第3章 ケセン語訳聖書

文字数 4,998文字

第3章 ケセン語訳福音書
 音読に適した福音書の翻訳に取り組んだのが山浦玄嗣博士である。しかし、彼は聖職者でも神学者でもない。キリスト教研究の専門家ではなく、一介の信者である。

 山浦博士は岩手県大船渡市出身の医師である。1940年生まれの彼は、1966年、東北大学医学部を卒業し、後に医学博士号を得ている。博士は東北大学抗酸菌病研究所放射線医学部門助教授や医療法人病院長を歴任し、山浦医院病院長に就任している。専門は放射線治療である。この専門医は徐々に増えているものの、『ガラリヤのイエシュー』刊行から10ヶ月後の2012年8月時点で930名しか全国にいない。

 山浦博士は、1975年頃から地元の気仙地方の方言「ケセン語」の研究に取り組み始めている。気仙地方は岩手県の大船渡市・陸前高田市・住田町・釜石市唐丹町を指す。研究を重ねた博士はケセン語に関する著作も出版する。こうした功績により、1990年、地方文化振興に尽力したと認められ、岩手県教育表彰を受賞している。

 山浦博士の名を全国的に知らしめたのは四福音書のケセン語訳の刊行である。2002年に『ケセン語訳新約聖書 〔1〕マタイによる福音書』を皮切りに、04年までに福音書をすべて訳出する。カトリック大船渡教会信徒であり、四書をローマ教皇庁に献上している。

 福音書を方言に訳すことに対して、不謹慎という批判も寄せられる。しかし、日本語の方言を印欧語と比較して研究を始めたのは、実は、キリスト教の宣教師である。戦国時代の終わり頃から、ポルトガルの宣教師が天草を中心に全国的な布教活動を展開する。彼らはそれを通じて日本語研究にも取り組み、1603年、日本語=ポルトが津語対訳辞書『日葡辞書』を完成する。収録語数3万2000余、日本語をポルトガル式ローマ字綴りで見出しに挙げ、ポルトガル語で訳を付けている。日本語の語形変化や構文を解説、豊富な例文も掲げている。その際、日本語の方言にも留意している。ここから宣教師は方言で福音書を語っていたと推測できる。そうした当時の宣教師よる日本語資料を「キリシタン資料」と呼ぶ。その語学研究は、方言とキリスト教の間には縁があることを伝えている。

 山浦博士が福音書の翻訳に取り組んだきっかけは、地元の非キリスト教徒にも読んで欲しいと思ったからである。そういう願いを持って改めて福音書を読み直してみると、イメージがわきにくい、あるいは意味がとれない箇所を数多く発見する。カトリック信者として子どもの頃から馴染んできたが、実はわかったつもりになっていただけだったと山浦博士は自省する。聖書の文言の示す状況を描写して内的に表象することをせず、ただ記憶していただけだ。状況を思い浮かべて意味を理解することをしていない。

 情報はコードとコンテクストの織り成しによって分節される。前者は継続的・明示的な規則であり、その性質はストック=静的で、秩序を与える。この用法は「ドレス・コード」のコードと思えばよい。一方、後者は一時的・暗黙的な状況であり、その性質はフロー=動的で、創造性をもたらす。コードが強く働く字義的な意味を「デノテーション」、コンテクストによる修辞的意味を「コノテーション」とそれぞれ呼ぶ。ケセン語話者の非キリスト教徒は聖書のコンテクストヲを共有していない。読んでもらうには、それを顕在化する必要がある。

 そこで、山浦博士は古典ギリシャ語原典から訳出するプロジェクトを始める。その際、ケセンの読者にわかりやすいように、共通語ではなく、ケセン語を使うことにする。

 博士は『マタイによる福音書』5章3~4節を次のように訳している。
 
 頼りなぐ、望みなぐ、心細い人ァ幸せだ。神様の懐に抱かさんのァその人達だ。泣ぐ人ァ幸せだ。その人達ァ慰めらィる。

 方言であるので、既存の文字だけでは表記するのが困難である。新たな文字を考案し、ケセン語の発音に対応させている。ケセン語には「し」と「す」の発音の区別がない。それを表わすため、博士は「す」の横棒をとった字を用いている。

