第3章 第5話

文字数 2,347文字

 幽谷を流れる早川を渡り、カーナビ嬢の導きにより、申告していた到着時刻よりも一時間ほど遅れて旅館にたどり着く。

 建物は質素ながらかなり質の良い木材をふんだんに使用しており、一見してただの温泉旅館とは格の違いは明白だ。自然の中にひっそりと佇む大人の隠れ家、なんて他社のサイトのキャッチコピーそのままの姿につい苦笑いが出てしまう。

 隣のもはや爆睡状態である眠れる森の鬼女の肩を叩く。
「おい、クイーン、着いたぞ」
「っセーな、馬鹿やろ… お、着いたかー、…えっ……」

 自然に溶け込んでいるかの様な建物を一目見て、クイーンは固まってしまう。
「どうした?」
「お、お、おま、こ、ここなのか?」
「どうやらそうらしいな」
「な、なんか、敷居高そーじゃねーか、ア、アタシやっぱいーわ」

 まさかのクイーンの挙動に俺は面食らう。
「は、な、何言ってんの、今更?」
「ば、馬鹿、こんな高級なとこ、無理だって」

 両腕を前で組み、助手席から動こうとしないクイーン。
「無理? 意味がわからん。さ、行くぞ。あ、その前に涎拭け」
 この女のことをそれほど知っている訳ではない。何しろ地元の有名な暴れん坊、もとい、暴れん嬢… 表現不能か… さて置き。兎も角、こんな弱気を垣間見せる女とは思いもしなかった。
 想定ではいつもの態度で『おっ、まあまあじゃねーか。タダ風呂タダ飯、ヒャッハー、あ、おっさん、この荷物頼むわー』くらいはアリと踏んでいたのだが。

 無理やり車から引きずり出したこの女は挙動不審、葵たちの言葉で言う、キョドッている事甚だしく、駐車案内の係りの人に何度も深くお辞儀するは、深緑の中にひっそりと佇む宿を見上げて口を押さえて硬直して動かなくなるは、入り口に向かう俺の後ろを怯えながらコソコソ歩くは… 全てを動画で撮っておかなかった事を後日どれ程後悔しただろう。

「お前、よく温泉旅館行くんだろ?」
「だ、だから、こんなスゲーとこじゃないんだって」
「スゲーもクソもあるかよ。たかが温泉、宿飯だろうが。ビクビクすんなって」
「お、オメーは慣れてんだろうが、アタシにゃ場違いってか、その…」
「はーーー? らしくねえな、さ、行くぞ」
「ちょ、待てって、おい、待って」

 そう言いながら、俺のジャケットの後ろをギュッと握っている。
 なんだこの感覚。俺の心に一瞬だが『この女可愛い』感が過ぎったぞ。なんだこの縋るような眼差し。微かに震えている細い手。真っ赤になっている形の良い耳。一瞬で過ぎ去ると思った感情が、意外にも俺の心に暖かさを灯し始めた時。

「お、おい。鼻毛出てんぞお前」
 急速冷凍。俺が馬鹿でした俺が馬鹿でした俺が馬鹿でした

「金光さま、お待ちしておりました。旅行代理店、『鳥の羽』さまを通しての日帰りのご予約で間違いございませんでしょうか」
「ああ。今日は宜しくね」
「それではこちらにお名前と連絡先の記帳をお願いいたします」
「はいはい。サラサラサラ〜っと。同伴者? おい、お前あと書いといてくれ」

 ペンを持つ手がリアルに震えている。それも震度五強はある。それに小学生が見たら驚き呆れる書き順で書かれた名前を判読するには、もう少し文明が発展しなければ不可能だろう。住所に至っては、東京にこんな地名は無い、位に無残な出来栄えである。

 フロントの受付嬢はそれでも顔色変えず笑顔を絶やさずにいる。へえ、やるじゃないか、銀の竪琴。東京のそこそこのシティーホテルレベルじゃないか。
 感心して二人を眺めていると、額から汗を流しながらクイーンが俺を恨めしそうに見る。何故か罪悪感を感じる。フロントを離れ、部屋に案内してもらいながらこの旅館の風呂について説明を受ける。各部屋に内風呂があり、他に内湯、露天があると言う。

 山本くんからの資料にも書いてあったが、この複数の湯の意味が正直わからない。風呂なぞ一つあればいいではないか。何故露天? まあこれも仕事だ。俺の好き嫌いは置いておかねば正鵠を得られまい。案内された部屋に上がり、唖然とする。

「それではどうぞごゆっくりお寛ぎください。お食事は5時にお部屋に準備いたします」
 バッタの如く何度もペコペコお辞儀をするクイーンを横目に、この部屋の素晴らしさをどう会社でプレゼンすれば良いか頭を悩ませる。俺みたいな温泉旅館素人でもわかるこの高級感、そして清潔感。畳、調度品、障子、全てに圧倒される。目を閉じると何とも言えない畳の香りについ笑みが溢れてしまう。

 そして部屋付きの内風呂を見て心底仰天してしまう。すごいな日本人、これは文化だ。入浴という習慣を文化にまで高め、その極みを見た気がする。間違いない、この風呂に浸かれば俺の入浴に対する概念が大きく変わる。そう思わせる何かを一人感じていると、
「ビ、ビール飲まねえか?」
「そうだな。俺は一杯くらいなら飲むかな」

 冷蔵庫に入っていた箱根の地ビールを空け、グラスに注ぎ二人で乾杯だ。
「プハー、生き返ったー、いやー、参ったわー」
「何なんだよ、さっきからお前、借りてきた化猫みたいじゃないか」
「だからよー、こんな高級なトコ、生まれて初めてなんだよ。お前と違ってアタシは庶民様なんだからよ」
「俺だって同じだって。そもそも温泉旅館なんて滅多に来ないんだからさ。やっぱここは普通の旅館とは相当違うのか?」
「ぜっんぜん違う。何から何まで全然。」
「何から何まで?」
「駐車場に止まってる車が違う。全部高級車」
「そ、それは客筋の問題だろ」
「全てがあまりに綺麗すぎて、スッゲー緊張する」
「それは普段薄汚いお前の問題だろ」
「受付とか仲居さんが丁寧で優しいけど目が笑ってない」
「それはお前が不審すぎるからだろー… あれ怒んないのか?」
「お前とかどーでもいいくらい、ここは綺麗で高級で、キンチョーする」
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登場人物紹介

島田光子 

1966年12月1日 東京都江東区深川に生まれる

中学の頃は地域イチの不良娘であり、『深川のクイーン』を知らぬものはいなかったと言われている。

現在、門前仲町で『居酒屋 しまだ』を経営。

弁護士の長女、獣医の長男、ミュージシャンの次男、それに中学生の孫がいる。

中学時代の同級生だった金光軍司に昔から惚れており、、、

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