳出している。

 禁教下の琉球王国で布教をしたバーナード・ジャン・ベッテルハイム(Bernard J.Bettelheim)は1851年までに四福音書を翻訳し、ヨハネ1章1節を次のように記している。

ハジマリニカシコイモノヲテ、コノカシコイモノヤシヤウテイトトモニヲタン、カノカシコイモノヤシヤウテイド

 この訳には琉球の言語が混じっていたため、ベッテルハイムは後に改訳する。彼の死後の1873年に新訳がオーストリアで出版されている。そこで次のように改められる。

はじめに かしこいものあり かしこいものハ 神と ともにいます かしこいものハすなわち神

 「かしこいもの」系の聖書は、引用からもわかるように、非常に平易な文体が記されている。これらの聖書は庶民向けに翻訳されている。幕末維新期、武士を始め政治的・経済的支配層は漢文の読み書きができるのが普通である。彼らは聖書を読むにも漢訳で事足り、邦訳を必要としない。一方、庶民には簡単な漢字や仮名の読み書きができる程度も少なくない。彼らに布教するには平易な文体で、その既有知識で十分理解できる邦訳が必須である。「ロゴス」を「言葉」と訳すと、イメージしにくい。広く聖書を共有してもらうには、その訳語はふさわしくない。

 比較のため、プロテスタントの宣教師たちが翻訳した明治元訳(1887)を見てみよう。

 太初(はじめ)に道(ことば)あり道は神と偕(とも)にあり道は即ち神なり

 漢文調で、硬く、誰もが読める文体ではない。この聖書の想定している読者は庶民ではない。社会の支配層に必要とされた教養を身につけたものでなければ理解できない。だから、この訳文は庶民に通じるものを持っていない。文体が場をつくり出す。これを読む限り、キリスト教への改宗は教育水準が高い人たちに集中すると推測できる。

 山浦訳は幕末維新期の庶民向け聖書の系譜につらなる。具体的で、イメージしやすく、読者を選ばない。この文体は、その当時の邦訳聖書をめぐる状況を思い起こさせる点でも、ふさわしい。

 ただ、山浦訳では主語が補語となっている。意訳とは言え、神は主でなければならないという反論もあろう。外来語のままでいいなら、「アルケーはロゴスがずっと存在していた」でかまわないだろうが、そうもいくまい。今後の課題であろう。
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