 また、訳語の選択は、読者が一般人という理由で、日本語の日常的用法に基づいている。だから、聖書翻訳用特殊用語は避けられる。それらは、「預言者」や「聖霊」、「洗礼」、「安息日」など一般社会ではなじみのない語、「愛」や「つまずき」、「報い」、「栄光」など本来の日本語と離れて独特の意味で使われる語である。

 舞台が現代の日本と地理的・時間的・文化的にあまりに遠いため、イメージがわくように、思いきった意訳が必要だと博士は考える。「隅の親石」(マタイ21: 42)を「大黒柱」、「紫の衣に柔らかい亜麻布」(ルカ16: 19)を「金襴の衣装に緞子の帯」と置き換えたのはそうした例である。この変更はドナルド・キーン博士が太宰治の『斜陽』を訳出する際に、「白足袋」を”white globes”にしたことを思い起こさせる。

 人は既有知識を利用して未知情報を推論して理解する。既有知識を手掛かりに能動的に推論して見知らぬ物事を理解しようとするわけだ。それは既知と未知の知識が統合された内容となる。もちろん、既有知識に依存しすぎて特定方向へ解釈が歪むこともある。山浦博士もそれに配慮している。例えば、日本語で一般的に用いられる「祈り」にはご利益祈願があるけれども、一神教のそれは神を畏れたり、褒め称えたりすることを指す。断りをつけないと、誤解する可能性がある。

 山浦博士の訳文は意訳の傾向が強い。翻訳には大きくソース言語指向とターゲット言語指向がある。前者が原言語を基調に訳すのに対して、後者は訳文を読む読者の文化圏に適合させる。山浦訳はターゲット言語指向である。それには、先に挙げた理由の他に、印欧語の古典ギリシャ語と系統未決の日本語の遠さもある。原文の字句を逐語的に日本語に置き換えるだけでは事足りないと考えるからだ。

 博士は一例として『マタイ書』12章20節を挙げる。これを逐語訳すると、「正義を勝利に向かって投げつける」となるが、まったく意味がわからない。この文の意味は、実は、「力を尽くして正しいことをなせばいつかはきっとうまくいくと信じて働く」である。先の逐語訳を見て、こう理解できる日本語話者はおそらく少ない。だから、意訳をとらざるを得ない。ちなみに、新共同訳は「正義を勝利に導く」とほぼ直訳である。

 さらに、訳した理由と根拠の膨大な解説を本編の後につけている。それらは、博士のk『マタイによる福音書』によると、「ケセン語そのものの意味の解説」、「聖書に述べられている物語の解説」、「聖書に述べられている話の内容についての訳者の解説」の三つに分けられる。

 マタイ5章13節の一般に「地の塩」として知られる字句を「この世の塩」と訳したわけを次のように解説している。

原語はト・ハラス・テース・ゲース。つまり大地(ゲー)の塩(ハラス)ということ。ゲーは大地の意味が第一義で、ついで「この世」の意味になる。死海のあるパレスチナ地方は岩塩の多いところで、ひょっとしたらこれは文字通り「地の塩」つまり岩塩のことかもしれない。となれば、巧みな掛け詞にもなる。塩の主成分は塩化ナトリウムであるが、塩化マグネシウムもかなり含まれていて、これは空気中の水分を吸って潮解という現象を起こし、液化しやすい。当然味も薄まり、役に立たなくなる。どうしようもないから、捨てられて人に踏まれるだけ。また、蛇足ながら、このような岩塩が含まれている土地は塩害で作物が育たないから、農民にとっては困りものである。

 本文と同じ分量でこうした注釈が掲載されている。医師による患者へのインフォームド・コンセントを彷彿させる。受動的な姿勢ではなく、読者にもエンパワーメントが期待される。

 聖書をめぐる研究には二つのアプローチがある。旧約聖書を例に説明しよう。関根清三東京大学教授は、『旧約聖書と哲学』(2008)において、旧約聖書へのアプローチには歴史学的と哲学的の二つがあると言っている。その歴史的アプローチは、分析のレベルの違いによって、本文批判・文書批判・伝承史的研究・編集史的研究・様式的研究・伝統史的研究に区分され、「歴史的意味規定」を目標とする。

 まず、本文批判は各種の古代語訳や写本を照らし合わせ、文法・語彙・表現を分析して原典を確定する作業である。次の文書批判は各本文から形成される全体との関連を吟味しつつ、個々の主題・文体などを検討し、その特質のある単元を規定する作業である。旧約聖書は文書化される以前に口伝伝承の時期を経ていると想定されている。この諸段階と歴史的要因の関連、伝承の姿を明らかにするのが伝承史的研究である。こうした口承が文書化され、加筆・補足・註釈などの編集過程を通じて現在の定本に至った行程を探求する編集史的研究である。その際、作者や口承者、編集者は彼らが属している集団の文学的規範に則り、類型的に語り、記されていたとして、それを浮き彫りにするのが様式史的研究である。最後の伝統史的研究は、彼らが前提としていた精神史的・文化史的・思想史的な背景伝統と認め、それらの中で何に基づいて本文を形成していったのかを用語のレベルまで及んで考察する作業である。

 現代の聖書研究は、全般的に言って、哲学的アプローチをとらない。研究は成果が共有・蓄積されて人類の営みに貢献する。それには専門家集団が妥当と認める客観性に基づいている必要がある。けれども、「神学論争」が不毛な議論の譬えとして使われるように、解釈はそれに概して乏しい。そのため、専門家は専ら聖書やキリスト教をめぐる歴史を研究する。それは環境重視から「エコロジー」とも言えるが、場の相互作用を解き明かす試みである。

 山浦博士の解説も文言の解釈ではない。引用が示すように、原語や背景の説明が主で、その上でこの訳を選んだ理由が語られる。また、博士は福音書に見られる奇跡や超自然的現象を無批判に受け入れない。なぜそのような記述になっているのかを誤訳や認知バイアス、神話化などを使って解き明かす。ただ、それはイエスの虚像を剥ぎ取る悪意ではない。イエスの奇跡の持つ社会的意味を検証するものだ。奇跡を通して社会を見る時、そのありようが顕在化する。

 ヨハネ6章1~14節など四福音書で語られるパンと魚の軌跡は5.000人の給食の軌跡とも呼ばれ、よく知られている。山浦博士はこの五つのパンと三匹の魚がイエスによって増え、大勢の空腹を満たしたという話を相互扶助と読み取る。これは、それぞれが持っていたなけなしの食糧を出し合い、みんなで分け合って食べたと理解すべきである。イエスによって人々の意識が変わり、相互扶助の行動を行ったというわけだ。

 山浦博士はこのように奇跡を社会的メッセージから理解している。特定宗派のイデオロギーに沿うように訳文を構成していない。歴史学や文献学、言語学などの成果を参照して、福音書を訳出する。それは歴史家の眼である。専門家集団に向けて書いてはいないけれども、歴史アプローチをとっている。

 見逃してならないのはケセン語訳にはCDが附属していることである。ケセン語訳福音書には訳者自身による朗読を収録したCDが3~4枚ついている。方言を用いることは音読を必要とするからだ。方言による訳文は書き手と読み手の場をつくり出す。

 一つの言語内部に、音韻や文法、語彙などの面で相違があり、それによって複数のグループに分けられる時、その分割集合を「方言」と呼ぶ。特に、その相違が地域差に基づいている場合に用いられる。また、社会集団から生じている場合には「位相」と呼ぶ。日本語では男女差が顕著であるが、これが位相の例である。

 今日の日本語の書き言葉は、東京方言をベースにした共通語に基づいている。方言は専ら話し言葉である。それは方言が公的ではなく、私的な場で使われることを意味する。しかし、その私的な場は個人主義的ではない。方言によるコミュニケーションはコンテクストの共有を確認・強化するからだ。書き言葉を持たないのだから、方言は黙読と無縁である。それゆえ、福音書を方言に翻訳することはそれを朗誦されるものへと回復させる試みである。
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